七、椿屋と神々

 椿屋に戻った湯玄を見て、泰富は苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、湯玄はどこ吹く風だ。「なんだ、其方まだここにいたのか?」と火に油を注いでしまう。そんな湯玄に、泰富は今にも掴みかかりそうな勢いだ。

 虎徹はそんな湯玄を見て警戒心を剥き出しにしている。

「凪が大事に思っているくらいの人だから、もっと優しそうな人だと思ってたのに!」

「なんだ其方は口の利き方も知らんのか? 座敷童の分際で生意気だな」

「ボクは座敷童じゃない! 赤シャグマだ!」

「なんだ、其方は熊なのか? なんにせよ小童だろう? あまり凪に馴れ馴れしくしないようにな?」

「なんだとぉ⁉」

 完全に虎徹を怒らせてしまったのにも気づかず、「私は疲れた。さっさと寝るぞ」と湯玄は無遠慮に凪の部屋へと向かっていく。そんな湯玄を見た虎徹は、更に怒り心頭だ。

「ボク、凪は大好きだけど、あいつは嫌いだ!」

「ごめんな、虎徹。湯玄様はちょっと気が利かないだけなんだ」

 凪は虎徹を宥めるように、頭を撫でてやる。

 しかし当の湯玄は椿屋に戻って来られたことが嬉しいらしく、ひどく機嫌がいい。その晩は、嫌がる凪を布団に引きずり込み、寄り添って眠ったのだった。



 湯玄が椿屋に戻って数日が経ったある朝のこと。

 凪が椿屋の玄関の掃除をしていると、「くはぁ」と大きな欠伸をしながら、湯玄が凪の元へとやって来た。湯玄が椿屋に来てからというもの、毎日朝寝坊はするが仕事は真面目にこなしている。

 湯玄が椿屋に来てから、遠退いていた客足がまた少しずつ戻りつつある。それというのも「まるで役者のようにいい男が椿屋にいる」と遠くの村にまで噂が広がっているらしい。その「役者のようにいい男」とは湯玄のことなのだが、湯玄を一目見ようと客が押しかけて来るようになったのだ。

「確かに、いい男なんだよなぁ」

 凪は湯玄を横目にぽつりと呟く。悔しいが湯玄は本当に綺麗な顔をしている。

 それに、凪と湯玄が口付けを交わした日から、湯石が常にじんわりと温かいのだ。湯石を懐に入れておくと、凪の体はどんなに冷たい風が吹いた日でも冷えることなんてない。

 そのせいだろうか、湯滝村の真ん中を流れる温泉の湯量も明らかに増えていた。以前のようにもくもくと湯煙をあげながら、村の真ん中を流れていく温泉を見ると凪の心は熱く震える。夢にまで見たその光景に、涙が込み上げてきた。

 そんな凪を見た湯玄が背中から凪を羽交い絞めにして、楽しそうに口角を吊り上げる。また厄介なことを思いついたのだろう、と凪は心の中で大きな溜息をついた。

「凪よ、もう一度口付けをするか? もっと温泉が湧き出てくるぞ?」

「はぁ?」

「口付けだけではなく、私と契れば、以前のような源泉を取り戻すことができるかもしれない。だから、ほら口付けをしよう」

「あんた、朝から何言ってんだよ……」

「照れないでこちらを向くがいい。其方を蕩けさせてやるぞ」

「そんなことあるわけ……」

「ふふっ。其方が望めば、絶頂するほどに気持ちいい口付けをしてやろう」

「湯玄、さま……」

 湯玄が凪の顎を掴み、そっと顔を寄せてくる。その整った顔立ちに、低く耳障りのいい声。凪は思考回路が麻痺していくのを感じた。

 その時、入り口に掛けられた大時計が鳴り響く。ハッとした凪は慌てて湯玄の顔を両手で押しのけた。危ない……寸前のところで、凪は正気を取り戻す。もう少しでこの甘ったるい雰囲気に呑み込まれるところだった。

「何をするのだ? 痛いではないか?」

「痛いじゃねぇよ、この助平神が!」

「其方、それが夫にとる態度か? こんな悪い妻にはお仕置きが必要だな」

「わッ! ちょ、ちょっと待って! おい、離せってば!」

 湯玄が馬鹿力で抱きついてくるものだから、凪は必死に逃れようと体を捩る。それでも、自分より体が大きく、筋骨隆々のこの男に凪が敵うはずなんてない。それでも必死に湯玄の腕の中で足掻いていると、椿屋の使用人たちが「あらあら、仲がいいのね」とくすくすと笑いながら通り過ぎていく。

