第32話





 日も昇っていないような薄暗い早朝の空の下、一つだけ動き出す影。その影は物音を立てよう慎重に、静かに部屋を抜け出し、階段を降りていく。その両眼に確かな意思を携えながら。


 後ろめたい気持ちのせいか、心なしか普段より軋むように感じる階段を降り切り、意図せずふっと息が漏れる。心が緩んだ、その時だった。


「何してるんですか」

「ぎっ」


 聞こえてくるはずのない、聞こえてはならない声にセシリアは小さく悲鳴をあげた。いつもだったら確実に眠っている時間帯、ここにいていいはずがない。だが、現実としてレナはいつの間にかセシリアの目の前に立っていた。


 怪訝そうにセシリアを覗くその顔に眠気は見当たらない。今さっき起きたばかりではなく、なんらかの意図を持ってここにいたことは明白だった。


「少し目が冴えてしまってね。夜風、じゃないな朝風かな? まあ、風に当たろうかと」

「それだけじゃないですよね」


 念のために考えていた言い訳に返ってきたのは、確信に満ちた目。こんなところにわざわざ突っ立っていたのだから、レナには何かが分かっていたのだろう。ただ、セシリアには、何がレナにそう思わせてしまったか分からなかった。


 だが原因などもはや関係ない、セシリアにはしなければならないことがあるのだから。レナには反対されるだろう、後で真実を知れば怒りもするだろう。だけど……


 ——今は、今だけは許してほしい。


 例えこれが最後のやりとりとなってしまったとしても、今行かなければ、セシリアはセシリアでいられなくなってしまうだろうから。ささくれ立つ心を今は無視して、レナにありったけの笑顔を見せる。


「何のことかな? と、とにかく僕は行くね」


 軽薄で不誠実なセシリアの返答に顔を俯かせるレナ。セシリアもそんな反応が返ってくることは分かっていた。だから胸の痛みも最小限で済んだ。


 ——これでこの関係も終わりか


 自分勝手な悲しみを抱えながら俯くレナの横をすり抜けようとすると、がっと腕を捕まれ、阻まれる。


「なっ」

「またですか。くだらない誤魔化しはやめてくださいと言いましたよね?」


 突然の出来事にセシリアが抗議の声をあげようとすると、レナの冷ややかな声がそれをさせない。それはレナの口から初めて聞いた声音だった。心胆寒からしめるような静かな怒りが、強く握られたセシリアの右腕から伝わってきていた。


「誤魔化しって」

「森に行くんですね」

「っ!」


 尚も醜く足掻くセシリアにレナは淡々とその目的を言い当ててみせた。あまりにも図星な発言に、思考が鈍りセシリアは息を呑む。その反応でレナは予想を確信に変える。


 時が止まったようにも感じる静寂、破ったのはレナだった。俯いたその顔を上げ、セシリアを下から覗いて、悲し気な表情を浮かべて、訊いた。


「どうしてですか? 危険な魔物を倒して英雄にでもなりたいんですか?!」

「違う!」


 思わず声を大にして否定するセシリア。急な変わりようにレナがびくりと体を震わせる。むしろそうでありたかった、自分勝手に我が儘に、憧れだけを追いかけられればどれほど良かったか。


「違うんだ、そうじゃないんだよ」


 今度は縋りつくように、誰かに言い訳するように、セシリアは弱弱しく吐露していく。セシリアの異常な様子にレナはただ黙って聞き入る他なかった。




「現れた凶暴な魔物ってのはスティフベアが進化したやつなんだ。僕が、僕がそうしてしまったんだ。僕が強ければ、あの時倒し切れていればこんなことにはならなかったんだ」


 強い後悔の念。やり切れない忸怩たる思い。それがセシリアを突き動かしていた。功名心に駆られての行動であれば、まだ自制も利いた。レナの心配を受け止め、無謀をしないと誓うこともできた。だけど、今回は違う。自らの不始末に、自らの手で決着をつける、ただそれだけなのだから。


「だから、僕が行かないと。僕にはその責任がある」

「……でも、今日討伐に行くんですよ? きっと大丈夫ですって」

「もしも、誰か死んだら? きっと、いや絶対に僕は自分を許せない」


 それだけは疑いようがなかった。既にけが人は出てしまった。自分のせいで、けが人のみならず死人まで出てしまったら……。そう、セシリアは怯えていた。


「それなら、私も連れて行ってください」

「——はっ?」


 そんなセシリアの耳に入ってきたのは意味不明な要望、理解できずに呆けた間抜けな声が漏れる。真意を問い質そうとレナを見つめると、レナは真剣な表情で理由を語り始めた。


「だって、私にも責任がありますから」

「な、どうして?」

「どうしてって、私がお願いしたんですから当然じゃないですか」

「そんなわけないだろ」

「なら、セシリアさんのせいでもありません」

「違う、僕のせいだ」


 話はどこまでも平行線で、実力行使に出るのは当然の帰結であった。レナは掴んでいたセシリアの右腕にしがみつくようにして言った。


「連れて行ってくれないなら、ここ退きませんから」

「……力尽くで行けないとでも?」


 あくまで譲るつもりのないレナに、セシリアが凄みを利かせる。すると、レナはそんなセシリアを見て微笑んだ。


「セシリアさんにはきっとできませんよ」


 ぎゅっと両腕でしっかりと抱え込むようにセシリアの腕を挟むレナ。無理やり引き抜こうとすれば多少なりともレナを傷つけてしまう恐れがあった。そしてそれは、セシリアにとってこれ以上ないほどに有効な脅しであった。


 ——くっ、どうしてレナはこう、強情なんだ?


 仕方ない、力による解決は最終手段として、まずは話し合いと、セシリアはレナを説得し始めた。


「遊びじゃないんだ。もしかすると、死ぬかもしれないんだぞ?」

「分かってます。でもそれはセシリアさんも同じですよね」

「分かってない。それにまだレナは子どもじゃないか」

「もう成人しました。恩寵ギフトも貰ってますし」




「危なすぎる。お母さんが許すと思っているのか?」

「セシリアさんだって家族の反対を押し切って冒険者やってるじゃないですか!」




「森に入るのは禁止されているんだぞ? 犯罪者になりたいのか!」

「じゃあ、セシリアさんもやめてください」

「僕には行く理由がある!」

「なら私にもあります!」




 言い争いは徐々にヒートアップしていき、互いに遠慮がなくなっていく。幸いレナの母の部屋がここから少し離れているため起きてくる様子はなかったが、それはそれで仲裁役が現れないことを示していた。


 そうこうしているうちに、ついに朝日が昇り始め、夜の闇が少しずつ駆逐されていった。


 ——もうこんな時間か。


 セシリアに残された時間は少ない。そろそろ力尽くも視野に入ってきた頃、レナが落ち着いた様子で言った。


「怪我をしたらすぐに治してみせますから、きっと役に立ちますよ」

「まだそこまでの精度は君には無理だろう?」

「そこは頑張りますから」

「……」


 ——このままじゃ、僕よりも先に討伐隊が接敵しかねない、か。


 このまま言い合っていても埒が明かない、どころかセシリアの方が分が悪い。時間はレナの味方だった。目を閉じ、じっくり考えると、おのずと答えは浮かんできた。


「はぁああ。分かった、僕の負けだ」

「じゃあ!」

「ああ、君を森に連れていこう」


 大きなため息を吐き、セシリアが折れる形で、今日最初の戦いの幕は下りた。




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