chap.2▶︎できっこないを やらなくちゃ

第10話


 それは、誰かの夢だった。


 遥か頭上から降り注ぐ太陽の光。突き抜けるような青天井。肌を刺すような灼熱のグラウンド。太陽で熱された地面から陽炎が立ち上る。場内で鳴り響く吹奏楽の応援ソングも、観客の声援も、蝉の鳴き声も、すべてがどこか遠い国の出来事のように感じる。


 青年は、ピッチャーズマウンドの上に立っていた。額から流れる汗をユニフォームの袖口で拭い、野球帽をかぶり直す。


 何度かキャッチャーに向け首を横に振った後、彼はようやく頷いた。


 左足を挙げて、大きく振りかぶる。そして、彼の指先からボールが放たれる寸前──それは、起こった。


 彼は、初め理解できなかった。


(なんで今、俺は膝をついてる?)


 流れる汗が、地面に滴り落ち、黒い斑点を作る。投げたはずのボールが、ものの1メートル先に転がっていた。そうだ。投げる瞬間に右肩から首筋にかけて、落雷を受けたような衝撃があった。押さえた肩は焼けるような痛みが断続的に続く。


 痛みによるせいか、暑さによるものか。意識が朦朧とする中、ベンチから数人が駆けてくるのが見えた。


(──なんで。どうして、今なんだ)


 体中の力が抜けて、そのまま地面に倒れこんだ。


(クソ、クソ、クソッ!)


 そばに転がる野球ボールが、ぼやけた視界に映った。震える指で砂を握りめて、青年は固く目を瞑った。


(今までの全部──無駄だったって言うのかよ!)



「残念ですが、今の状態で試合に出場することは難しいと思います。リハビリをしても、果たしてどこまで回復するか……」


 ──暗転。


「高坂、お前はよく頑張った。その頑張りを俺は誰よりも知ってる。今はそんな根詰める時じゃない。ゆっくり休むんだ」


 ──暗転。


「いつでも戻ってこい! 俺たちはお前が帰ってくんの待ってるから」


 ──暗転。


「ハル、ご飯くらいはちゃんと食べなさい。お医者様も言ってたでしょ、まずはちゃんとご飯を食べて……」


 ──暗転。



 青年は、野球ボールを左手に掴み、ただ窓の外を眺めている。


(……もう、どうでもいい。何もかも)


 深海よりも深く沈んだ心が映す世界は、何もかもがくすんだ灰色だ。立ち上がる気力は、もはや一欠片もない。涙もとっくの昔に枯れてしまった。無気力だけが青年を支配していた。膝を抱え込んで、たった一人だけの世界に閉じこもる。その時だった。

 

「──おいハル! 今から出かけるぞ!」


 唐突にドアが開いた。青年は力なく顔を上げた。


「……兄貴」

「ほら、立て! 行くぞ!」


 青年が口を開く前に、突然の来訪者は彼の手を強く引き部屋の外へ。  



 青年は、地面を見つめていた。

 兄に促されるようにして背中を叩かれて、ハッと顔を上げた。


 ライブハウスの箱庭には、ひしめき合う人の数だけ酸素が薄く、動いていなくても自然と呼吸が上がっていく。立ち込めた熱気が一番後方まで伝わってくる。


 ステージライトが観客席を照らした時、会場中に割れんばかりの拍手と喝采に沸く。


 ギターボーカルがスタンドマイクを握った。ステージを見上げる誰もが、彼らの魅せる世界を心待ちにしている──


「俺、19んときに音楽やりたくて大学辞めました。親も友達もみんなお前になんかできねえ、できねえって散々言われました。そん時に何度も聞いた曲です。できないかもしれない、何回も諦めようとした。でも、俺は、俺だけはできるって信じてやんだ。俺にしかできない音楽があるって、信じてやんだ! 上手な演奏じゃねえ、丁寧な演奏じゃねえ、お前らに刺さるロックやりにきてんだ! できるんだ、できるんだ、できるんだ──」


 息を吸う音。腹の中の全部をぶちまけるための、呼吸。


 いつの間にか拳を強く、強く握りしめていた。


「──できっこないを やらなくちゃ!」


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