空挺賊の娘
星兎
第一章 空挺賊の娘
1
風が通り過ぎ、砦に置かれている『カラン』が細かな波のような音を立てているのが窓の外から聞こえてきた。私は今、日誌を書いている。航海日誌だ。誰に見せるでもない、誰かのために書かれている訳でもない、個人的な記録。これが永久に誰の元にも行かず、どこか、そう、深淵なる闇の底にでも消えてしまってくれたらと思う。
書きたくない筈なのに、書いている。私は今日もどうしようもない気分で、これを書いているのだ。
ウルドの白い羽を付けたペンに、シガドの村で取れた墨を薄めて書いている。私はその豪奢に誂えられたペンと墨を見つめながら、そっと呟いた。
「こんな風に作らなくてもいい筈なのにな……」
このペンを作るためだけに、ウルドは首を刎ねられ、羽をむしり取られた。木は切られ、呼吸を止める。呼吸の止まった木を蒸して、黒くさせた物を固めて擦った物がこの墨だ。文字を書きたいという手前勝手な浅ましい欲求を満たすためだけにも、これだけの命の犠牲と循環が起こっている。その純粋な暴力性とでも呼べるような物事の暴力性に、私は束の間驚きと共に見入っていた。
止まっていたペンを置いて、傍に突き刺さっている小さなナイフを見る。時が止まっているかのように、垂直に屹立している一本のナイフ。螺鈿細工で作られていて、持ち手のところから渦のような模様が広がって、流れのようなものが刃の部分へと続いている。
叔父が残した、恐らく彼にとっては一番大切な持ち物だったはずだ。なのに、最期の旅に出る前に、何故かこのナイフだけは残していった。まるでこの旅が、自分にとって本当の意味で最後になると知っていたみたいに。私に託す。そんな子供じみた理由を考えるぐらいには、旅に出る時は愉快な気持ちだったのだろうか。
私は、そのナイフの柄を激しく掴み取り、力の限り思い切り机に突き立てた。音のない闇夜に少しばかり興を添えるような、寂しい音が鳴った。
こうして、何度も地図に穴を開けてきた。そうする度にセスカに怒られてきた。彼女は物を損なうのを異常に嫌うのだ。
「どうしてイレイヌは物を壊すの? 物が可哀想じゃない」
地図は私によって損なわれて、もう何箇所にも穴が空いて、最早却って穴が空いている箇所には実は深い意味があるんじゃないかとうっかり見た者に勘違いされかねない程になっている。まあ見られることなんて絶対ないだろうけど。
彼が遺した、最後の宝物。それが空の、どこかの島々を描いたものであることは察することが出来るけれど、それがどこで、どんな場所なのかは分からないけれど、私はいつか、この場所に行ってみたいと密かに思い続けている。誰にも言ったことはない。自分との約束、みたいなものだ。
いつか行ってみたいという欲求は、どうしてこんなにも心を、身体中を高揚させるのだろう。最早存在しない誰かの遺した物であったとしても。もうその人に会うことも抱き締め合うことも叶わないのだとしても。
ランタンの灯りに透かして、穴の空いた羊皮紙の地図は、まばらに暖かく光り輝いているかのようだった。実際は風の通る穴がたくさん空いているだけなのだけれど。
窓の外で、例のサア、という大気が揺らぐような小刻みな風の音が聞こえてくる。旅団が帰ってきたのだ。カランが鳴る前に、私は気付いた。風の音は船団毎にまるで特徴が違っていて、船乗りなら誰でも聞き分けられる、彼らの身分証明書のようなものだからだ。
今回の交易は、何故か私は留守番だった。この女と子供しかいない「砦」に、私は見張り役として残ることになった。砦の岩場を軽やかに跳ね回り、飛び回りする自由な鳥達を眺めながら、羨ましいと心の底で感じていながら。
「やっと帰ってきたのか」
思わず声に出ていて、少し自分でも驚いたが、私は立ち上がって伸びをし、月明かりが差し込んでいる窓をゆっくりと開け、軋む音を聞きながら、遠くから聞こえてくる筈の旅団達の船を漕ぐ音を聞き取ろうとした。
やがて、例の船底から響き渡ってくるような幾つもの太鼓の重奏の音と共に、深い激しい風の音が響いてきた。風がやってくる。発電の為の風車と、カランが、必死にその翼を回させる。
私は冷たい白い月明かりを身に浴びながら、その景色と音の重奏を聞きながら、決して忘れまい、と思った。
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