限界OLは鬼と肴で一杯

コロッケサンド

第1話 資さんうどんで乾杯

「なあ〜。死ぬつもりならお金くれない〜?」

「……え?」


寒い澄んだ夜空で月が輝き、時刻は昔で言うところの逢魔時。

歩道橋の上で2人は邂逅した。


1人は20代後半、スーツ姿の女性。

顔を隠すような黒の長髪と野暮ったい眼鏡。

疲れ切っているのか目下のクマがひどい。

彼女は歩道橋の真ん中、そこで手すりに足をかけ、飛び降りようとしている最中。


対して、身投げ直前のOLに声を掛けたのは、糸目の高身長な美青年。

180cmはあるだろうか?

マッシュヘア、昔で言うところのざんぎり頭で、ジーンズとライダースジャケットを身に纏っている。

甘い顔に、ニパァ〜と人当たりの良さそうな笑顔を浮かべている。

だが、月夜に照らされた糸目の美青年からはどこか不吉を思わせた。


だが、それよりも気になったのは彼の頭から生えている2本の角。

それはさながら御伽話の鬼のようで、


「………はあ。20連勤だと、やっぱり頭がおかしくなるんだ。美青年な鬼の幻が見えるなんて」

「ん〜?幻よく見るのかー?これがセイメイの言ってた社会の闇か〜」


美青年を見てもOLはハハハと乾いた笑いをこぼす。


「しかもセリフがお金頂戴って、ホント私の人生って…………もういいや。ほらもう要らないし」


OLは青年に財布を投げる。

青年は財布を受け取り、OLに感謝を言おうとして、


「おー、ありがとー……あれ?」


青年が財布から視線を戻すと、彼女の姿は歩道橋から消えていた。

そして、一拍置いてと、歩道橋下から何かが潰れる鈍い音がした。





学生時代に私、新道しんどう沙月さつきは女性グループから虐められていた。一度何故虐めるのか聞いたが、特に理由は無かったようだ。

小学生までは通知表に「明るく活発な子」と書かれていたそうだが、今では全く思い出せない。

そして、憂鬱に流されながらも学業を終え、やっとイジメが終わるかと思えば、イジメというのは子供の物だけでなく、大人の世界でも普通にあった。


これは走馬灯か。

改めて自身の過去を突きつけられると、まったくロクでもない人生だ。


『………い』


後悔があるとすれば、両親に別れを言えなかったことだろうか。

遺書は用意してない。

なんせ、私は今日死のうだなんて計画してなかった。

いつもみたいサービス残業で仕事が遅くに終わって、いつもの帰り道。

帰り道で歩道橋を歩いてる時に、ふと、下を走る車を見て、


……ああ、ここから落ちたら終わるな


そう思うと、気づけば歩道橋の手すりに足を掛けていた。


『……ーい』


何かうるさい。

いつになったらあの世に行くのだろう。


『おーい。………起きろー』


ペチンと頬を叩かれ、沙月の目が覚めた。





「お!起きた」

「────あれ?」


目を開けると公園のベンチに沙月は座り、目の前ではしゃがんだ青年が、沙月の頬をペチペチ叩いていた。


「ごめんなー。貰った財布の中にお札無いし、くれじっと?とかが使い方分からなくてなー」

「いや、あの、何かごめんなさい。最近現金を持ち歩いてなくて」


お金をたかった目の前の青年の言葉に、何が何だか理解が追いつかず、思わず謝っていた沙月。


「…………じゃなくて、私死にませんでした?」

「そー。でも、お酒飲みたかったから助けたー」

「助け、って、あの高さは致命傷のはず、あれ?」


そう言いながら自分の身を確認するが、傷がない。

スーツには所々傷や裂けがあるが、体には擦り傷すら無いし、服には血がついてない。


……気のせい?

もしかして働き過ぎて、幻覚見てた?記憶飛んで倒れてた?


