第9話
見るものを魅了する柔らかな笑顔を浮かべたまま、雅人は静かに話を続ける。
「人が変化を恐れるのは、未知のものへの恐怖かもしれないね。多くの人は、未知のものを恐怖する。でも、未知のものに歓喜する人もいるんだよ、確実にね。それは、魂で生きているかどうかの問題なのかもしれない」
「自分は……魂で生きていないと……」
「さあ……僕は安藤さんの人生を知っているわけじゃあないもの。ただ、あなたが怖がっていることは、わかるよ。悪い変化、良い変化ということじゃなく、変化そのものを怖がっているように見える。違う?」
「……そうなのかも……知れません……」
雅人はその言葉を聞いて淡く微笑う。
「僕はね、退屈がキライ。変化しないモノなんか、ちっと面白くない。例えば、そこにずっとあると思っている大きな山にしたって、日々風雨にさらされ、変化している。人も老いるんだよ。そして最後は必ず死を迎えるんだ。安藤さん、あなたも同じだ。永遠の命を持っているように見える楸でさえも、いつかは死の時を迎える。永劫の時の果てではあっても、その時は必ず訪れる。死の前では人だけではなく、全てが平等だ。空に輝く太陽だっていつかは死の星になる。全てのものは等しく無に還る。その時が早いか遅いかだけの違いしかない。それなのに、多くの人は死を恐怖する。必ず迎えるものなのに、ね。中にはね、その恐怖から自分の意志で死を選択する人までいる」
安藤自身、妻子を失ってからのこの五年の間に幾度死を意識したことかわからない。
「どうせ、いつかは死ぬんだから、せめて生きてる間くらい、生きてることを楽しんだ方がいいんじゃないかと僕は思う。一瞬の閃光のように、輝けばいいんじゃないかと僕は思うよ」
「雅人さま……自分は……確かに、死ぬことを考えていました……」
「うん……」
「自分にとって、死は耐え難いものです……死は自分の最愛の妻子を……奪ったのです……」
「あなたの妻と子は、間違いなくあなたの内にいるのに……それをまだ見つけられないんだね……いつか、見つけられるといいね」
柔らかく微笑って、雅人は言った。
「きっと、見つけられるよ」
「その言葉を信じることができたら、自分は少しは楽になれるのでしょうか?」
「さあ……いつまでたっても見つけられなくて、僕の言葉を疑う日が来るかもね」
あっさりと、雅人はそう言った。
「でも、あなたが諦めなければ、きっと見つけることができる。パンドラが開けたこの世の災厄が封じられた
そう言って、雅人は微笑う。
まるで、天上に咲き誇る花のように。
「自信を持って、安藤さん。あなたは真実に気付いた。真実に気付いた人間を、人は放っておかない」
「雅人さま……」
「あなたは自由意思で、自分の意志で、一歩を踏み出したんだ。あとはもう一歩、次の一歩を踏み出すだけだ。立ち止まっていた時には見えなかった景色がきっと見えてくる。顔を上げて、前を見て。あなたの歩く道には、花が咲いている。でも、それを見ようともしないで俯いて歩いている人間に、その景色は決して見えない。あなたはもう最初の一歩を踏みだしたんだ。立ち止まっている処から一歩を踏み出すことより、歩き続けることの方がずっと楽なんだよ」
「自分はっ……」
「さぁ、あなたにただ従って来た人たちを解放してあげなきゃ。彼らにも、自分の道を歩く権利がある」
「権利?」
「そう。権利と義務。その二つはまるで双子のように仲がいい。権利を行使する者には必ず義務が。義務を果たす者には必ず権利が付いてくる。どちらか一つなんてことはないんだよ。あなたが支配してきた人たちを解放してあげて。あなたにはその責任がある。彼らをこの一件に引き込んだのは、他の誰でもなくあなたなんだから」
雅人の言葉に安藤は決意した。
部下たちを。
安藤の、ただ直属の部下であっただけのことでこんな大事件に巻き込んでしまった部下たちを、解放しなければならない。
「……皆、聞け。俺はこの方と行く。皆の中には直属の上長である俺の命という理由だけで、俺に付き従ったくれた者もいるだろう。俺は恨みから解放された。皆も同じように、囚われているものから解放されるべきと思う。皆、礼を言わせてくれ。今までありがとう。皆も思うように生きてくれ」
「司令! 自分は何があっても指令に従います!」
「自分もであります!」
「もちろん! 自分もであります!」
安藤の部下たちは次々に名乗りを上げた。
それは雅人にとってどうであったかはわからないが、少なくとも安藤にとっては驚きの結果だった。
この結果を受けて、安藤はどう動くのか。
それを雅人は静かに見ていた。
「これってさ……まーくん先輩が望んだままなのかな?」
一見感動的な場面を眺めていた誠志郎は、隣に立って、やはり上司と部下の感動的な場面を冷めた視線で眺めやる慎太郎に問う。
「さあ……どうだろうな……俺ごときじゃ、とてもあの方のお考えを理解する域には達せないから……」
