番外編: 初めての事件録

1. 告解室連続失踪事件

 鐘の音が響き、祈りの時間が終わる。重厚な扉が開き、信者たちが静かに大聖堂を後にした。蝋燭の灯火が、ステンドグラスの聖人を仄かに照らす。

 大聖堂の片隅に佇む告解室。その薄暗い扉を、一人の若い女性がそっと開いた。エレノアという名の彼女は、震える指を組み、深く息を吐く。

「司祭様……」

 隔壁の向こう、静かな声が答えた。

「聞きましょう」

 堰を切ったように、彼女は語り始める。

「私は……嘘をつきました。家族にも、友人にも、本当のことを言えませんでした……」

 涙が滲む。蝋燭の灯がかすかに揺れる。

「あなたの罪は赦されました」

 司祭の穏やかな声に、エレノアは安堵の息を漏らし、静かに祈った。

 やがて彼女は立ち上がり、扉を開く。冷たい空気が頬を撫で、蝋燭の光が一瞬揺れた。

 その瞬間——背後から忍び寄る気配。

「……え?」

 振り向く間もなく、何かが口元を覆う。

 声も、抵抗も、すべて闇に呑まれた。

 ただ、蝋燭の灯火だけが静かに揺れていた。



 エリヤ・フォン・リヒトの執務室は、まるでその主を映し出すかのように、整然と秩序を保っていた。

 重厚な机は磨き上げられ、積み上げられた書類や書物は、寸分の狂いなく整列している。壁際には、びっしりと教会法や歴史書の並ぶ書棚が並び、窓からは冷たい朝日が斜めに差し込んでいた。

 その書棚を背に、エリヤは淡々とした表情で報告書を受け取った。報告を伝える部下の声はかすかに震えている。

「……また、一人消えたのですね」

 彼は静かに問い返すと、報告に来た調査官がうなずいた。

「昨夜も、告解室から出た直後の信者が失踪しました。目撃者はなし、周囲の痕跡も皆無。完全に姿を消しています」

 エリヤは軽く息をつき、指でこめかみを押さえた。

「教会の警備は?」

「それが……昨夜も通常通りでしたが、何も異常は発見されていません。まるで最初から誰もいなかったように、痕跡すらないそうです」

「教会側はどう動いていますか?」

「司祭長は、事件の発覚を恐れています。すでに内部では事件の隠蔽指示が出されているようで……」

 調査官は口ごもった。エリヤは目を閉じ、小さくため息を漏らした。

「……当然の反応でしょう。教会は信頼によって成り立っている。神の救済を求めて告解に訪れた者が消えるなど、民衆が知れば、教会そのものが信じられなくなる」

 エリヤは、指で報告書の端を軽く叩きながら、思考を巡らせていた。

 教会の権威は絶対ではない。民衆の信頼あってのものだ。

 もし、告解という最も神聖な儀式そのものが疑われれば、その影響は計り知れない。

 表沙汰にすれば混乱を招く。だが、黙っていれば事態はさらに悪化するだろう。

 噂はすでに民衆の間で広まりつつある。

 いずれ、それは公然の秘密となり、教会そのものの信用を根底から揺るがすかもしれない。

 エリヤは、かつて神学校で議論を交わした、ある友人の言葉を思い出した。


『信仰とは、真実を見せることではなく、真実を隠すことによって保たれる場合もある』

 