見れば、目の前の青年の頭から生えていた角が無い。さっぱり消えている。


「あの、もしかして……介抱してもらったり?」

「ん〜………まあ、そうなるなー」

「マジかぁ………ごめんなさい、ご迷惑おかけしました」


どうやら本当に働きすぎで頭がおかしくなっていたようだと、沙月は頭を抱える。


……明日は流石に休みを……、いや、あの上司が認めるわけがないか。


悩みの種は尽きないが、とりあえず迷惑をかけたであろう目の前の青年にお詫びをしなくては。


「お兄さん、ありがとうございます。何かお詫びをさせて下さい」

「お詫び……、ならお酒飲ませて〜♪」

「へ?お酒?」





沙月は疲れもあり、正直すぐに帰りたい。

けれど、どれだけこの青年に迷惑をかけたか覚えてないし、それに。


いつも変わらない毎日を少しでも変化が欲しかったのか。

青年はお酒を飲む目的地があるらしく、沙月はお詫びのために青年に素直について行く。


しかし、たどり着いた先は、沙月からすると意外なお店で。


「本当にここですか?うどんって書いてますけど」

「合ってるぞー」


こんな時間だし、どこかのバーにでも行くかと思っていたが、辿り着いたのはどう見てもチェーン店。しかも、うどんのチェーン店。


【資さんうどん】


……しさんうどん?…いや、すけさんうどんなんだ読み方。


すすっと慣れた様子で沙月はスマホで調べる。どうやら、九州発祥のご当地うどんチェーン店で、最近東京に進出したらしい。24時間経営なので、深夜2時を回っていても開いてるのか。


高いのを奢らなくで良さそうだが、いやいやしかし、見るからにうどん屋さんだ。ここでお酒とは?


訝しげに考えている沙月を置いて、「お酒〜」と言いながら青年はズイズイと入店するので、慌てて追いかける。


こんな時間のため人は少なく、テーブル席へと座る。

沙月は落ち着かない様子でキョロキョロと店内を見渡すと、前から「あー」と残念そうな声が聞こえた。


「どうしました?」

「注文が苦手なやつだー。分からーん」


そう言って不慣れな様子で触っているのはタッチパネル。このお店は、最近流行りのタッチパネル形式の注文方法のようだ。

青年は明らかに使い慣れていないのか操作に四苦八苦して、辿々しい。


「あの、私が操作しますね」

「助かるー。いや〜助けて良かったー」


沙月がそう提案すると、非常に喜んだ様子の青年。

機械の操作に濡れてないとは、今時珍しい青年だ。


「これくらい大丈夫ですよ。それで何を頼みます?」


タッチパネルに触れると一番最初に表示されたのはゴボ天うどん。やっぱりうどん屋さんだ。


「お酒〜!それと、おでん!」

「……おでん、ですか?うどん屋さんで?」

「おー。セイメイがお湯割りも有る言ってたぞー」


お湯割りも?