「おいおい、慎太郎……何を情けないことを言ってるんだよ。仮にも松岡家本家当主だろうが。あの方の意を汲むくらいの事やってもらわないと……」
「あの方のお考えは深遠で……多分、俺どころか先生だって理解しきれていないんじゃないかと思う……あの人だってさ、結局は雅人さまを疑わない事しかやってないんじゃないか? もちろんそれは、彼らが例のアレを盲信していたのとは訳が違う。でも、一見すると傍からは同じように見えるのかもな。でも根本的に違うのは、あの方のそのあり方だ。あの方の根本には愛がある。人と言うものを慈しんでおられる。そここそが、例のアレとあの方との根本的な違いだ」
「慈悲深き神ってことか……」
「だからさ、俺にはあの方のお心の内は伺い知れないって。ただ言えるのは、あの方は本来の意味での神だってことだ。裁かないからこそ、かえって怖いんだ。あの方はただ慈悲を与えて下さる訳じゃない。常に人が自分で判断を下すことを突き付けて来られる。慈悲をもって人を救う神じゃない。人が人たる
慎太郎の言うことは、確かに雅人のある一面を言い当てていただろう。
しかしそれも、慎太郎と言う一つのフィルターを通して見た雅人でしかない。
人は対象を見たいように見るということだ。
慎太郎と誠志郎はが、密やかに会話をしているのを雅人は構わなかった。
彼は静かに、安藤とその部下を見守っていたが口を開く。
「……それで、どうしたいの?」
「はっ」
「あなたは、どうしたい? 自分で考えて。安藤さんに盲従するんじゃなく、自分で」
完全に上意下達の中に生きてきた彼らに、雅人は現実を突きつける。
「自分らは……」
「司令に従います……」
「だから」
雅人は少し苛立ってきたようだった。
人が自由でないこと。
それは雅人が一番嫌うことだった。
人と生まれて、自分自身の自由意志で物事を決められないこと。
それで生きていると言えるのか。
「自分で決めるんだよ。だって、自分のことでしょう? なんで他人任せにできるの?」
「雅人さま……おっしゃることは、理解できます。ただ……自分らは命令に従うことに慣れてきました……今、急に自分で決めろとおっしゃられても……」
「何を言ってるんだよ、安藤さん。今だよ。僕は今、あなたじゃない他のあなたに問うてるんだ。安藤さん、あなたに対して問うてるんじゃない。あなたは真実に気付いた。あなたはもう大丈夫なんだ。だからって、そのあなたが他の人を支配してどうするんだよ。あなたが、彼ら解放しないといけないんだよ。それをあなたが取りこんで、支配してどうするの?」
「雅人さま……自分は……」
「命令することに慣れて、命令されることに慣れて、自分で考えることを放棄して。それでいったいどうしようって言うの? 自分で考えるんだ。自分のことでしょう? 何で、自分を解放しないんだ。人として生まれて、他者に隷属すること、それ自体の罪深さにどうして気付かない? 自分のことは自分で決めるんだ。それができることが人の存在意義なんだ。自分自身で考えて、自分自身で。自分で判断して、自分で決めて、その結果を自分で受け取ること。それ以外に人として自立することはできないんだ。他人任せの人生を送ること……その罪を、人はあまりにも自覚していない……どうして? どうして、そんな、他人任せで生きられるの? 自分自身の事でしょう? 僕は、それがずっと不思議だった」
「……まーくん先輩……」
口を開いたのは、誠志郎だった。
「人は、弱いものだ。自分で決断できない人間も多いだろう……この慎太郎にしたって、最後は結局自分で松岡家本家当主の座を選び取った。だけど、そこに至るまでどれだけ悩んだか、俺は知ってる。身近で……一番身近で見てきた。だからこそわかるんだ。人は本来の自分を選ぶ時でさえ、思い悩むものなんだ。ましてや今までそんな局面に立ってこなかった人間たちだ」
「わかる。わかるよ、それは。だけどね、僕は、あなたに訊いているんだ。あなたたちにじゃない。あなた、ひとりひとりに訊いてるの。他の人がどうだとか、誰かがそうしてるからとか、そんなことじゃなくって、あなたは、どうしたいのかを考えて」
「雅人さま……」
安藤は途方に暮れたように口を開いた。
「雅人さま……彼らには時間が必要なんです……ご猶予をいただけないでしょうか?」
見かねた慎太郎が口を開いた。
「ふざけないで、慎太郎」
雅人は慎太郎を一喝した。
「自分のことを自分で決める。そんな人として当たり前なことに猶予がいる? 冗談じゃない」
雅人に一喝されてしまった慎太郎は黙り込むしかなかった。
「人が人として生きる。そんな根本的なことに言い訳しないで」
「まーくん先輩……言いたいことは、わかる……わかるよ。だけどな、人は弱いものだ。楽な方に流されるものだ。踏み止まることを強いるのは、酷だ」
「それが……人の
「ああ……確かに、その、一面ではあるな……」