 皮肉なことに、その言葉は今まさに現実となりつつある。

 エリヤは決然と顔を上げ、調査官に静かに告げた。

「調査は続けてください。ただし、極秘裏にです。事件を公にすることは許可できません」

「……了解しました」

 調査官は軽く頭を下げ、足早に部屋を出ていった。

 再び一人きりになった部屋で、エリヤは窓際へと歩み寄った。

 視線の先には、荘厳な中央大聖堂の尖塔が見える。いつの間にか雲がかかり、差し込んでいた光は薄れてしまった。

「……告解が、人を救うものであればいいですが」

 彼の呟きは冷たい部屋の空気に溶け、かすかに消えていった。



 薄暗い回廊を進み、エリヤは小さく溜息を漏らした。

 神聖調査局の奥に位置する部屋。

 その扉を開けた途端、エリヤは眉間の皺をさらに深くした。

「ミハエル……少しは服をちゃんと着なさい」

 執務室のソファの上で、ミハエル・フォン・ヴァイセンブルクが寝転がっていた。

 上着は床に散乱し、シャツの前も開け放たれている。金色の髪は寝癖で乱れ、青い瞳にはまだ眠気が滲んでいるようだ。

「んあ? 何だよ、騒々しいな……」

「昼間から堂々と寝ってはいけません」

 エリヤの非難にミハエルは気だるげに起き上がり、あくびを噛み殺した。

 彼はスラリとした体型に、乱れたシャツを無造作に羽織っただけのだらしない姿で、まるでやる気が感じられない。だが、その気怠い雰囲気を纏っていてなお、彼の青い瞳はどこか鋭く、油断のならないものが潜んでいた。

「で? 神聖調査局の局長殿がわざわざ俺の部屋に来るってことは、よっぽど面倒くさい話でもあるのか?」

「……告解室での連続失踪事件です」

 エリヤが静かに告げると、ミハエルは一瞬だけ目を細めた。

「ああ、最近噂になってるやつね」

「お前の耳にも入っているのですね……」

「一応、調査官ですから」

 ミハエルは皮肉っぽく笑い、近くに転がっていた皺だらけの上着を手に取った。それを無造作に羽織りながら、面倒そうに首を回す。

「だが悪いけどな。俺、ああいうの興味ないんだわ」

「お前に興味の有無を聞いているわけではありません。お前が動くのが最も隠密性が保てると判断しました」

 エリヤの言葉に、ミハエルは眉をひそめた。

「へぇ……俺が目立たないとでも?」

「普段、教会にすら現れない調査官など、お前くらいですからね。他の者が動けば、すぐに上層部に嗅ぎつけられるでしょう」

「……悪かったな、サボり魔で」

 ミハエルは肩をすくめ、気だるげな笑みを浮かべる。

 そんなミハエルを見ながらエリヤはため息をつき、書類の束をテーブルに置く。

「事件を調べなさい。秘密裏に。特に告解室の周囲で起こっていることを徹底的に洗いなさい」

「告解室ねぇ……また随分と胡散臭い話だな」

 ミハエル・フォン・ヴァイセンブルクは、目の前の書類に目を落としながらも手を伸ばさず、相変わらず気乗りしない表情を浮かべていた。

「そうです。隠密性が重要です。つまり、お前にぴったりの任務ということです」

 向かいに座る エリヤ・フォン・リヒト は、淡々とした口調で告げる。

 ミハエルは小さく笑い、ソファの背にもたれかかる。

「まあいいけどよ……で、今回の事件、何か裏がありそうか?」

「なければ、お前に頼みません」

 エリヤは冷たく言い切る。その声音には一片の迷いもない。

 ミハエルは、僅かに眉を上げた。

「教会内部で起きていることですし、神聖騎士団からお前の監視——いや、護衛を一人つけましょう」

「……ああ?足手まといは嫌だぜ?……てか局長、それ本音と建前が両方とも出てないか?」

 ミハエルが不機嫌そうに言うと、エリヤはまるで取り合う気のない様子で続けた。

「残念ですが、意見を聞くつもりはありません。それに最近、教会内部も物騒になってきました……万が一、お前に何かあったら帝国との問題になりますから。明日から行動を共にしてもらいます」