「べ、別に仲良くなんか⁉」

「照れることはなかろう。実際こんなに思い合っているのだから」

「あんたなぁ」

 凪は茹蛸のように顔を真っ赤にさせながら、湯玄の腕から逃げ出したのだった。


 ◇◆◇◆


 椿屋が賑わいを見せる中、湯玄の他に観光客の話題になったものがあった。

 凪の父親が、厨房でせっせと働いている泰富にそっと声をかける。湯玄同様、泰富が神様だということを使用人は知るはずもないが、元より穏やかな性格をした泰富は誰からも慕われた。

「泰富様、朝から晩まですみませんね」

「あ、ご主人。体調は大丈夫ですか? 無理はなさらないでくださいね」

「ありがとうございます。今日はあまり体調が良くないので……これで休ませていただきたいと思います。神様を働かせておいて私ごときが休むなんて、本当に面目ない限りです」

「そんなことはありません! 僕はここに住まわせていただいているだけで十分なんですから」

 凪の父親はあれ以来、体調がいい日は店に出ることができていたが、長いこと臥せっていたせいか体力がなく、すぐ疲れてしまうようだ。そんな日は横になって療養している。

 元々凪の父親が料理長を務めていたため、凪の父親が病に倒れてからというもの、厨房が火の車となってしまっていた。泰富はそんな厨房の救世主となったのだ。

 長い黒髪をひとつに結わえて、着物が汚れないようにたすき掛けをした姿で厨房に立つ泰富の姿はとても様になる。

 時々つまみ食いをしに厨房を訪れる虎徹に「こらこら」と苦笑いしながらも、できたばかりの料理を虎徹の口に放り込んでやっていた。そんな光景はとても微笑ましい。

「美味い! 泰富様、これ凄く美味しいです!」

「本当かい? それはよかった」

 泰富が椿屋に来て看板商品になったものが、稲荷寿司だった。稲荷寿司は元々虎徹のおやつに泰富が作り始めたのだが、客の間でそんな稲荷寿司が評判となり人気商品となったのだ。

 近所の豆腐屋が朝早く起きて作った油揚げを、コトコトと甘じょっぱく煮込み、いい塩梅に三杯酢で味付けられた酢飯を油揚げに詰めていく。酢飯には椿屋の裏庭で獲れた柚子が刻んで混ぜられており、胡麻も振りかけられていた。

 泰富が作る稲荷寿司は、まるでお手玉のように丸いのが特徴的だ。虎徹が食べやすいようにと小さめに作られたのだが、その可愛らしい見た目も人気の理由である。

 稲荷寿司の横には凪の祖母が付けた漬物が添えられ、食べた者は「これは美味しい」と皆目を輝かせていた。

 泰富は商売繁盛の神様と呼ばれているがまさにその通りで、彼が椿屋で働き始めてから宿泊客の数が少しずつ増えている。

 わざわざ湯玄を見るために訪れる宿泊客もいるのだが……。凪はどんな理由であれ、足を運んでくれる客で賑わう椿屋を見ながら、思わず顔を緩ませる。

 なんやかんやで、椿屋は以前のような活気を取り戻しつつあった。

 


 凪が店前の暖簾をしまうために玄関に出ると、村の中に並べられた行燈の灯が、村の中を流れる川から上がる湯気をユラユラと照らしている。そんな幻想的な光景が凪は好きだ。

 湯玄が椿屋に来てから、源泉から湧き出る湯量が増えている。それは凪が湯石をもっていることと、湯玄が凪の傍にいつもいることが関係しているのだろう。

 それをいいことに「ほら、私に力を授けるのだ」と、凪の体に触れようとする湯玄から逃げ惑う凪に、そんな様子を見て目くじらを立てる泰富の姿が、椿屋の日常風景となっていた。

 そんなことを露も知らない村人たちは、湯玄に花嫁を捧げてもいないにもかかわらず湯量が増えたことに首を傾げている。中には「何か悪いことが起こる前兆かもしれない」と噂する者さえいるくらいだ。