誠志郎の言葉を受けて、雅人は落胆したように見えた。
「だけどな、まーくん先輩……まーくん先輩自身が言ったことだ。人は変わることができる。いつでも。どんな立場であっても。どんな生き方をして来たにしても。それを……待ってやることはできないか?」
誠志郎の言葉を受けて、ふと雅人の張りつめていたものが解けた気配があった。
「……誠志郎さんは……色んな人に接してきた。僕より、もっと沢山の人たちに……それこそ、裏も表も見てきた人だろう……その、誠志郎さんがそう言うなら……きっと、そうなんだろうな……」
「まーくん先輩……俺はたまたま、こんな風に生まれついちまっただけだ。そりゃ、人間の人生を十五年しか生きてないまーくん先輩よりは、ちっとは人間ってものを知ってる。人間の負の側面だな。だけど、それだけのモンだ。本来、まーくん先輩はプラスの存在だ。こんな闇の……負の部分を知らなくっても仕方がない」
「誠志郎さん……雅人は本来プラスもマイナスもない。無に属するものだ。だからこそ、光でも闇でもある人間に憧れる……そうだね……ゆっくり行こう……答えを出すのは、何も今じゃなくてもいいんだ……誠志郎さんの言うように、人はいつでも変わることができる……そうだね?」
「そう。そうだよ、まーくん先輩……急ぐことはないんだ……一歩ずつ、歩いていけばいい」
「僕は、急ぎすぎていたみたいだね……」
ふと、雅人は微笑った。
それに向けて、誠志郎も笑みを浮かべる。
「……時を待とう……時間は無限じゃないけど、チャンスは無限だから……そういうことだよね?」
「そういうことだよ、まーくん先輩」
誠志郎の。
人の裏も表も、それこそイヤと言うほどに見てきた誠志郎だからこその、魂からの言葉に雅人は柔らかな笑みを浮かべた
「さあ……話は決まった。僕は時を待つ。いつまででも、ね……そうと決まれば時間が惜しい。慎太郎と誠志郎さんはここを脱出して。僕は安藤さんたちと行くから」
「雅人さま……」
「いいんじゃないか? 慎太郎……まーくん先輩の……雅人さまのお言葉だ。お前さん、それに逆らえるのか?」
誠志郎は何かを言いた気な慎太郎に正論を突き付けた。
「誠志郎……」
「いいから、あの方に任せておけって。お前さんや俺なんかじゃたどり着けない場所にあの方は立っておられるんだ……」
「それは……確かに、そうなんだけど……でも……」
「お前さん、心配のし過ぎだって。あの方がさ、そこらの人間に太刀打ちできる方かどうかよく考えろよ。そこらの人間で太刀打ちできるわけがないだろ?」
「……そういう問題じゃなくってさ……」
「じゃあ、どういう問題なんだ?」
「何て言うか……あの方の意志に背くってこと自体が罪深いって言うか……」
「だってさ、一般の人間にそんなことわかりゃしないじゃないか。わからないからって言ってもさ、伝わるものはちゃんとある。お前さん、杞憂がすぎるぜ。軽く行こうぜ、慎太郎」
誠志郎の口から出たこの言葉。
慎太郎は若い頃に幾度聞いたことか知れなかった。
その、懐かしい言葉に慎太郎は詰めていた息をやっと吐くことができた。
「……そうだな……あんたの言う通りだ……俺はどうしても、昔から思いつめる所があるみたいだ……あんたがいつもいつも、俺に気付かせてくれるんだな……」
「何て言ったって、俺はお前さんのサポーターだからな」
誠志郎は笑ってそう言った。
「慎太郎。ヘリはもう来る?」
「はい……そろそろ到着する頃かと……」
「そう……じゃあ、二人とも行って? 僕は安藤さんたちと行くから」
「雅人さま……」
「言ったように二人を連れては行けない。行って」
雅人の決断。
それでも躊躇する慎太郎を、誠志郎が後押しする。
「行こう、慎太郎。雅人さまのご決断だ」
「だけど……」
「来い、行くぞ。慎太郎」
誠志郎は有慎太郎に有無を言わせなかった。
慎太郎と誠志郎の二人は隠形して銀行を後にする。
もちろん、慎太郎は目一杯後ろ髪を引かれる思いだったが、それでも誠志郎に従ってその場を後にする。
そして、その場には安藤とその部下。そして雅人だけが残った。
「さてと……これで振り出しに戻ったわけだね。他の人たちはいなくなった……」
「雅人さま……」
「この場で前田くんがいないことに気付かれるわけにはいかないから……前田くんも一緒にいるように装える?」
「担架に何かしらのダミーを乗せて、運んでいるように見せかけましょう」
「うまく行くかな……」
「それはお任せ下さい」
「そう? じゃあ、任せるよ」
ふわりと、雅人は微笑う。
雅人の笑顔はそれだけで人の心を和らげる。
「……どうか、ご安心下さい……」
「うん。安藤さんに任せるね」
柔らかな笑顔を浮かべて、雅人は言った。
気を抜いている場合ではない。
ここからが本番だった。
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