青年の言葉に疑問を浮かべながらも、タッチパネルを探すとおでんが本当にあった。


「本当だ。あ、ジャガイモもある」

「じゃがいも……馬鈴薯かー。良いねー。じゃあ、それ!」


意外と渋いなこの青年。

沙月は次に飲み物のページへ。

青年が言っていた通り、アルコールのメニューがあり、品揃えはどの店でも良く見るビールと、


「……芋と麦の焼酎のお湯割り。珍しいですね」


本当に焼酎があった。

良心的な360円。

しかも、ロック、水割り、ソーダ割り、お湯割りと飲み方が豊富に選べる。

日本酒も冷と熱燗が選べる。


なんとも珍しい。

勿論、店名にも有るようにうどんの品揃えは豊富だ。うどん以外にもおでん、カレーや丼もの、おにぎり、焼きうどん、スイーツなどもある。


「飲み物はどうしますか?」

「日本酒あるなら、日本酒の熱燗〜!」


焼酎お湯割りじゃないんだ、と思いつつも注文を済ませる沙月。


「沙月は何を飲むんだ〜?」

「私は……すみません。明日は仕事なのでご飯だけで」

「え〜勿体無ーい!」


沙月がそう答えると、青年は心底驚いた表情をする。

あまりにも残念そうな顔をするから、沙月は少々申し訳ない気分になった。

そもそも、最近の沙月にとってお酒は無理やり飲まされる物であり、あまり良いイメージが無い。


……昔は憧れてたんだけどな、酒を飲める大人って。


沙月昔を思い出しながらぼーとしていると、青年は何かを思い出したようで、


「あ!なら、ゴボ天うどん美味しいってセイメイが言ってたぞ〜。あと巻き寿司〜」

「そんなに食べれませんよ、私」

「ならお寿司は半分こしよ〜。俺も食べてみたいし〜」


……半分こ。


それなら、まあ食べきれなくは無いか。

いつもは少食な沙月も、何故か今は空腹で食欲がわいてる。まるで、お腹の中身がごそっと無くなったみたいだ。


沙月は青年の提案に乗り、巻き寿司とうどんの注文を入れる。


ふと、気になっていたことが。


「お兄さんはここに来たことは無いんですか?」

「無いぞ〜。全部セイメイの受け売り〜」


聞けば、どうやらセイメイさん?という知り合いから教えて貰ったお店らしく、気になって来たらしい。


「南の薩摩側のお店らしくてな〜。最近はこっちにも出店してるんだってさ〜」

「へー。あ、だからゴボ天とか、かしわうどんなんですね」


先ほど九州のお店ということは調べて分かってはいたが、青年との会話でメニューの傾向の合点が行く。福岡か大分では。たしかゴボウ天とかしわ(鶏肉)のうどんが有名だったとTVで言っていたような。


……しかし、薩摩?随分古風な言い回しだ。


時代劇とか好きなのかな、なんて思っていると、注文したメニューが届いた。


「お待たせしました。こちらおでんと熱燗でーす。熱いのでお気をつけ下さーい」


「お、きたきたー!」


いつもニコニコ笑顔の青年が、なおさら喜びで笑みが深くなる。

空腹の沙月の鼻に、出汁の良い香りが届く。

ホカホカと湯気が立つおでんのジャガイモ。つるりとした表面は、ほんのり茶色くなっており、出汁を吸っているのが分かる。


日本酒は徳利ではなく、陶器のコップに注が、熱燗にしたことで日本酒独特の華やかで甘い香りが漂う。

メニューには『日本酒(7勺) 熱燗』と書かれていたが、勺とは?