 ミハエルは肩をすくめる。

「名は コンラート・ハインリヒ・フォン・アイゼンシュタイン。真面目な騎士です、お前とは正反対の」

「……マジでやりづらい組み合わせだな」

 ミハエルは苦笑し、再びソファに身体を沈めた。

 天井を見上げ、ぼそりと呟く。

「やれやれ、面倒くさいことになりそうだ……」

 エリヤは扉へ向かいながら、最後に振り返り、冷ややかに告げる。

「今回は絶対に逃げてはいけませんよ、ミハエル」

 ミハエルは薄く笑い、軽く手を振った。

「……へいへい、努力はしてみますよ、局長サマ」



 白い石造りの重厚な建物の中、規則正しく響く足音があった。

 一切の乱れもない、完璧に訓練された歩調。

 足音の主は コンラート・ハインリヒ・フォン・アイゼンシュタイン。

 神聖騎士としての誇りと規律をその身に纏い、長身の身体をまっすぐに伸ばして歩く。

 白地に銀糸の刺繍が施された制服は寸分の狂いもなく整えられ、鋭く引き締まった顔には一切の隙がなかった。

 黄金色の瞳は剣のような鋭さを宿し、その眼差しは常に前を見据えていた。

 彼は聖騎士団より 神聖調査局への出向 を命じられ、今回の任務に就くこととなった。

 直属の上官となる エリヤ・フォン・リヒト から下された命令を、歩きながら思い返す。

(……神聖調査官、ミハエル・フォン・ヴァイセンブルクの監視および護衛)

 コンラートは眉をわずかに寄せた。

 護衛としての任務に異論はない。だが、“監視” という言葉が、微かに引っかかる。

(問題児……か)

 神聖調査局の局長であるエリヤはそう評していた。

 直属の上司となったエリヤは、珍しく顔を顰めて言った。

『彼ははすぐにサボります。名目上は護衛としますが……監視も兼ねてください』

『……そのような人物が、なぜ調査官を?』

『使いどころが難しい人間ですが、腕は確かです。面倒ではありますが……貴方なら何とかなるでしょう?』

 何故か、その時のエリヤの目が微妙に笑っていたことが、コンラートには気になっていた。

 やがて扉の前に辿り着く。

 コンラートは背筋を伸ばし、軽くノックして入室した。

 途端、目の前に広がった光景に彼は眉をひそめる。


「……あ?」


 そこは調査官の執務室だったはずだ。

 だが室内はまるで古書店か酒場のように乱れ切っていた。

 書類や本が無造作に積まれ、葉巻の灰や酒瓶が散乱している。

 そしてその中央で、ソファに身体を横たえた金髪の男が、気だるげに葉巻をくゆらせていた。

「……ミハエル・フォン・ヴァイセンブルク殿?」

 コンラートの確認するような問いに、男は目を細め、気怠そうに振り返る。

「ん? なんだ騎士様、なんか用か?」

 ミハエルは片手に葉巻を持ち、青い瞳を眠そうに瞬かせる。

 乱れた金色の髪。中性的な整った顔立ちには無精髭の影。だらしなく開いた制服からは白い肌が覗き、足元には酒瓶が転がっている。

 コンラートは一瞬絶句したが、冷静さを取り戻すと鋭く言った。

「私は神聖騎士のコンラート・ハインリヒ・フォン・アイゼンシュタインだ。本日から、貴殿の任務に同行させていただく」

 そう言うとコンラートは一礼する。

「ああ、局長が言ってた騎士様ってのはアンタか……マジでやりづらい組み合わせだな」

 ミハエルはかったるそうに欠伸を噛み殺すと、軽く手を挙げた。

「ご苦労様。ま、好きにしてくれていいぜ。ただ俺、動きたくないからさ。監視ならテキトーによろしく」

 その態度に、コンラートの眉間の皺が深まり、わずかに拳を握った。

「……調査官殿、自分の任務を理解しているのか?」

「あー? なんだよ、真面目か?」

 ミハエルは可笑しそうに肩を揺らす。

「俺の仕事のやり方は自由なんだよ。教会の犬みたいに規則ばっか気にしてたら真相になんて辿り着けねえぜ?」

 その言葉に、コンラートの表情がわずかに硬くなった。

「……教会の秩序は絶対だ」

「へぇ、そう思うんだ」

 ミハエルは葉巻を口にくわえたまま笑みを深くした。

「なら、俺と一緒にいると嫌でも色々見えてくるぜ。アンタの信じる『正義』が、本当に正しいかどうかな?」

「……俺は、教会の騎士として命じられた任務を果たすだけだ」

 コンラートは冷静に答えたが、その表情には不快感が滲んでいた。

 自分の信じる規律や誇りが、この男には通じないのだろうと直感的に悟る。

 ミハエルはソファに体を預け、悠々と煙を吐きながら囁いた。

「面白い事件になりそうだな、騎士様?」

 コンラートは、これからの任務に言いようのない頭痛を覚えながら、深く息を吐いた。



 セラフィム聖教会の中央大聖堂。

 厳かなステンドグラスから柔らかい光が降り注ぎ、荘厳なパイプオルガンの静寂が満ちている。高い天井に描かれた聖人たちの絵は、訪れた信者たちに静かに慈悲を示しているようだった。

