第50話

「兄上、ご無事ですか」

 エディルが、王の間へと続く扉を開ける。手前の控室では、深い緑のドレスに白いエプロン姿の王付きの侍女たちが怯えたようすで無言のまま身を寄せ合っていた。エディルはそれを一瞥し、王の間の扉を開けた。

 だが、そこにユリウス王の姿はなく、奥の扉の前に立つ武装した道士がひとり、とっさに身構えた。

 その男が呪術を使うより早く、エディルは身を低くして走り、意表を突かれた男の腹に拳を叩きこんで、体勢を崩した相手の首を腕で締め上げた。銀の虎騎士団のひとりが素早く駆け寄って男を拘束する。

 見事な連携プレイに、ミンファは目を瞠るばかりだ。

 騎士がひとり、ミンファにささやく。

「驚かれましたか、お嬢さん。殿下は剣こそ抜かれないが、ああ見えて、いつも我々相手に素手で戦う稽古をなさっておられるのです」

「ああ見えて、は余計だぞ」

 不満そうなエディルに、

「おや、聞こえていましたか」

 騎士は軽く笑って返した。

 室内を見まわしたエディルは、さっきまで武装した道士が背にしていた扉の前に立った。この扉の向こうは、王妃の間だ。

「兄上は、そちらにおわしますか?」

 エディルの問いかけに、ややあって低い答えが返る。

「……ああ」

 王の声だ。

「失礼いたします」

 エディルはそう言って、扉を開けた。

 室内には王と王妃、そして王妃付きの青いドレスの侍女が四人いるだけで、ここにはさすがに道士たちの姿はなかった。エディルも王妃の間には入らず、戸口で言う。

「兄上も義姉上も、ご無事でしたか」

「ああ」

 ホッとするエディルに、王はソファの肘掛に寄りかかったまま、低い声で力なく応じた。

「兄上……? もしや、お怪我でも?」

「いや、無傷だ」

 そう言って、王は身を起こした。それから、あらためて弟に語りかける。

「私は、おまえに謝らなければならない」

「え……?」

 思い当たることはないらしく、エディルは翡翠色の瞳を丸くした。

「先日、黒い森から巫女の棺を運んできたそうだな」

「……ご存知でしたか」

「おまえの呪いを解いてくれた玉兎巫女が、九年も前に亡くなっていたのだと聞いた」

 母の話題に、ミンファも緊張してエディルの後ろで耳を傾けたが、ユリウス王はミンファが玉兎巫女の娘だということまでは聞いていないらしく、エディルだけを見つめて言う。

「すまない、エディル。私のせいだ」

「兄上?」

「九年前、例の呪いを半分だけ浄化した玉兎巫女が帰るというとき、私は、迎えにきた夫とともに宮城から出ようとしていた彼女を呼び止め、頼んだのだ。黒い森の呪禁師に奪われた母の寿命を取り戻してくれ、と」

「…………」

 思わぬ告白に、エディルもミンファも息を呑んで絶句した。

 ほかの者たちは何の話かわからずに、口を挟むことなく王と王弟を交互に見た。

「それがどんなに困難なことなのか、当時の私は考えもしなかった。玉兎巫女はただ微笑んで、できるだけの手は尽くしましょうと言ってくれた。けれど、それから音沙汰がないまま、母はわずか数年で亡くなってしまい……私は、玉兎巫女に裏切られたのだと思っていたのだ」

 だが、そうではなかった。玉兎巫女は約束どおり黒い森を訪ね、殺されたのだった。

「…………」

 ミンファは、膝の震えを抑えることができなかった。

(落ち着いて……取り乱しては、だめ)

 自分自身に言い聞かせる。

 エディルは、振り返ろうとはしなかった。

 ここで振り返れば、王にマヤの身内がここにいると教えることになる。隠すことではないが、それは今告げることではない。

 それでも、エディルがミンファを気遣ってくれていることは、背中から感じられた。エディルは母マヤの最期を想って悼み、一緒に悲しんでくれている。ミンファはそう感じた。

 エディルが言う。

「兄上が詫びられることではありません」

「しかし……」

「マヤは……玉兎巫女は、兄上の望みを叶えたいと考えて黒い森へ行ってくれたのです。残念な結果にはなってしまいましたが、そのことで兄上を恨んだり後悔したりはしなかったでしょう」

 ミンファも、そう思う。代わりに語ってくれたエディルに、心の内で感謝した。

 ユリウス王はそれで納得したわけではなさそうだったが、弟相手に言い募ることでもないと考えたのか、黙って小さくうなずいた。

「それより、兄上、すぐにソロパレスに」

「行かないよ」

 王の返事に、エディルは驚いて立ち尽くす。

「何を……?」

「行かない。私はもう王ではないのだ」

 ここからソロパレス前の広場は見えないが、おそらくそこではすでに道士長がウェン将軍を出迎えている。

「しかし、今ならまだ間に合います!」

「行かないよ。私が王であることを、国民も……王妃さえも、望んでいないのだ」

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