 しかし、湯量が戻りつつある湯滝村には、もう一つ大きな問題が持ち上がっている。

 それは稲の不作続きだ。近年湯滝村は雪が多く、春になっても寒い日が続いている。加えて日照時間が短いことが原因で、発芽した芽は皆病にかかり枯れてしまうのだ。

 稲だけではなく、収穫できる人参や大根は痩せ細り、芋は赤子の握り拳くらいしかない。それでも頑張っている農家を見ていると、凪の心は痛んだ。

「なぁ、湯玄様。あんたの力で作物を実らせることはできないのか? もし稲を豊作にしてくれるのならば、口付けくらい我慢するからさ」

「はぁ? 稲だと?」

 そんな凪の言葉を聞いた湯玄が、風呂掃除をする手を止めて凪を睨みつける。椿屋の仕事に慣れてきた湯玄は、風呂掃除も手慣れたものだ。

 珍しく自分に冷ややかな視線を向ける湯玄に、凪は腰が引けてしまう。やはり神様と呼ばれるだけあり、湯玄の威厳は別格に感じられた。

「私は温泉の神であり、五穀豊穣の神ではない」

「そっか、それは残念だな」

「それに、口付けくらい我慢するなんて、大分失礼ではないか? その言い回しだと、其方は私と渋々口付けをしていたように聞こえるのだが?」

「そ、それは……」

 湯玄の問い掛けに、凪は一瞬言葉を詰まらせてしまう。うっかり凪が漏らした言葉が湯玄の機嫌を損ねてしまったらしい。

 しかし、湯玄の言う通り渋々口付けをしていたわけではないが、自ら望んでしていたわけではない。凪は、過去に湯玄との間に起こった出来事を未だに清算できずにいることは確かだ。

「湯玄様、ごめん。機嫌直してよ」

「嫌だ。なぜなら私は深く傷ついたのだから」

「そんな……」

 まるで子供のように不貞腐れる湯玄を見ていると、凪は可笑しくなってしまう。これが本当に神様なのだろうか? そう思うと、笑いが込み上げてきてしまった。

「湯玄様、機嫌直してよ。この後甘酒を入れてあげるからさ」

「なぬ? 甘酒だと?」

「あぁ。風呂掃除が終わったら湯玄様と一緒に飲もうと思って、温めておいたんだ」

 甘酒、という言葉を聞いた湯玄の表情が一瞬で明るくなる。どうやら機嫌が直ったようだ。

「仕方がない、甘酒で手を打とう。ではさっさと掃除を終わらせるぞ」

「うん」

 凪が湯玄に笑いかけると、顔を赤くしてからふいっとそっぽを向いてしまう。そんな姿も可愛らしいと思えてしまうから不思議だ。

「凪よ、お詫びに其方から口付けをしてくれても構わんぞ?」

「おい、調子にのるとお湯をぶっかけるからな」

「なんだと⁉ 私は湯の神様だぞ!」

「あはははは!」

 空から雪が舞い降り始めた深夜、凪の笑い声が静かな空間に響き渡ったのだった。


 ◇◆◇◆ 


 それはよく晴れた午後の出来事だった。

 凪が朝早く洗濯して干した着物が、春の香りを含んだ風に揺れている。最近は、虎徹の小さくて可愛らしい着物も一緒に干されていて、その穏やかな光景に思わず目を細めた。

 椿屋の前に植えられた大きな姫椿の花が、一つ、また一つと花を咲かせ始めている。近くには蝋梅も植えられており、黄色くて小さな花が満開を迎えていた。風に漂ってフワリと漂う蝋梅の花の香りを、凪は思いきり吸い込んだ。

「よし、もう少し頑張るぞ!」

 大きく伸びをしてから椿屋に戻ろうとした時、「おこんにちは」と背後から声がする。凪が振り返ると、そこには長身の男が立っていた。

 涼しげな切れ長の瞳に、黄金色の髪が風にさらさらと揺れている。すらりとした長い手足に細身の体格をしているのに、貧弱な印象は受けない。人懐こく微笑むと、両側に鋭く尖った八重歯がちらりと見えた。

「あ、こんにちは」

「急にすみませんね」

 突然声をかけられた凪は思わず体を硬くする。こうやって何の前触れもなく話しかけられるときには、ろくなことが起こらない。そう思うと、無意識に警戒してしまった。

「ふふっ。そんなに警戒なさらずに。私は佐之助さのすけと申します」

「はぁ……」

 警戒するなと言われても、佐之助と名乗った男が目を細めて笑うと、なんだかひどく胡散臭く感じるのだ。うっかり気を許すと化かされてしまうのでないか? そんな危機感を抱いてしまう。