「7しゃくって、コップで入ってくることなんですかね?」

「1勺は一合の10分の1で、だいたいお猪口一杯分だな〜。さて、いただきま〜す♪」


沙月が何となくした問い掛けに、さらりと青年は答え、日本酒の入った陶器のコップを掴む。

もう待てないと言わんばかりに、慣れた手つきで口に運び、


───ぐびり


「ん……ぷはぁ〜。やっぱり酒は美味いなぁ」


チロリと長い舌が見え、酒で潤った唇を舐める青年。

糸目がさらにトロンと細くなって、目尻が下がる。酒を呑んでいるだけなのにどこか扇情的な姿に、沙月は思わずドキリとする。


沙月が見惚れてることなど露知らず、青年は日本酒の香りが口から抜け切らぬ内に、箸でおでんのジャガイモを切り分け、あつあつ言いながら一口パクリ。


──ほくほく、じわぁ


熱されてほくほくのジャガイモの甘みと微かに土を感じる香り、そして噛めば噛むほど出汁の塩気と風味が合わさっていく。


そこへ、熱燗を流し込む。

出汁の日本酒の華やかな香りが、混ざり合い鼻腔へ抜けていく。


……酒が飲めて今日も幸福だな〜。


「かぁ〜。……ん、どした〜こっち見て〜?」

「え、あ!すみません、何でもないんで!」


整った顔立ちだからか、ただ食事をしているだけなのに艶やかな青年を見ていた沙月。

視線を感じて、不思議に思った青年がそう問いかけると、沙月は「見惚れていました」なんて言えるはずがなく慌てて目を逸らす。


沙月がどうしようと思っていると、運良く救いの手が差し伸べられた。

──うどんだ。


「お待たせした〜。うどんと巻き寿司でーす。ごゆっくりどうぞ〜」


目の前に注文していたうどんが届き、

これ幸いとばかりに、沙月はうどんを受け取り、レンゲと箸を構える。


「わ、わー!うどんが来たので、いただきまーす!」

「急にテンション高くなったー?うどん好きなんか〜?」

「はい!それはもう!」


恥ずかしさをゴリ押しで隠して、青年からうどんに視線を移して固定する。


ゴボ天うどん490円。

縦割りされて細く長いゴボウの天ぷらが5本。

「資」と字が入った紅白のかまぼこと、青ネギ。

巻き寿司は太巻き。大きめの具がぐっと詰められて、中には大きい卵焼きにきゅうりとかんぴょう。それに何かペーストのようなものが巻かれたボリューミーな4切れが皿に乗っている。


湯気と共に運ばれる香りに、ごくりと唾を飲む。

沙月は「いただきます」と小さく言って、麺をすする。


──ぷるぷる、もちもち


「ん!もぐもぐ、……美味しい」


いつも食べている冷凍うどんと異なった食感。

やまらかい。けれど、コシが全く無いといわけではない。程よいモチモチ食感。


レンゲでスープを一口。


スープは出汁がよく効いたもので、少し濃い目。そして、後味が甘い。九州の店だから、甘い九州醤油でも使っているのだろうか。


疲れた体と空腹にスープがジンワリと染み渡り、沙月はうどんを黙々とすする。


……そう言えば、温かい料理は久しぶりだな


最初こそ自炊をと張り切っていたが、残業続きの毎日に毎食コンビニ弁当。

さっさと寝たいので温めずに弁当を食べる。

あれは食事というより、ただの作業であった。


単純なものであるが、温かい料理を食べているだけで、生きてると実感が湧いてくる。

うどんをある程度食べ進め、ゴボ天がトッピングされていたことを思い出す。


ゴボ天を箸で掴み、齧る。


──ザクッコリコリ


スープを吸って少しふやけてしまっているが、むしろ衣が出汁を吸っていて美味しい。


そして、衣に隠されていたゴボウの存在感。

縦割りで切られているので、ザクザクと快音が。ゴボ天自体の味付けは質素であるが、うどんにトッピングする上ではこれで十二分。


うどん《モチモチ》とゴボザクザクの二重奏。


それを満喫している沙月に、おでんを楽しんでいる青年が声をかけてきた。


「寿司貰うぞ〜」

「あ、どうぞどうぞ」


沙月が答えると、すっと青年の手が巻き寿司の方に伸び、一切れを掴む。

一切れだけでも大きいが、青年はそのまま一口で丸々、パクリ。


蛇の丸呑みみたいだなと沙月が思う中、青年は巻き寿司がお気に召したらしい。


「ン〜、甘くて後味さっぱり〜」


巻き寿司を飲み込んだ青年はすかさず日本酒をぐびり。


「やっぱり米に日本酒は合うな〜」


酒呑みの発言だと思いつつ、先ほどの青年が発した巻き寿司の感想が引っかかる沙月。


……甘いは多分卵焼きのことだろうけど、『さっぱり』?


