二十三時の告白

海野雫

第一章 二十三時の編集会議

 窓の外は、十一月の冷たい雨が東京の夜景を滲ませていた。オフィスビルの灯りが濡れた路面に揺れる光の帯を作り、時折通り過ぎるタクシーのヘッドライトが水滴を金色に染める。


 佐伯麻里子は、会議室の窓辺に立ち、自分の姿が暗いガラスに映り込むのを見つめていた。三十二歳。髪を耳にかけるとき、左手の小指は少し震えていた。締め切りに追われる日々の疲れが、自分の顔にはっきりと刻まれていることに気づく。


「佐伯さん、お待たせしました」


 低く落ち着いた声に振り返ると、ドアの前に高瀬陽一が立っていた。黒のジャケットに白いシャツ、簡素ながら洗練された装いは、彼の作品そのもののようだった。三十四歳。デビュー作でミステリー文学賞を受賞した新進気鋭の作家。そして今日から自分が担当する著者。


「いえ、こちらこそ遅い時間にありがとうございます」


 麻里子は笑顔を作りながら、会議用の資料を机の上に並べ始めた。時計の針は二十二時四十五分を指している。出版業界では珍しくない時間だが、初めての顔合わせとしては少々非常識かもしれない。それでも高瀬は快く応じてくれた。


「構いませんよ。夜型なので」


 高瀬は麻里子の向かいの席に座りながら、「それに」と言葉を継いだ。


「佐伯さんの都合に合わせたかったので」


 彼の言葉には不思議な重みがあった。それは単なる社交辞令とは違う、何か別の意味を含んでいるような響き。だが麻里子には考える余裕がなかった。彼女は資料のページをめくりながら、編集会議を始めた。


「新作の構想について、編集部としていくつか提案があります。前作の読者層を分析すると……」


 麻里子の言葉は正確で簡潔だった。それは彼女の仕事のやり方そのもの——感情を挟まず、効率よく、確実に。


 しかし、話している間も、高瀬の視線が絶えず自分に注がれていることに気づいていた。それは単に話を聞いているというより、何かを探るような、見透かすような視線だった。


「……そして発売時期は来年の六月を予定していますが、いかがでしょうか」


 麻里子が言い終えると、会議室には一瞬の沈黙が流れた。雨の音だけが窓を打つ。高瀬は黙って資料に目を通していた。その表情からは何も読み取れない。


「面白いですね」


 突然、高瀬が顔を上げた。


「佐伯さんは、私の作品をどう思われましたか?」


 その質問は予想外だった。通常、こういった初回の編集会議では、作品のマーケティングや日程調整が中心になる。著者の感想を求められることはあっても、編集者の個人的な感想が話題になることは少ない。


「私個人の意見ですか?」


「はい。率直に聞かせてください」


 高瀬の表情は真剣だった。麻里子は一瞬迷った後、普段とは違う言葉を選んだ。


「……登場人物が抱える『見えない傷』の描写が、とても繊細で心に残りました。特に、主人公が過去の記憶と向き合うシーンは……」


 麻里子は自分が感じたことを言葉にしていった。普段は決して見せない、読者としての素直な反応。それは仕事の姿からは見えない、彼女の内側にある感性だった。


 高瀬は黙って聞いていたが、彼の瞳が少しずつ暖かさを増していくのを麻里子は感じた。


「ありがとうございます。佐伯さんにそう言っていただけて、本当に嬉しいです」


 その言葉には偽りがなかった。高瀬の声は柔らかく、口元には小さな微笑みが浮かんでいた。


 会議は予定よりも長引いた。次回作の方向性、キャラクターの設定、物語の核となるテーマ——二人の間で意見が交わされるうちに、時計の針は二十三時を回っていた。


「すみません、こんなに遅くなってしまって」


 麻里子は資料を片付けながら謝った。


「いえ、充実した時間でした」


 高瀬は立ち上がり、窓の外を見た。


「雨が強くなっていますね」


 麻里子も窓に目をやると、確かに雨脚は激しさを増していた。


「タクシーを拾えるでしょうか」


 麻里子の言葉に、高瀬は「大丈夫です」と答えた。


「ところで、佐伯さん」


 高瀬は何かを思い出したように、カバンから小さな紙袋を取り出した。


「これ、よかったら」


 麻里子が受け取ると、中には一袋のコーヒー豆が入っていた。『エチオピア・イルガチェフェ』というラベルが貼られている。


「これは?」


「この前、インタビューで佐伯さんが好きなコーヒーについて話されていたのを読みました。同じ味の好みだと思ったので」


 麻里子は驚いた。確かに三ヶ月ほど前、ある文芸誌の編集者インタビューで好みのコーヒーについて触れたことがあったが、それを覚えていたとは。


「ありがとうございます。でも、こんなことをしていただかなくても……」


「いえ、これからよろしくお願いします」


 高瀬の言葉は簡潔だったが、その瞳には麻里子が読み取れない何かが宿っていた。

そして二人が出版社のビルを出るとき、高瀬は自然な動作で麻里子の上に傘を差し出した。


「ご自宅はどちらですか? 良ければお送りします」


「いえ、結構です。一人で帰れますから」


 麻里子はきっぱりと断った。それは彼女の原則だった——仕事と私生活は明確に区別する。どんなに魅力的な著者であっても、必要以上に距離を縮めることはない。


「そうですか。では、お気をつけて」


 高瀬は少し残念そうな表情を見せたが、すぐに微笑んだ。


「次回も楽しみにしています」


 麻里子はお辞儀をして別れ、駅へと急ぐ。背中に高瀬の視線を感じながらも、振り返ることはなかった。


 自宅に戻った麻里子は、キッチンのテーブルに高瀬からもらったコーヒー豆を置いた。猫のモモが足元に擦り寄ってくる。時計は深夜零時を回っていた。


「ただいま、モモ」


 麻里子は猫を抱き上げ、窓の外を見る。雨はまだ降り続いていた。彼女はふと、高瀬の言葉を思い出す。


『佐伯さんにそう言っていただけて、本当に嬉しいです』


 その言葉の裏には、何があるのだろう。麻里子はコーヒー豆の袋を手に取り、香りを嗅いだ。確かに自分の好みそうな、芳醇な香り。彼がなぜここまで自分のことを……。


 考えているうちに、疲れがどっと押し寄せてきた。明日からまた忙しい日々が始まる。今夜のことは、単なる偶然の一致だったのかもしれない。


 麻里子はコーヒー豆をキッチンの棚にしまいながら、自分に言い聞かせた。


『これは仕事。それ以上でも、それ以下でもない』


 しかし、その夜の眠りに落ちる直前、麻里子の脳裏に高瀬の静かな瞳が浮かんだ。それは何かを知っているような、何かを隠しているような、不思議な色をしていた。

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