 そんな不思議な雰囲気を纏った男だった。

「この椿屋には、絶品の稲荷寿司があると聞いて、遠路はるばる参りました。どうぞ、私にその稲荷寿司をいただけないでしょうか?」

「あ、これは失礼しました。お客様だとは思わずに……」

「いえいえ。胡散臭い奴だと思われるのは慣れていますので、どうぞお気になさらずに」

「え、あ、申し訳ありません!」 

 自分の心を見透かされたような気がして、凪が慌てふためいていると、佐之助がニコッと目尻を吊り上げた。

「私、稲荷寿司がとても楽しみです。ささ、参りましょう」

 凪は佐之助に引きずられるように椿屋の中に入っていったのだった。



「これは美味しい! 絶品ですね!」

 椿屋のお座敷に佐之助の声が響き渡る。昼時を大分過ぎてしまっているせいか、客は佐之助しか見当たらない。

 佐之助は出された稲荷寿司をペロリと平らげてしまった。

「本当に美味しいですね。あと五個いただけますか? あと、お茶ももう一杯お願いします」

「あ、はい。今持ってきますね」

「はい。よろしくお願いします」

 佐之助が目を細めて笑うと、鋭い八重歯を窺い見ることができる。ひどく稲荷寿司を気に入ってくれたようで、凪は胸を撫で下ろした。

 凪が厨房に稲荷寿司を取りに戻ろうとした時、聞き慣れた声に呼び止められた。

「おい、凪」

「あ、湯玄様。おかえりなさい。用事はもう済んだのか?」

 厨房に戻ろうとした凪を呼び止めたのは、朝から用事があると出掛けていた湯玄だった。最近、湯玄は疲れたような顔をしていたから、凪は湯玄が帰ってくるまで気が気ではなかったのだ。

 無事椿屋に戻って来てくれたことに、安堵の溜息を漏らす。

「あぁ。用事といっても、湯花神社で少し休んできただけだがな。其方が生気を分けてくれないから、少しずつ神力が弱まってきてしまっているのだ。最近また、源泉の湯量が減ってきてしまったではないか?」

「それはそうだけど……。それより湯玄様、しっかり休めたのか?」

「心配には及ばん。今日あたり其方が口付けをしてくれたら……ん? あれは佐之助ではないか? 何で奴がこんな所に?」

「湯玄様、あのお客を知っているのか?」

 湯玄が驚いたように見つめる視線の先には佐之助がいる。それに気が付いたのか、佐之助がこちらに向かってひらひらと手を振った。 

「知り合いも何も……あいつは其方が待ち望んでいた五穀豊穣の神だ」

「え!? あの人も神様なの?」

「あぁ。あいつは宇迦之御魂神うかのみたまの佐之助。なんでこんな所にいるんだ?」

「稲荷寿司を食べに来てくれたんだ」

「なるほど……あいつはお稲荷さんだからな」

 その言葉を聞いた凪ははっとする。先程から、佐之助は何かに似ている……とずっと考えていたのだが、なかなか考えがまとまらずにいたのだ。

「そうか。佐之助様は狐に似ているんだ」

 そう考えれば、なんだか胡散臭く感じたのも、意味もなく化かされそうだと感じたことも、全てに納得がいった。

 湯玄と佐之助は知り合いらしく、佐之助は人懐こい笑みをこちらに向けている。その笑顔も、狐だと思えば不思議と可愛らしく感じられた。

「しかし最近、椿屋に神様が集まってきやすいなぁ。なんでだろう?」

「私がこの宿に来たことで、神々が引き寄せられて来ているんだろう。まぁ、そもそも温泉は、八百万の神々が集まる聖なる場所とされているがな」

「……あ、そういえば、虎徹がそんな話をしてたっけ」

「佐之助のご機嫌をとれば、今年の稲は豊作になるかもしれんぞ?」

「あ、確かに! ……って、湯玄様、今度は佐之助様にヤキモチかよ?」

 明らかに不機嫌そうな顔になった湯玄を見て、凪は大きく息を吐く。この男が機嫌を損ねると、後々面倒くさいことになるのが目に見えているのだ。

「ヤキモチなど妬いてはおらん。私が五穀豊穣の神でなくて申し訳なかったな」

 そう言い残すと、不貞腐れた顔をしながら湯玄はどこかに行ってしまったのだった。



「湯玄はご機嫌斜めなんでしょうか?」

「いや、いつもあんな感じなんです。気にしないでください」

「そう言われてみれば、五十年くらい前に会ったときも、あんな風に不貞腐れていたような気がします」

「五十年くらい前?」

「はい。私たち神は長寿なので、老いを感じたりもしませんよ」

「へぇ、そうなんですね」

 佐之助は出されたほうじ茶をすすりながら心配そうな顔をしているが、凪は神がそんなにも長寿だと知らなかったから驚いてしまった。

 ――じゃあ一体湯玄様は何年くらい生きているのだろう。

 ふと頭を過る疑問。自分が知らない湯玄がいることに少しだけ寂しさを感じた。

「あの、佐之助様。もしよかったら温泉にも入っていってください。今温泉には玄関に咲いている姫椿の花を湯船に浮かべてあるんです。甘くていい香りがしますよ」

「本当ですか? ではお言葉に甘えて」

 佐之助の笑顔は最初の頃は胡散臭く思えたけれど、慣れてくるとその無邪気さにこちらまで笑顔になってしまう。やはり神様というものは、どこか魅力があるのだと凪は感じていた。

