第四章 過去の影

 二月の寒さが一段と厳しくなった週末、麻里子は実家を訪れていた。母の佐伯幸子が住む郊外の一軒家は、麻里子が育った場所だった。訪問は月に一度のペースを守っていたが、今日は少し気持ちが重かった。


 玄関を開けると、懐かしい香りが鼻をくすぐった。母特製の味噌汁の匂いだ。


「ただいま」


「おかえり、麻里子」


 幸子は台所から顔を出した。五十八歳になった母の髪にはすっかり白いものが混じっていたが、その表情は柔らかく、麻里子を見る目は相変わらず優しかった。


「寒かったでしょう。すぐに温かいものを出すわね」


 麻里子は居間に座り、テーブルに広げられた写真アルバムに目を留めた。


「これは?」


「ああ、押し入れの整理をしていたら出てきたの」


 幸子は麻里子の前にお茶を置きながら答えた。アルバムには、麻里子が小学生だった頃の写真が並んでいた。笑顔の家族写真。父と母と麻里子。三人の幸せそうな姿。


 麻里子は無意識に写真の一角を爪で弾いた。父の笑顔を。


「まだ引きずってるの?」


 母の声に、麻里子は顔を上げた。


「何を?」


「お父さんのこと」


 幸子の表情は複雑だった。悲しみと諦め、そして心配が混ざり合っている。麻里子は黙って写真を見つめた。


「もう十五年も経つのよ」


「でも、私たちを捨てたことに変わりはないわ」


 麻里子の声は冷たかった。父親が家を出たのは彼女が高校二年生の時。それは突然のことだった。単身赴任先で若い女性と関係を持ち、新しい家族を作ることを選んだのだ。


「あの人は私たちを捨てたんじゃない。ただ、弱かっただけよ」


 幸子の言葉に、麻里子は驚いて母を見た。


「いつもそう言うけれど、母さんはなぜそんなに父を擁護するの? あれだけ傷つけられたのに」


 幸子は静かに微笑んだ。


「人を恨み続けることは、自分自身を縛ること。私はもう自由になりたかったの」


 彼女はそっと麻里子の手を取った。


「あなたもね」


 麻里子は言葉に詰まった。自由になる——それは麻里子自身が最も求めていたことではなかったか。仕事に没頭し、他者との深い関わりを避け、自分の心を守ってきたのも、傷つきたくないという恐れからだった。


 しかし、本当にそれで自由だったのだろうか。


 食事の後、二人はリビングでくつろいでいた。麻里子は高瀬の原稿を広げ、最終チェックをしていた。


「随分熱心ね」


 母の言葉に、麻里子は顔を上げた。


「締切が近いから」


「その著者さん、どんな人なの?」


「優れた作家よ。繊細な感性を持っていて……」


 言いながら、麻里子は自分の声のトーンが変わっていることに気づいた。少し柔らかく、少し温かく。


「へえ、珍しいわね」


 幸子の目が細められた。その表情は何かを見抜いたようだった。


「何が?」


「あなたが著者のことをそんな風に話すなんて」


 麻里子は頬が熱くなるのを感じた。


「単に仕事熱心なだけよ」


「そう」


 幸子は紅茶を一口飲み、さりげなく話題を変えた。


「そういえば、あなたが子供の頃に大好きだった絵本、覚えてる? 『星の王子さま』じゃなくて、もっとマイナーな……」


「『青い鳥の帰る場所』!」


 麻里子は思わず声を上げた。絵も文章も美しい絵本だった。しかし、出版社が倒産し、後に再版されることはなかった。中学生の時に引っ越しで紛失してから、もう手に入れることはできないと諦めていた。


「そう、それ。あなた、十歳の誕生日にもらって、ボロボロになるまで読んでたわね」


 麻里子は懐かしさで胸がいっぱいになった。あの絵本は、彼女の原点だった。文学への愛、言葉の魔法を信じる心——それらはすべて、あの小さな絵本から始まったのかもしれない。