 その一角に設けられた告解室の前で、コンラートは背筋を伸ばして立っていた。

 傍らではミハエルがあくびを噛み殺しながら、気だるげに告解室を観察している。

「……なんか匂うな、ここ」

「おい」

 コンラートが咎めるように声を低める。

「神聖な場所だ。言葉を慎め」

「あー、悪い。俺の鼻はごまかしが利かないもんでなぁ」

 ミハエルは気にせず、乱雑にボタンを開けた制服の胸元から懐中時計を取り出してちらりと見る。

 中性的な顔に浮かぶのは、どこか面倒臭そうな薄い笑みだ。

「人が消えるってんなら、何か細工がある。まあ十中八九、隠し扉だな」

「……そんなことが許されるはずがない」

 コンラートは鋭く言い返した。

「告解室は、神と人が直接向き合う神聖な場だ。教会がそんな細工を許すはずがない」

「告解室の中とは言ってねぇよ。ま、信じたけりゃ勝手だがね、騎士様」

 ミハエルは笑いながら、告解室の扉を軽く叩く。

「神の威光で失踪なんてあり得ない、って?アンタの言う通りなら、そもそも俺がここに呼ばれる理由もねぇさ」

「……」

 コンラートは唇を噛みしめる。

 調査官ミハエルの態度にはどうしても納得がいかない。

 だが、どこかその言葉にも真実味があった。

「多分、どっかに仕掛けがあるぜ。だが、まあ教会の許可がなきゃ壊すわけにもいかねぇか……」

「おい、勝手なことをするな」

 コンラートは呆れと苛立ちを混ぜて睨む。

「手順を踏め。局長にも報告が必要だ」

「手順ねぇ……」

 ミハエルはゆったりと立ち上がり、軽く制服の埃を払った。

「お前みたいな真面目な連中がいるから、教会は大事なことほど隠蔽するんだよ。ま、せいぜい礼儀正しくやればいいさ。その間に人があと二、三人消えるだけだ」

「お前……!」

 コンラートが鋭い目でミハエルを睨みつけるが、ミハエルはそれを無視して歩き始める。

「騎士様。アンタが報告してる間に俺は適当に手がかり探しといてやるよ」

「……待て!」

 コンラートは深いため息をつき、渋々とその背中を追った。教会の騎士として、規律を無視した調査方法は許せない。

 だが、胸の奥に浮かんだ疑念を、完全に否定することもできなかった。


 一通りの聞き込みを終えた二人は、告解室のある中央大聖堂へ向かう。

 教会側は「告解室には何の異常もない」と強調するが、コンラートはそれを鵜呑みにしない。

 ミハエルは相変わらず制服をだらしなく着崩し、胸元は開き、ネクタイは緩めっぱなし。金髪は寝癖のままで、口にはくわえたままの火のついていない葉巻をもてあそぶ始末だ。

 告解室の前で、コンラートは苛立ちを隠せずに呟く。

「調査官は本当にやる気があるのか?」

 ミハエルは葉巻を指でくるくると回しながら、呆れたように応じた。

「こんな神頼みの場所で調査して、何が分かるんだよ。どうせ誰も本当のことなんて言いやしないさ」

 コンラートの眉間に皺が寄る。

「調査官のお前がそれを言うのか?」

 ミハエルは薄く笑うと、気怠げに告解室の扉を眺め、あくび混じりに呟いた。

「隠したいことがあるから、みんなここに来るんだろ? 神父だろうが信者だろうが、嘘くらいつくさ」

 その言葉に、コンラートは鋭く目を光らせる。

「告解は神聖な儀式だ。嘘や隠し事をする場所じゃない」

「……だからお前は甘いんだよ、騎士様」

 ミハエルの青い瞳が薄く笑ったように細められた。

 その瞳はどこか寂しげでもあり、コンラートは言葉を失った。

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