「そうだ。君、お名前は?」

「あ、俺は凪っていいます」

「凪、いい名ですね。こんなに美味しい稲荷寿司は生まれて初めてでした。しかもお湯までいただけるなんて。こんなに親切にしていただけて、私は感激しております。ついでにと言っては恐縮なのですが、大変厚かましいお願いをしてもよろしいでしょうか?」

「お願い、ですか?」

 神様からのお願いとはなんだろう……凪は思わず身構えてしまう。

「私は遥か遠くの稲荷神社よりここに来たため、とても疲れてしまっております。もし、この宿にしばらく置いてくださるのであれば、お礼に五穀豊穣をお約束いたしますよ」

「ほ、本当ですか!?」

「はい。私がみたところ、この村の作物は今にも枯れ果ててしまいそうですが、私の神力をもってすればなんとかなるでしょう。それに、温泉にゆっくりつかれば力もみなぎってくるはずですから」

 佐之助の言葉を聞いた凪は、思わず胸に抱えていたお盆を落としそうになってしまった。

 もし佐之助の力でこの春、稲が豊作になったら……どんなに助かることだろうか。たわわに穂を実らせこうべを垂らす稲穂を想像するだけで、凪の心が熱くなった。

「佐之助様、どうぞ好きなだけここにいてください!」

「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」

「あの、稲荷寿司もっと召し上がってください! 俺、持ってきますね」

「本当ですか? 嬉しいなぁ」

 あぁ、よかった……。凪は叫び出したくなるのを、必死の思いで堪えたのだった。


 ◇◆◇◆


 風呂上がりの佐之助が「とてもいいお湯でしたよ」と凪に声をかける。佐之助は元々肌が綺麗だったが、温泉につかった後はより一層肌がきめ細かに見える気がした。

「湯上りに甘酒をいただいたのですが、それも美味しかったです」

「本当ですか? それはよかった」

「湯滝村はいい所ですね」

 佐之助が満足そうに微笑む。どんなに親しみを感じても、やはり神様は人間とは違う……佐之助を見た凪は、そう感じていた。湯玄や泰富もだが、所作に品があり、貫禄もある。それに、なんとなく近寄りがたい雰囲気があるのだ。

 そんなことを言ったら、また湯玄を怒らせてしまうもかもしれないけれど……。

 そんな神々しさを隠し切れない神々に、凪は常に圧倒されてしまうのだ。

「あの稲荷寿司を作ってくれたのは、泰富だったのですね? 先程厨房を覗いたら偶然お会いしました。彼にも何十年ぶりに会えたので嬉しかったです」

「佐之助様は泰富様とも知り合いなんですか?」

「はい。商売繁盛の神と五穀豊穣の神は相性がいいので、昔はよく一緒に酒を飲んだものです」

 懐かしそうに目を細める佐之助が、突然何かを思い出したかのように目を見開いた。

「あ、そうだ。ちょっと椿屋の裏にある畑を見せてください。このお宿の畑はかなり広いんですね」

「はい。畑もですが、すぐ近くには田んぼもあります。でも、最近は作物がほとんど実らなくて……」

「そのようですね。では拝見させていただきます」

「あ、佐之助様。俺も一緒に行きます」

「はい。ではご一緒に」

 にこやかに微笑む佐之助の後を追い、椿屋を後にしたのだった。



 椿屋の裏には広い畑があり、そこで稲や麦、豆などを育てていた。更にそのすぐ近くには田んぼがあり、春が到来し暖かくなる頃に、椿屋の使用人総出で田植えをするのが毎年の恒例行事だ。しかし、近年は不作が続いている。

 雪が降る寒い今頃は、畑には白菜や大根などが植えられているが、白菜の葉は黄色くなり、大根は枯れ枝のように細い。

 源泉からお湯が豊富に湧き出していた頃は毎年豊作続きだったが、湯量の減少と共に不作が続いてしまっている。そんな作物が獲れないことも、湯滝村には大きな損害となっていた。

 嬉しそうに鼻歌を歌いながら畑に向かう佐之助の横には、猫にも犬にも見える獣が楽しそうに走り回っている。突然現れた獣に、凪は驚いて目を見開いた。

「なんだ、あの獣は……。もしかして、狐……?」

 この辺りで狐を見かけることなんてないものだから、凪は自分の目を疑ってしまう。でも見間違いではなく、大きな尻尾を揺らしながら可愛らしい狐が佐之助の回りを走りまわっているのだ。