 実家から帰る電車の中で、麻里子は窓に映る自分の顔を見つめていた。


 過去の影——それは彼女をずっと追いかけてきた。父の裏切り、最初の恋人との別れ、仕事で経験した挫折。それらは全て、彼女の心に壁を築き上げる材料となった。


 スマートフォンが震えた。高瀬からのメッセージだった。


『佐伯さん、原稿の修正版を送りました。あと、明日のことですが、少し早めに会えませんか? あなたへのプレゼントがあります』


 プレゼント? 麻里子は眉をひそめた。明日は……そうだ、彼女の誕生日だった。


 それを高瀬が知っているというのは不思議ではなかった。出版社の社員情報から調べることは容易だろう。しかし、それを覚えていてプレゼントを用意するというのは……。


 彼女は返信を躊躇った。線引きをすべきだろうか。それとも、受け入れるべきだろうか。


 心の奥で、小さな声が囁いた。「怖がらないで」と。


『分かりました。いつもの場所で11時でよろしいでしょうか』


 心がざわつくのを抑えつつ、あえて簡素な返事を送った。



 翌日、カフェでの待ち合わせ。麻里子は少し緊張していた。いつもの編集会議とは違う雰囲気を感じていたからだ。


 高瀬は約束の時間より五分早く現れた。彼の手には、古い本を思わせる包みが抱えられていた。


「おはようございます。お誕生日おめでとうございます」


 高瀬の声は静かだったが、目は輝いていた。麻里子は少し恥ずかしさを感じながらも、感謝の言葉を返した。


「ありがとうございます。でも、どうやって……」


「SNSのプロフィールに書いてありました」


 高瀬はそう言いながら、包みを差し出した。


「開けてみてください」


 麻里子は丁寧に包装を解いた。そこに現れたのは、一冊の古い絵本だった。『青い鳥の帰る場所』——。


 彼女は言葉を失った。昨日母と話したばかりの、失われたと思っていた絵本。それがここにある。


「どうして……こんな絶版になった本を」


「偶然見つけたんです。古書店の奥の棚で」


 高瀬の説明は自然だったが、麻里子には不思議でならなかった。彼女が探し続けても見つからなかったものを、どうして高瀬が見つけることができたのか。


「あなたが子供の頃に読んでいたと聞いて。インタビュー記事で」


 確かに昨年、ある文芸誌で好きな本について語ったときに、この絵本のことを少しだけ話したことがあった。彼はそれを覚えていたのだ。


 麻里子は絵本を開いた。懐かしい挿絵、忘れられない言葉たち。子供の頃に感じた不思議な魔法が、今も色褪せずにそこにあった。


「ありがとう」


 シンプルな言葉だったが、麻里子の声には深い感謝が込められていた。高瀬はそっと微笑んだ。


「佐伯さんの顔を見たかったんです。その本を開くときの」


 その言葉に、麻里子は高瀬をじっと見つめた。彼の目には優しさと、何か言葉にできないものが宿っていた。


 打ち合わせの後、二人は並んで歩いていた。春の兆しが感じられる二月の陽光が、街を明るく照らしている。


「佐伯さん」


 高瀬が立ち止まった。


「もし良ければ、僕の新しい小説の構想について、もっと話を聞いてもらえませんか。今度の休日に」


 それは明らかに仕事の範疇を超えた誘いだった。以前なら、麻里子は迷わず断っていただろう。しかし今は……。


「私の家でもいいですか?」


 麻里子の答えに、高瀬の目が少し大きく開いた。それから、彼は柔らかな微笑みを浮かべた。


「ありがとうございます」



 休日の午後、麻里子のマンションに高瀬が訪れた。彼は新作の構想メモと共に、手作りのケーキを持ってきていた。


「お菓子作りもするんですね」


「たまにです。気分転換に」


 二人はリビングのテーブルを挟んで、新作について話し合った。高瀬の新しい小説は、過去の記憶に囚われた女性が、偶然の出会いによって人生を取り戻すという物語だった。


「主人公の心理描写が素晴らしいわ」


 麻里子は心からの感想を述べた。


「実は、あなたからインスピレーションをもらったんです」


 高瀬の言葉に、麻里子は驚いた。


「私から?」


「佐伯さんの目に映る世界が知りたくて」


 高瀬の声は静かだったが、その言葉は彼女の心に深く沈んでいった。


 麻里子は立ち上がり、台所からワインを取り出した。いつもなら仕事中のアルコールは避けるが、今日は特別だった。彼女自身も認めざるを得なかった——これはもう単なる仕事の打ち合わせではない。


「乾杯しましょう」


 グラスを合わせる音が、静かな部屋に響いた。


「これからの物語に」


 高瀬の言葉には二重の意味があるように感じられた。小説の物語、そして彼らの物語。


 夕暮れが近づくにつれ、会話はより個人的なものへと変わっていった。麻里子は自分でも驚くほど、高瀬に心を開いていた。


「私の父は、私が高校生の時に家を出たの」


 突然、麻里子は自分の過去について話し始めた。それは彼女が普段、誰にも語らないことだった。


「新しい女性と、新しい家族を選んだ。母と私を置いて」


 高瀬は黙って聞いていた。彼の目には深い理解の色が浮かんでいた。


「それから、人を信じることが怖くなった」


 麻里子は窓の外を見た。夕暮れの空が、オレンジと紫に染まっている。


「特に、男性を」


 高瀬は静かに彼女の手に触れた。


「怖いのは当然です。傷ついたから」


 彼の言葉は優しかった。裁くのではなく、ただ理解しようとする態度。


「でも、その恐れが今のあなたを作った。仕事に誠実で、責任感が強く、何よりも言葉の力を信じる人を」


 麻里子は高瀬を見つめた。彼は自分をどこまで見抜いているのだろう。


「あなたは不思議な人ね」


「どうして?」


「私のことを、まるで長い間知っているみたい」


 高瀬は微笑んだが、その目には何か隠された感情が浮かんでいた。


「もしかしたら、そうかもしれませんね」


 高瀬が帰った後、麻里子は『青い鳥の帰る場所』を手に取った。子供の頃に何度も読んだページを一枚一枚めくりながら、彼女は考えていた。


 過去の影——それは確かに彼女を長い間支配してきた。父親の裏切り、最初の恋人との痛ましい別れ、そしてそれ以来築き上げてきた心の壁。


 しかし今、その壁に小さな隙間が生まれていることを感じていた。高瀬の存在が、その隙間から差し込む光のように思えた。


 麻里子は絵本の最後のページを開いた。そこには美しい一節があった。


『青い鳥は言った。「帰る場所を見つけるには、まず飛ぶことを恐れないこと。そして、翼を広げること」』


 麻里子は深く息を吸った。翼を広げること——それは彼女が最も恐れていたことだった。しかし今、その勇気が少しずつ湧いてくるのを感じていた。


 モモが彼女の膝に飛び乗り、絵本のページを好奇心いっぱいに嗅いだ。麻里子は猫を撫でながら、心の中で決意を固めた。


 過去の影は、いつか光となるかもしれない。その光に導かれるように、彼女は一歩踏み出す準備を始めていた。

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