出来損ないの花嫁は湯の神と熱い恋をする

舞々

一、湯の神との出会い

 それは風花が舞う寒い日のことだった。十歳ととせの祝いを迎えたばかりのなぎは、湯花神社の境内で遊んでいた。

 凪の両親は宿屋を営んでいる。共に毎日忙しくしている両親は、幼い凪と遊ぶ時間などもてずにいた。そのため凪はいつも一人で湯花神社に来ては、石蹴りをしたり、地面に落書きをしたりして遊んでいた。

 神社の入り口に置いてある、二匹の狛犬もいい話し相手だ。凪が一生懸命話しかけると「そうだ、そうだ」と相槌を打ってくれているような気がする。だから、凪は一人でいても寂しくなんてなかった。

 凪が湯花神社に足を踏み入れると、ムワッと生暖かい空気に包まれる。慣れていない人が嗅げば思わず鼻をつまみたくなる腐った卵のような匂いも、凪は慣れっこだ。冬の冷たい空気ごと思い切り吸い込んで、ゆったりと呼吸を繰り返す。

 少し離れたところからは、轟々と滝の落ちる音が聞こえてきた。

 いつもと変わらない。そんな穏やかな昼下がり……。



 ここは湯滝村ゆたきむら。凪が生まれ育った村だ。

 湯滝村は昔から温泉地として栄えた地域で、凪はそんな湯滝村で一番老舗とされている温泉宿、「椿屋つばきや」の一人息子だ。幼い頃から両親の手伝いをして、椿屋を支えている。

「いいお湯だったよ」

「食事も最高に美味しかった」

「また来るからね」

 そう言いながら笑顔で宿を出ていく客の顔を見ることが、凪は大好きだった。

 ――いつか自分がこの宿を継ぐんだ。

 そう思えば、凪は身震いするほどの興奮を感じる。

 凪は湯花神社にある滝が好きだった。立派な滝を眺めていると時間が経つのを忘れてしまう程だ。しかし、両親からは「源泉には近づいてはいけないよ」と口を酸っぱくして言われている。

 湯花神社にある滝は普通の滝と違い、源泉から湧き出した温泉が流れ落ちている。源泉からはとめどなく上質な温泉が湧き出し、その温泉のおかげで湯滝村は栄えてきたのだった。

 源泉の湯の温度は百度近くあるため、落ちたらひとたまりもない。そんなことは、幼い凪も十分に理解していた。ぐつぐつと熱い温泉が噴き出し、泡立つ源泉を見ていると恐怖心を抱かずにはいられない。

 だから、凪は両親の言いつけを守り、源泉に近付くことはなかった。

 そう、この日を除いては……。

 その日は凪にとっては、まるで目を疑うようなことの連続だった。誰に話しても、きっと信じてくれる人なんていやしないだろう。

 それでも凪は思う。あの出会いは運命だったのだと。



 湯花神社の真っ赤な鳥居をくぐると、広い境内が広がっている。境内は落ちてくる湯の熱気で蒸し暑く、硫黄の独特な匂いが鼻をついた。滝が流れ落ちる音が辺りに響き渡り、滝を眺めていると深い滝壺に吸い込まれそうになってしまう。

「な、なんだあれ……?」

 ふと見やると、境内では大きな犬のような獣が二匹……仲良くじゃれ合っている姿があった。

 それは炎のような真っ赤な色の獣と、空のように真っ青な獣だった。二匹の獣は楽しそうに追いかけっこをしたり、取っ組み合いをしたり、とても愛らしい。そんな光景に凪の口角が自然と上がっていく。

「可愛いなぁ。でも、あんな動物、この辺りにいたかな?」

 凪が目を凝らすと、その獣の姿には見覚えがあった。いつもどこかで見かけているはずなのに……なかなか思い出せずに、凪は首を傾げる。

「なんだろう、どこかで見かけたはずなのに。どこだろう……あ、そうだ……!」

 ふと凪の頭に過る光景。それは、赤い鳥居のある神社の入り口。そこには本堂を背に一対で向き合う狛犬が置かれていた。狛犬にしては珍しく、赤色と青色の狛犬だ。村人たちからは紅さん青さんと呼ばれて親しまれている。

 その姿は獅子に似て勇ましいのに、犬のような愛嬌もあった。

 一対の狛犬は、いつも一人で神社を訪れる凪を、そこに鎮座して待っていてくれているかのように感じていたほど、凪には思い入れの強い狛犬たちだったが。

「……え、まさか……?」

 凪が慌てて振り返ると、いつも二匹の狛犬が座っている台座の上には何も置かれていない。いつもならば、出迎えてくれる彼らのことを眺めつつやってくるはずなのに、どうして狛犬がなくなったことに気が付かなかったんだろう、と、凪は空っぽの台座を呆然と見つめる。

 何者かの悪戯だろうか? でも石で作られたあんな大きな狛犬を、誰かが盗むなんて思えない。凪の心臓が少しずつ速く拍動を打ち始めた。

 ――もしかして、あの獣が……。

 凪は居てもたってもいられなくなり、獣のいるほうに向かい走り出す。あの二匹の獅子のような獣たちは、もしかしたらあの狛犬かもしれない。そう思えば、確かめずにはいられなかった。

 「源泉に近付いてはいけないよ」という両親の言葉が頭をかすめたけれど、それ以上に好奇心が勝ってしまう。

 湯花神社の脇にある小道を駆け上った。緩やかだった坂は、源泉へと近づくほど勾配がきつくなってくる。滝を横目に「はぁはぁ」と息を切らせて坂を上り続けると、むせ返るような煙に、視界が一瞬真っ白になった。