気になり、レンゲと箸を置き、巻き寿司を掴む。

やはり大きいので、青年のように丸々食べるではなく、こぼさないように気をつけながら一口齧り付く。


卵焼きの甘み、煮付けられたかんぴょうのコリコリ、きゅうりのカリッとフレッシュな青臭さ、そして大葉のフレーバー。

それがシャリと海苔で巻きつけられ、連携している。


全体的に甘めの巻き寿司で子供も好きそうだなと思い、もう一口齧って咀嚼していると、酸味が口に広がってきた。

そう言えば、巻き寿司に何かのペーストが入っていたけど。


……この酸味は、……梅だ!


甘味の中から酸味が現れ、味を引き締まる。

酸味で、ついついもう一切れ食べようと手が伸びる。


「美味しいですね、巻き寿司」

「だろ〜。セイメイが言うには、ぼた餅もオススメらしいぞ〜」


セイメイさんとやらについて顔も知らないが、良いお店を教えてくれたことに沙月は心の中で感謝しておく。


沙月がもぐもぐと2切れ目を食べていると、先に巻き寿司を食べ終えていた青年がおもむろにレンゲをつかんだ。

何をするんだろうと沙月が眺めていると、青年はおでんの汁をレンゲで掬い、日本酒の入ったコップに入れた!


