第2話 学校の怪人を追って

 その後、他の先生方や司書の先生、用務員さんに話を聞いて、先輩の話の裏付けを取ることができた。

 ただ不可解に感じたのは噂の怪人よりも、先輩の行動の方だった。

 用務員さんの話によれば、視聴覚室でどんな映像が見られたのか先輩は細かく聞いていて、授業の使う私物の資料を視聴覚準備室に置き忘れていたこともたびたびあったそうだ。

 司書の先生には、出されたままの本に何かあった場合の責任は自分が取ると話していた。

 出退勤記録を見せてもらうと、月に一、二度くらいの頻度で夜の学校に残っていたり、一度帰った後に戻ってきている記録が残っていた。

 そういう証言や証拠、状況を繋ぎ合わせると、怪人に先輩が何らかの形で関わっているのではないかと思えてしまう。

 仮に先輩が怪人本人だっとしたら、夜にピアノの練習をしていた、資料の確認をしていたと正直に話せばいいだけで、用務員さんや司書の先生に話を聞くことすらしないはずで、そもそも生徒に怪談の噂が流れてしまうようなヘマをするとも思えなかった。

 そしてなにより、先輩が産休に入り、私が勤め始めてからも怪人が出没したのではと思われる怪現象は続いているので、先輩が何かしらの手引きをしているわけでもなさそうだった。

