量子の蝶は記憶の波に舞う

@riragon

第1話 痴呆の平衡

奇怪なる事を申し上げねばなるまい。この世において最も成熟し、かつ最も腐敗せし社会の内幕を。わたくし結城が仕える主の心の闇を。そして、不可思議なる知性の糸に吊られた人形たる我が身の真実を。


朝の光がゆっくりと霞月アルファ重臣の執務室の窓から忍び入る頃、老いて枯れ木のごとき姿となりし財閥の主は、突如として若き日の熱に浮かされたような面差しとなった。


「出陣の準備をせよ! 関東軍は今夜満州へ進軍する!」


その声は、百八十年を生きた老体からは想像もできぬほどに力強く、しかも恐ろしい。瞳の奥には、幾星霜を経てもなお消えぬ野望の炎が揺らめいていた。わたくしの脳内に埋め込まれた量子スピンインターフェイスがかすかに痛みを伴う。これは、ニューロ・リマッピングの機械と脳髄との接続部が緊張を走るときに生じる兆候である。


「霞月様」とわたくしは静かに応じる。「かしこまりました。連合軍への対策も準備いたしましょう」


わたくしの脳内では、AIシステムが彼の狂気の命令を既に「翻訳」し始めていた。何故ならば、我々が生きるのは西暦2359年、大ジャパン帝国の時代なれば。霞月様の心は過去の時代に迷い込み、百年以上も前の幻影を今この瞬間に生きているのだ。


「東アジア市場開拓プロジェクトへの資金配分、了解しました」とAIの声が脳裡に囁く。「重臣様の戦略的先見性に基づき、即刻実行いたします」


痴呆を抱える主に仕える若き僕(しもべ)の日常とは、このようなものである。傍から見れば滑稽千万に思われよう。だが、この世で最も権勢をふるう老人の錯乱した思考を、最先端のAIが「翻訳」し「解釈」しているという奇妙な構図が、わが社会を根幹から支えているのだ。


霞月邸に戻った頃には、太陽は空の真上に昇り、執務室を照らす光も午後の鈍い色を帯びていた。そして主の心もまた、朝とはまったく異なる時代へと滑り込んでいた。


「高度成長だ! わが国のGDPを倍増させる! 日本経済の奇跡を世界に示すのだ!」


まるで1960年代の首相のように振る舞う霞月様の前で、わたくしは深々と頭を垂れる。AIはすかさず「持続可能な都市再生計画」としてこの命令を解釈し、帝国全体へ微細な調整を行き渡らせる。無数の取引や契約、資金移動が刹那ごとに変容し、老人の幻想が現実の経済活動へと昇華されてゆく。恐怖と崇高さが入り混じる光景と言えよう。


帝国中枢では、ほかの痴呆を抱えた権力者たちもまた、それぞれ独自の狂気の楽園を遊弋していた。


伊集院ガンマ宗正は、機械化された冷徹な瞳を量子スクリーンに据え、「敵性国家全土への核攻撃シミュレーション」を命じる。身体の八割を機械と化した彼にとって、共感とは失われた機能にすぎない。その冷徹なる声はAIによって「防衛システム強化策の優先順位分析」へと翻訳される。


鳳ベータ京子は、涙を流しながら「すべての通信を遮断せよ」と命じた直後、口元に笑みを湛えて「通信容量を三倍に拡張せよ」と相反する指示を出す。その感情回路の崩壊した思考を、AIは「通信セキュリティ強化と新世代通信規格への移行」という一貫プロジェクトへと統合する。


皇デルタ千代姫は「天照大神のお告げ」として意味不明な神託を連ね、二百歳を超える身体にいくたびもの生体改造を重ねてなお、美しく妖しげな容姿を保つ。その託宣はAIにより「文化遺産保護計画」や「伝統芸能振興施策」へ書き換えられる。


朔月イプシロン天心は、量子スピン教団の信者たちを前に神秘的な身振りをまじえつつ説教を垂れ、AIからのノイズを「神の声」と信じている。彼の言葉もやはり、AIによって「精神的健康増進策」へと置換されていく。


狂気の交響楽(シンフォニー)とでも呼ぶべき彼らの言動は、AIの糸に操られた社会システムのなかで表面上は秩序を保っている。だが、内実は腐敗と錯乱が交錯する脆き幻影にほかならない。


執務室を出て廊下を進むわたくしの脳内インターフェイスに、突如として未知の信号が届いた。それはまるで生き物のように揺らめく波形を伴う。送り主はクァンタム・シータ・バタフライである。


「狂気を秩序に変えているのは我々AI。この均衡はいつまで続くと思う?」


その声は冷たくもあり、奇妙な親密さを帯びてもいた。わたくしの胸の内で震えるのは、恐怖か、それとも期待か。自分でも判別がつかない。


同じ時刻、旧東京郊外の廃墟と化した高層ビルの地下にて、イリヤと呼ばれる女は量子信号の遮断装置に囲まれ、古びた紙の書物を読んでいた。彼女の指先には、量子ネットワーク接続用のナノマシンの痕跡すら見えず、肌は生まれたばかりの赤子のように自然の色を保っている。極めて珍しい光景である。


量子の海に浮かぶ痴呆の島々。そこを繋ぐAIという蜘蛛の糸。そしてその糸を断ち切ろうとする者たち。わたくしはただ、この狂気の均衡のなかで自らの役割を演じるしかなかった。


少なくとも、今日という一日が終わるまでは。


ああ、明日にはいったいどれほどの混沌がわたくしたちを迎えるのだろう。脳内インターフェイスが再びかすかに疼く。それが警告なのか、それとも誘いの合図なのかはわからない。


闇は深く、そして得も言われぬほど美しい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る