「えっ!何してるんですか!?」

「何って、お酒の出汁割り〜」


おでんの汁レンゲで掬って入れて、最後に七味をぱらり。


「この前、赤羽のオッちゃんに教わってなー。慣れるとクセになるぞ〜」


そう言って青年は日本酒の出汁割りをグビリと呑んで、ふぅと一息吐く。


「はぁ〜美味いなぁ〜」

「えぇ、本当ですか?」


青年の感想に、沙月は懐疑的な表情。

すると青年は出汁割りの入ったコップを差し出して、


「なら呑んでみるかー?」

「え、あ、……じゃあ一口」


思わず受け取ってしまった沙月は、間接キスだなと少し思いはしたが、チロッと舐めるように少しだけ出汁割りを口に含む。


「……あれ?美味しい」

「だろ〜」

「お酒の感じはあるんですけど、スープのような味わいですね」


おでん出汁の塩味と日本酒が意外にも合う。

驚いた沙月は確かめるために再度一口。


沙月は知らないことだが、世界的に見ると、酒を出汁系で割るカクテルはある。

代表格だと、ブラッディシーザー。ハマグリのエキスが含まれるトマトジュースを使用したカクテル。他にもメキシコのミチェラーダもその枠だ。

そして、出汁割りの美味しさは化学的にも証明されている。

主なうま味成分であるグルタミン酸やイノシン酸、グアニル酸など。

日本酒など植物由来のものにはグルタミン酸。。鰹節や鶏など魚や肉由来の出汁にはイノシン酸、干ししいたけなどからとる出汁にはグアニル酸が含まれている。

異なるうま味成分の相乗効果で、さらにうま味が増すのである。


七味も入ってるからか、二口しか飲んでないのに沙月の体が内側からホカホカしてきた。


「なんだ、意外と酒飲めるんだな〜」

「私、日本酒ってただキツいだけのお酒だと思っていました」

「そんなことないぞ〜。よーし、次は芋のお湯割り〜♪」


青年は気前良く言うが、出すの私のお金なんですけどね。

そう思いつつも、久しぶりのお酒で酔ったのか、それとも久方ぶりの誰かと食べる食事に気をよくしたのか。


「……私も飲んじゃおうかな」

「お!いいそいいぞ〜」


沙月は流れに任せて、見ず知らずの青年とのその場を楽しむことにした。





「やってしまった」


気づけば朝5時。

なんだかんだ店に入った時点で深夜2時を回っていたし、そこから酒を飲めばこの時間なのも妥当である。


もうしばらくしたら上司に連絡して有給のお願いをするつもりの沙月。

絶対に、間違いなく、確実に部長とお局先輩から電話越しに小言と罵倒が来るであろうが、今日は構わず取ってやる。

有給取得なんて2年ぶりなんだし。


「お酒ごちそうさま〜。飲みすぎちゃっただろ〜」

「まあ、そうですけど。働いてばっかりで、お金はあったんで」


青年はそうは言うが、笑顔なのは変わらず、全く申し訳なさそうではない。

あの後、青年は芋と麦のお湯割りをそれぞれ3杯、水割りもそれぞれ3杯杯、日本酒を冷でもう1杯。

飲むペースも量も、優男な見た目からは想像できなかった。そのくせ、顔色は全く変わらず、大酒呑み《ウワバミ》である。


沙月はほろ酔いで青年の顔を見て「シミひとつ無いなぁ」なんて思っていると、ふと今更ながらある事に気づく。


……そう言えば、この人の名前聞いてない


本当に今更である。

覚えていないが、青年は倒れていたところを介抱してくれた恩人である。

気まずくなりながらも、沙月は青年に名前をたずねる。


「あのぅ……お兄さんのお名前って聞いても?」

「名前?良いぞー。そっか、言ってなかったかー」


そう青年は答えて、──何故かしばらく「……ん〜?」と考え込む。

そして、ぽんと手を打ち、


「しゅ〜?…て、てん……そうだそうだ!天童てんどう 洲児しゅうじ。俺の名前〜」

「天童さん」

「そうだぞー」

「………………………偽名ですよね?」

「そうだぞー」

「……ええ?」


沙月の質問に、間髪入れずに戸惑いもなく答えた天童さん(仮)。

変わった人だとは思ってたけど、変な人だった。


「偽名だけど、今の本当の名前だぞー。ほら、メンキョショー?にも天童って書いてあるだろ〜」

「偽名の免許証がある時点でヤバいんですよ」


……ちゃんとした免許証だ。天童州児って本当に書いてある。


その事実が殊更怖い。


出てくる話が絶対に関わってはイケない人の類いだが、「どした〜?」と聞いてくる呑気な様子の天童を見てると、沙月の警戒心も薄れていく。


無理やり「この人は天童さん」と納得させて、


「……天童さん、今日は倒れてる所を介抱してくれてありがとうございました」

「良いってことよ〜。えーと、お姉さんの名前は?」


天童さんにそう問われ、自分も名乗ってなかったことに気づいた沙月。

天童を名乗る青年は正直怪しいが、名乗るのがマナーと考える。


「沙月です。新道沙月って言います」

「沙月ね。ありがとな〜。お酒もこんなに飲ませてくれたし〜………………でも、そうだなぁ」

「どうしました?」

「───と思って」


沙月は急に寒気を感じた。

薄くしか開いてなかった天童の糸目がスッと開き、蛇のような瞳が見えた。

その瞳は、どこまでも澄んでいて、どこまでも深く、故に何の感情も有していない。


沙月は、蛇に睨まれた蛙のように動きが止まる。

ただが合っただけなのに───沙月は瞳を逸らせない。


身動きが出来ない沙月に、青年の形を成したは手を伸ばし、



───ぽん



天童は沙月の肩を軽く叩いた。

それだけであった。


「はい、おまじない。ごめんな〜、怖がらせちゃったー?」

「い、いえ。少しビックリしただけで。……?」


沙月の肩を叩いた天童はまたもや糸目に戻り、何事も無かったかのように笑顔を浮かべている。

沙月が感じていた寒気も無くなり、気のせいか?と自身を納得させる。


……肩を叩いたけど、おまじないって何だろ?


沙月は、不思議に思いながら天童が叩いた方の肩を見てると、天童の声が聞こえた。


「それじゃ。またな〜沙月〜」

「あ、はい。さよな……ら?あれ?天童さん?」


急な別れの挨拶から、沙月が慌てて肩から天童の方に視線を戻すと、───天童の姿は既にそこには無かった。





沙月の前に嵐のように現れ、嵐のように消えた天童。

これが初めての邂逅であり、そして、これから長い付き合いとなる始まりの日であった。


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