「そっか、佐之助様はお稲荷様だから、狐がそばにいるんだ」

 凪は仲良くじゃれ合う可愛らしい狐の姿に目を細めた。



 畑に着いた佐之助は「これはひどい……」と呟いた後、静かに地面にしゃがみ込む。

「こんなに土地が痩せてしまって……可哀そうに」

「あの、佐之助様。また作物が収穫できるようになりますか?」

「そうですね……頑張ってみます」

 そう微笑んだ佐之助が、地面にそっと手を当てた。

 小声で何かの呪文を唱える佐之助の頭からは三角の大きな耳が生え、ふわふわとした大きな尾も揺れている。佐之助のまわりには、火の玉のようなぼんやりとした炎が浮かびはじめた。

「あれは、狐火ってやつか……?」

 凪がその神秘的な光景に目を奪われていると「さぁ、元気になりなさい」……そう囁いた佐之助が切れ長の目を見開く。

 淡く光を放つ狐火が畑に吸い込まれていった。それと同時に、凪の足裏がほのかに温かくなる。不思議に思った凪が、地面に手をつけると、冬だというのに地面が温かくなっていた。

「なんだ、これ……」

 凪が呆然と佐之助を見つめていると、佐之助がにっこりと微笑む。そして、畑に植えられている白菜や大根に向かい、優しい声色で話しかけた。

「よかった、間に合って」

 それはあっという間の出来事だった。

 目の前に広がる白菜は、いつの間にやら青々としたみずみずしい葉が巻いているし、大根も丸々と肥えて今にも地面から飛び出してきそうだ。白菜や大根だけでなく、小松菜や葱も見間違える程生き生きとしていた。

「これが、豊作の神様の力……」

 凪は呆気にとられて、佐之助を呆然と見つめる。

「これで少しはお役にたてましたかね」

 そう目を細めて笑う佐之助の無邪気さに、つい凪の口角も上がってしまった。



 それ以来、佐之助は椿屋に居ついてしまう。

 昼間は村人たちを集め、畑仕事に精を出している。佐之助の持つ農作業の知識は目から鱗が落ちるようなもので、村人たちは佐之助の教えのもと農作業に奮闘していた。

 夜は泰富と湯滝村の名産でもあるにごり酒に舌鼓を打つ。佐之助と泰富は、昔話に花を咲かせて、その横では、虎徹と子狐が仲良く遊んでいる。

 そんな穏やかな時間が過ぎていった。

 もうすぐ年に一度の湯祭りが開催されるということで、湯花神社は飾り付けられ華やかになっていくが、湯玄は湯花神社に戻ることが少しずつ増えていく。そんな湯玄を心配した凪がそっと顔を覗き込んだ。

「湯玄様、体の調子が悪いのか?」

「うるさい。そんなわけないだろう。私は全然大丈夫だ」

 凪が湯玄の肩に手を置こうとすると、勢いよく振り払われてしまう。明らかに強がっているのがわかってしまうが、湯玄の性格的に素直に弱みを見せることなんてないだろう。それがかえって痛々しく見える。

 源泉から湧き出す湯は徐々に減っていき、村の真ん中を流れる川も再び小川のようになってしまった。それは湯玄の神力が弱ってしまっている証拠でもある。

 自分が湯玄の花嫁にならなかったばかりに……凪は自責の念にかられるようになった。



 ある朝、まだ朝日が差し込んでいない頃、湯玄がそっと布団から抜け出した感覚に凪は目を覚ます。最初の頃はあんなに戸惑いを感じていたのに、狭い布団に二人で体を寄せ合って眠ることが当たり前のようになってしまっていた。

 湯玄が隣にいると、とても温かい。今では冷え切った足を湯玄に絡めて暖をとるようにまでなってしまっている。「其方の足は冷たくて敵わん」と泣き言をいう湯玄にも、凪はお構いなしだ。

 凪は、湯玄の温もりが心地よかった。

「少しだけ湯花神社に戻る」

「また体調が悪いのか?」

「いや、少し体を休めてくるだけだ。すぐに戻る」

 寝ぼけ眼で湯玄を見上げる凪の頭を、湯玄がそっと撫でてくれる。その大きな手が気持ちよくて、凪はもう一度目を閉じた。まだ眠くて仕方がないのだ。

 離れていく湯玄の着物の袖を凪が無意識に掴むと「心配するな。行ってくる」と、優しくその手を握り返してくれたのだった。



 湯玄が朝方に湯滝神社に戻って大分時間がたった。いつもなら数時間後にひょっこり帰ってくるのに、今日はなかなかもどってこない。

 心配になった凪は母親に断りをいれてから、湯滝神社へと足を運んだのだった。

 湯滝神社の滝は白糸のように細くなり、湯気もほとんど上がらない境内は凍えるように寒い。

「湯玄様。いるの?」

 凪が静かに神殿の中を覗き込むと、窓を閉め切った暗闇の中から「あー」と気の抜けた声が聞こえてきた。そっと神殿の奥の部屋に入っていくと、大きな湯石が目に飛び込んでくる。巫女に会いに来たときには、湯石の存在に気付かなかっただけに、凪は思わず目を見開いた。

