俺のショートショート。

笑う門

第1話 許してやるか

男は台所で野菜を刻んでいた。包丁の音が規則正しく部屋に響く。ソファに座る女が膝を抱え、テレビを眺めながらぽつりと言った。


「ねえ、もっとまともなご飯にしてよ。毎日これじゃ飽きる」


男の手が一瞬止まる。だがすぐに笑みを浮かべ、振り向かずに答えた。


「明日から変えるよ」


許してやるか

男は心の中でそう呟いた。女は小さく舌打ちしたが、それ以上何も言わなかった。


翌日、女が「部屋が暑い」とぼやくと、男は黙ってエアコンをつけた。「タバコ臭い」と言うと、窓を開け、換気扇を回した。女の不満は次々と溢れたが、男は穏やかな顔で応じ続けた。そのたび、心の中で同じ言葉が響く。


許してやるか


ある晩、女はソファに寝転がり、ぼそっと呟いた。


「ここから出して」


男は動きを止めた。初めて女の言葉に反応せず、じっと彼女を見つめた。部屋に重い沈黙が落ち、テレビの笑い声だけが虚しく響いた。女の瞳が揺れ、恐怖がにじむ。男は目を細めた。


許してやるか


男は鍵を手に取り、玄関の錠を外した。重い音がしてドアが開くと、女は一瞬呆然とし、次の瞬間、慌てて立ち上がった。靴も履かず裸足で外へ飛び出し、暗い廊下を駆け去った。男はドア枠に寄りかかり、その背中を見送った。足音が遠ざかり、静寂が戻る。


男は小さく笑い、ドアを閉めた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る