 それでも先輩に対しての疑念は、私の中に残り続けた。



「先輩、本当は怪人について何か知ってるんじゃないですか?」


 先輩に電話をかけて、駆け引きなしに直球で尋ねた。


「どうして、そう思うの?」

「ちょっと調べてみたんです。そうしたら、先輩が関わっているとしか思えなくて」

「そっか。でも、私は怪人について知っていることはないわ」


 先輩は嘘を言っているようには思えなかった。

 先輩を疑ってしまったことが恥ずかしくて、怪人へと繋がる手掛かりが途切れてしまったことがむなしくて、私は肩を落としてしまった。


「来栖、私はね、怪人と会って話してみたかったのよ」

「どうしてですか?」

「音楽やミュージカルが好きな怪人って、なんだか素敵だと思わない?」


 なんとも子供っぽい理由だったけれど、私は手放しで同意できてしまった。

 私もそう感じたから、怪人に興味が湧いたのだから。


「結局会うことも話すことも叶わなかったけど、気配は何度か感じたことはあったわ」

「そうだったんですね。先輩、私も怪人に会ってみたいんです。どうやったら会えると思いますか?」

「そうね……来栖のピアノなら出てきてくれるかもね。私は来栖のピアノが大好きだもの。きっと怪人も気に入るんじゃないかしら」


 私にとって先輩の言葉は、『天使の声』だった。

 音大時代に行き詰っているときも、就職や進路に困っていたときも、私が進むべき路を照らしてくれたのはいつも先輩だった。

 だから、今回も信じてみたいと思った。



 先輩と話した翌日。

 私は家のピアノが調子が悪いので、放課後に学校のピアノで練習させてほしいとお願いして、許可をもらった。

 そして、誰もいない夜の学校でピアノを弾いた。

 しかし、怪人は現れることはなかった。

 それでも何日か続けていると、帰り際に視聴覚室のプロジェクターの光が廊下に漏れていたり、図書室に気配を感じたり、日が暮れるとどこからか視線を感じることがあった。

 私の後を付いてくるような足音が聞こえたこともあったが、振り返っても誰もいなかった。

 怪人に会えてはいないが、存在だけは感じていた。

 そして、不思議と嫌な気も怖さも感じなかった。


 そんな日々がしばらく続いた、とある日の夜。

 学校に私のではないピアノの音が鳴っていた。子供が人差し指だけで一生懸命弾いているような、どこかつたなくとも微笑ましく感じられる音色。

 学校に現れる怪人にはピアノの才はないと思うと、かわいげを感じてしまった。

 私が音楽室の扉の前に立つと、ピアノの音はピタリと止まった。

 音楽室に入り、電気を付けないままピアノに近づくと鍵盤のふたは上がったままになっていた。

 そして、何も気付かないふりをして、譜面台用のライトを設置して、今日弾く予定の楽譜を譜面台に置いた。

 今宵も始まる、怪人のためだけに弾く演奏会。

 今日弾く曲は、オペラ座の怪人/ピアノソロ、ミュージカル『オペラ座の怪人』より。


 ピアノを弾いていると、私からは死角になっている壁際に気配を感じた。今までよりも色濃く、すぐ近くにいるとはっきりと感じられた。

 その気配が動かずに私のピアノを聴いてくれているのが嬉しかった。

 演奏を終え、残響が空気に溶けていくのを待った。


「ようやく、学校の怪人と噂されるあなたに会えた」


 そう振り返ることなく想いを口にした。


「やはり私に気付いていたんだね」


 少し低い男性の声で返事が返ってきた。


「はい。あなたの話を聞いて、知るたびに会って話したいという想いが強くなっていきました」

「それはどうしてだい?」

「私と趣味が合いそうだと思ったから」


 小さく笑っているような声と気配を感じた。


「ここ数日は私も君を見ていた。さっき弾いた曲もそうだが、君はミュージカルに興味があり、ピアノを弾く腕も確かなようだ。なるほど、私と趣味は合いそうだ」

「あの……顔を見せてもらってもいいですか?」

「……きっと私の姿を見れば、君は驚くし、私と話したいとは思わなくなるかもしれない」


 どこか演技かかった話し方だが、それがしっくりときていた。


「私はあなたの姿に驚くことはあったとしても、話したいという想いはいまさら変わらないです」

「そうか。ならば、振り返るといい」


 私が振り返ると、そこにはこちらを見つめる眼だけが影の中に浮かんでいた。

 そして、その眼はゆっくりと近づいて来て、譜面台のライトの薄明かりに怪人の姿が照らし出された。

 そこにいたのは黒猫だった――。

 黒猫は後ろ足で立ちあがると、小柄な小学生と同じくらいのサイズ感にまで大きくなった。

 そのことに驚いて声を出せずにいると、黒猫は前足で顔を隠すように覆った。


「私は学校の怪人。思いのほかに異形の姿に映っているであろう? この禍々まがまがしき怪物は、人の世に振り回されながら、それでも人間に憧れる――」


 オペラ座の怪人のセリフの引用に、私の心はぐっと引き寄せられる。


「そう思うのなら、どうして私の前に姿を現したのですか?」

「君の弾くピアノが――いや、君が私にとって音楽の天使にほかならなかったからだよ」


 その最上の誉め言葉に、私は嬉しくて心からの笑みを自然に浮かべていた。


「それにしても、君は私のこの姿を見ても、なんとも思わないのだな」

「驚いてはいますよ。怪人の正体が喋る猫だとは思っていませんでしたから」

「そうか。それにしても君は人間の中では奇特な部類なのだろうね」

「どうしてですか?」


 黒猫は寂しそうに目を細めた。それからひと息ついてから、ゆっくりとした口調で話し始めた。


「私を見た人間は、石を投げたり、追い払おうとしたり、嫌なものを見る目を向けてきたからね」


 黒猫だから不吉なものとして邪険に扱われたことがあったのだろう。それとは別に野良猫はゴミを漁ったりするので嫌われやすい。さらに学校でもどこでも敷地内に入れば、かわいい猫であっても追い払われるのは無理のない話だ。


「ただ人間全てが悪いわけじゃないことも知っている。食べ物をくれる人間も私に優しく触れる人間もいた。音楽を聴かせてくれた人間もいた。そこで知った人間の奏でる音楽や、作り上げた芸術は私の心を揺さぶるんだ。きっと私は人間に焦がれる怪物さ」

「そのおかげで私とあなたは出会うことができた。私が奇特だというのなら、私はそれでかまいません」


 黒猫は目を丸くして真っ直ぐに私を見つめてきた。


「自分のあるがままでも愛されるというのか?」


 そのオペラ座の怪人のセリフの引用に、どれだけ目の前にいる猫が愛に飢え、人に焦がれ、怪人に感情移入し憧れていたのかを垣間見た気がした。


「ええ。私はあなたの声を聞いたのだから」

「本当に君という人間は……よかったら、名前を教えてくれないか?」

「私は来栖くるす里奈りなといいます」

「いい名前だね。どことなくクリスティーナと響きが似ているところがいい」


 同じことを以前に一度だけ言われたことがあった。それが鹿取先輩と仲良くなるきっかけでもあった。

 そのときのことも思い出して、私は肩を揺らして小さく笑う。


「そういうあなたの名前は?」

「名乗るようなの名前は私にはないよ。でも、そうだな。クリスティーナと相対あいたいするに相応な名前をこれから名乗ることにしよう」

「エリック――そう名乗るんですね」

「そういうことだね。本当に君とは話が合うみたいだ。こうして話しているだけでとても楽しいよ」


 黒猫は楽しそうに目を細めた。

 エリックとは、クリスティーナに恋をするオペラ座の怪人の名前だ。

 エリックと名乗ってはいるが、目の前の黒猫は犯罪は冒していない。ただ逆境に負けずにしたたかに自分の生き方を貫いているだけ。


「エリックは、怪人よりもジェリクルキャッツの方がしっくりくると思うな」

「私は踊れないし、純粋でもないと思うんだが」


 その一言でエリックが『キャッツ』も履修済みなのが分かる。

 話が通じるというのは息ができるのと同義だ。こんなにも息がしやすい相手は先輩以外では初めてだった。


「夜な夜な学校に忍び込んでピアノを弾いたり、芸術に傾倒したりと人生を謳歌しているあなたは、無限の個性と行動力を持っていると言ってもいいんじゃないかな。踊れなくとも私が最も純粋な猫として、あなたの名前を宣言してあげるわ」

「それもなかなか悪くない。それにしても、君は本当に話が分かる人間だね。私の方が驚かされるよ」

「これでも音大に通っていたし、ミュージカルやクラシックを鑑賞しに行くのは昔から好きなの。家にピアノもあるし、ミュージカルのDVDやブルーレイも集めているしね」

「そうなのかい? 羨ましい限りだね」

「じゃあ、私の家に来る?」

「いいのか?」

「ええ、家でひとりでミュージカルを観ても感想を言い合う相手がいないとつまらないもの」

「その気持ちはよく分かるよ。語り合う相手がちょうどほしかったんだ。君の世話になるなら、ジェリクルキャッツの名は返上しないとな。私はまさに懐柔され、人間に飼いならされようとしているのだから」


 私が噴き出すと、エリックも笑い始めた。


「これからよろしくね、エリック」

「こちらこそ、クリスティーナ。いや、里奈」

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