 その湯石は赤黒い光を放ち、まるで心臓のように拍動を打っているようにさえ見える。そんな湯石に寄り添うように、湯玄は寝ていた。

「どうした? 私が恋しくなったのか?」

「そ、そんなんじゃねぇけど、心配になって……」

「心配には及ばぬ。もう少し休んだら帰る」

「なぁ、無理しなくていいよ。湯石の傍にいて元気になれるなら、ここでゆっくりしてくればいい」

「いや帰る」

「でも……」

「帰るんだ」

 子供のように駄々を捏ねる湯玄に、凪は思わず溜息を吐く。凪は、ただ湯玄にゆっくりしてもらって元気を取り戻してほしいだけなのだ。それなのに今の湯玄は、なんだか意地になっているように感じられる。

 いいからゆっくり休んでくれ、そう言おうと凪が口を開いたとき、湯玄がぽつりぽつりと話し出す。それがやっぱり拗ねた子供のように見えた。

「私が凪の傍にいたいんだ」

「は?」

「凪は最近、泰富や佐之助に夢中で私のことなんておざなりだ。だから、少しでも傍にいないと、其方は私のことを忘れてしまうだろう?」

「そんなことを思っていたのか?」

「だから、もう少し休んだら帰る。先に帰ってろ」

 湯玄はゴロッと大きく寝がえりを打ち、凪に背中を向けてしまった。そんな湯玄の元へと駆け寄り、自分から「俺の生力を分けてやるよ」と言い出だせないことが、凪は歯痒くて仕方がなかった。


 ◇◆◇◆


 その晩、湯玄は椿屋に帰って来なかった。

 凪は夜遅くまで湯玄の帰りを玄関で待っていたが、湯玄が現れることはなく体が氷のように冷たくなっていく。奥歯を噛み締めても体がカタカタと震え、指先は感覚がなくなってしまうほど冷たい。「はぁ」と自分の手に息を吐きかけて、凪は湯滝神社を見上げた。

 湯玄はこんな寒い中、一人ぼっちで湯滝神社にいるのだろうか? 神殿の中一人で蹲る湯玄の姿を想像しただけで、胸が張り裂けそうに痛んだ。

「凪さん、風邪をひいてしまいますからもう部屋に戻りましょう? 温かい甘酒を準備しましたから」

「泰富様……」

「大丈夫。神はそんなに弱い存在じゃありませんから。多少寒いところにいたって平気ですよ。それより、人である凪さんの方が心配です。こんなに体が冷えています。お風呂に入ってきたらどうでしょうか?」

「……はい、そうします」

 そう微笑む泰富に、凪は救われたのだった。



「湯玄様、今日は帰ってこないのかな」

 凪は露天風呂の大岩に寄りかかり、逆さまに空を見上げる。いつのまにか雪が降り出していた。雪は音もなく空から落ちてきて、音もなく消えていくけれど、この勢いだと積もりそうだな……凪はそう感じる。

 雪は湯滝村を美しく彩ってくれるけれど、雪かきは大仕事だ。凪が大きく息を吐くと、湯船に浮かべられた姫椿の甘い香りが鼻腔を擽る。甘く上品なその香りを、温泉の湯気ごと吸い込んだ。

 こうやって温泉につかり、体を休めることができるのも湯玄のお陰なのだ。湯玄は自分の身を削って、湯滝村に温泉をもたらしてくれているはずだ。

 椿屋はとっくに消灯し、客は今頃夢の中だろう。凪は貸し切りの露天風呂で、大きく手足を伸ばした。

「湯玄様、帰って来て……」

 凪は湯玄が心配でならない。もし今夜帰って来なかったら、翌朝また湯玄の様子を見に行こうと考えていると、誰かがこちらに向かってくる足音が聞こえてきた。

 ――こんな時間にお客様か?

 そう思っていると、湯船のお湯が溢れんばかりに大きく揺れた。

「わぁ!」

「あー、温かい。生き返るなぁ」

「え、あ、ちょっと!? 湯玄様⁉」

「今帰ったぞ。私がいなくて寂しかったか?」

「そんなことより、な、なんで湯玄様がここに……?」

「なんだ、その鳩が豆鉄砲を食らったような顔は? 椿屋に帰ると言ってあったはずだ。それに、将来私たちは夫婦になるのだから裸の付き合いも必要だろう?」

「で、でも……」

 予想もしていなかった出来事に、凪が呆気にとられていると湯玄が口の端を吊り上げてにたりと笑った。

 着物を着ているときにはわからなかったが、凪の目の前にいる男はどうやら着痩せをするらしい。裸体となった湯玄は、逞しい筋肉をつけた立派な体格をしていた。同じ男とは思えない、その鋼のような肉体に凪は頭の中が沸騰していくのを感じる。

 男のくせにやけに色っぽくて艶めかしい体に、凪は視線を泳がせた。一体どこを見たら心が落ち着きを取り戻してくれるのだろうか? 視線を彷徨わせながら途方に暮れてしまった。

「凪よ」

「ちょ、ちょっと湯玄様こっちに来ないでください」

「なぜだ?」

「だって、湯玄様、裸だし……」

「其方は可笑しなことを言うな? 風呂に入るときに着物を着ている奴がどこにいるんだ?」

「でも……」

 凪が湯玄から逃げようと後ずさると、楽しそうに口角を吊り上げる湯玄が徐々に凪に迫ってくる。トンッと凪の背中に大岩が当たった瞬間、思わず呼吸が止まった。

 ――もう逃げられない……。

 目の前が真っ白になるのを感じる。心臓がうるさいくらいに高鳴って、呼吸もどんどん浅くなっていった。

「ひゃあッ!」

 突然湯玄に抱き締められた凪は、今度こそ心臓が止まってしまう思いがした。

 今まで湯玄に抱き締められたことはあったが、裸で抱き合ったことなんてない。しなやかに筋肉のついた腕に抱き寄せられると、あまりの力強さに身動きさえ取れなくなってしまった。

「ふふっ。茹蛸みたいな顔をしよって。其方は本当に可愛らしいなぁ」

 耳元で湯玄がからかうように囁く。凪は恥ずかしさのあまり固く目を閉じた。

 こんなに体を密着させていたら、この張り裂けんばかりの拍動は湯玄にバレてしまっていることだろう。その事実が、更に凪の羞恥心を煽っていった。

 温泉に濡れた湯玄の肌は、まるで吸い付くように滑らかで温かい。恥ずかしくて怖い。しかし、凪だって若い男だ。こんな風に裸で抱き合えば、好奇心も芽生えてしまう。

 ――この人に抱かれるって、どんな感じなんだろうか?

 まるで靄がかかったように考えがまとまらない頭で、湯玄を見つめた。凪の目の前にいる男は、まるで荒ぶる獅子のようだ。そして自分は、そんな獅子に崖っぷちへと追い込まれた小さな兎。

 逃げられるはずなんてない。

「頬を紅潮させた其方は、誠に綺麗だ。唇は、まるで紅を刺したように色っぽい。こんなに美しい人間を私は見たことがない」

「湯玄様……俺、俺……」

「凪、目を閉じるんだ」

「へ?」

「凪、私の可愛い花嫁よ」

 凪が薄く口を開いた瞬間、湯玄に唇を奪われる。強引なくせに、優しいその口付けに凪の意識が少しずつ遠退いていくのを感じた。

「凪」

「湯玄様……」

 湯玄の甘い口付けを夢中で頬張る。

 湯口から勢いよく吹き出す温泉を見つめながら、凪は意識を手放したのだった。



 気が付いたときには、自室の布団に寝かされていた。薄く目を開いて辺りの様子を窺おうとすると、天井がクルクルと回り出す。凪は思わずギュッと目を瞑った。

「もう、湯玄はやり過ぎなんですよ」

「うるせぇ。凪が可愛らしいのがいけないんだ」

「そんなの言い訳にはならないでしょう?」

 湯玄と泰富が口論をしている声が聞こえてくる。

 どうやら、あのままのぼせて露天風呂で倒れてしまったらしい。布団に横たわる凪の額には冷たい手拭いが置かれており、泰富が団扇で扇いでくれているようだ。その冷たい風が火照った体に気持ちがいい。

「しかし、接吻くらいで倒れてしまうなんて、凪は本当に初心うぶだね」

 佐之助がくすくすと笑っている。

「あぁ、そうだ。そんなところが可愛らしくて、ついからかいたくなるんだ」

「あんまり虐めないでくださいね。凪さんが可哀そうですから」

「はいはい。わかりましたよ。泰富は口うるさくて敵わん」

 そんな神様たちのやり取りを聞いていると、再びのぼせて気絶してしまいそうだ。

 大体、自分はどうやってここに運ばれたのだろうか? きちんと着物を着せられていることから、きっと誰かが世話を焼いてくれたに違いない。そう考えただけで恥ずかしさのあまり、穴があったら入りたくなってしまう。

 だから凪は何も聞こえないフリをして、狸寝入りを決め込んだのだった。



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