 坂を上り切った先には源泉がある。凪は両親の言いつけなんてすっぽりと頭から抜け落ちてしまっていた。

 ただあの可愛らしい獣たちを、もっと近くで見てみたい……。そして、その正体を知りたい……。持ち前の好奇心がむくむくと芽を出した。

「おい、こっちにおいで」

 源泉の周りにある木でできた囲いから体を乗り出し、獣に向って手を伸ばす。源泉の近くは冬でも汗をかくほど熱い。

 ぼこぼこという音をたてながら、地面の割れ目から湯が湧き出し続けている。源泉の底は緑色の苔のようなもので覆われ、それと同じ色の温泉が滝に向かって物凄い速さで流れていた。

「ねぇ、俺と一緒に遊ぼうよ」

 凪が声をかけ続ければ、二匹の獣たちはきょとんとした顔で、凪を見つめている。そんな姿も可愛らしくて、凪は木の囲いに寄りかかり更に体を乗り出した。

 その時の凪は想像していなかった。長年、湿気と温泉の成分に晒され続けた木の囲いが傷んでしまっていることを……。部分的に腐敗していた木の囲いは、凪の体重を支えきれずに悲鳴を上げていたのだ。

 バキバキッという何かが壊れる音と共に、凪の体が大きく傾く。

 ――まずい。

 そう思った凪が何とか体勢を立て直そうとしたが、凪は崩れた木の囲いと共に空中へと投げ出されてしまった。

「わぁぁぁ‼」

 悲鳴をあげながら落ちていく凪。

 走馬灯とはこういうことを言うのだろうか。凪の周りから音が消え、周りの光景が怖いくらいゆっくりと動いているように感じられた。

 全身を焦がすような熱気を感じ、あまりの熱さに呼吸ができなくなる。肺が爆発してしまいそうだ。じりじりと皮膚が爛れるように痛み、銀色の美しい髪は儚く焼き切れていってしまいそうだった。

 ――死んじまう……。

 凪の意識が少しずつ遠退いていった。



 次の瞬間、凪の体がふわりと宙に浮く。つい先程まで感じていた灼熱の熱さは消え、呼吸が楽にできることに気がついた。凪は浅くなってしまっている呼吸をなんとか整えようと、必死に酸素を取り込んだ。

 ――俺、生きてるのか……。

 自分の荒い呼吸が異常に大きく聞こえて、心臓が張り裂けそうなくらいに鼓動を打つ。凪は無我夢中ですぐ傍にある温もりにしがみついた。

「なんだ、まだ子供じゃないか。おい、人間の子供よ。こんな所で何をしているんだ?」

「……え?」

「こんな所で何をしているのかを聞いているのだ。其方、死ぬところだったんだぞ?」

 凪が恐る恐る目を開けると、目の前には目を疑う程美しい男が自分の顔を覗き込んでいた。

 濡れ羽色の髪は日差しを受けきらきらと輝き、そんな髪と同じ漆黒色の瞳。切れ長の涼しげな目元は彼を凛と見せる。その堂々とした雰囲気に、凪は一瞬で視線を奪われてしまった。

 ――なんて綺麗な男性ひとなんだろう。

 凪はこんなに容姿の整った男を見たことがなかった。凪も美形だと村では評判だが、目の前にいる男は、見た目がいいだけでなく男の色気を兼ね備えているのだ。

 あまりにも美しい男を前に、凪の顔が熱を帯びていく。鼓動がどんどん速くなり、うるさくて仕方がない。

「すごく綺麗だ……」

「ん? なんだ?」

 凪は、そんな筋骨隆々な男に抱きかかえられていることに気付き、思わずつぶやいた後に言葉を失ってしまう。恥ずかしさのあまり、唇を噛み締めたまま俯いた。

「お前まだ子供だな? 年はいくつだ?」

「……十歳」

「そんな子供がこんな所で何をしてるんだ? 私が助けなかったら、お前は死んでいたところだぞ?」

「そ、そんなの、わかってる……」

「そうか。では、なぜ来たのだ。ここは、お前のような子供が一人で来ていい場所ではない」

「だって……」

 恐る恐る顔を上げれば、明らかに激昂した男が自分を睨みつけていた。その射るような視線に、凪の視界がゆらゆらと揺れる。あまりの恐怖に、形のいい凪の唇が小さく震えた。

「だって……赤色と青色の獣が楽しそうにじゃれてたから……」

「赤と青の獣だって?」

「うん。その子たちが、神社の入り口にいる狛犬に似てたから気になって……後を追いかけたんだ……」

 凪のその言葉を聞いた男が大きく目を見開く。自分は何かこの男の気に障るようなことをしてしまったのだろうか? 思わず全身に力を込める。あまりの恐ろしさに体が震えてしまいそうだった。

 よく考えれば、今この男はぐつぐつと湧き上がり続ける源泉の中に立っている。いや、宙に浮いているのだ。先程まであれ程不快に感じていた源泉の熱風も、彼の足の下だ。

 ――なんなんだ、こいつ……。

 考えれば考えるほど意味がわからず、凪の頭は混乱してしまった。

 あの二匹の獣もこの男も、明らかに浮世離れしている。これは夢なのだろうか……と、凪は目をしばたたかせた。

「そんな鳩が豆鉄砲を食らったような顔をするな。私の名は湯玄ゆげん

「湯玄……」

「そうだ。其方の名は?」

「俺は凪」

「凪、か……。なぁ凪よ。其方にはあの二匹の獣が見えるのか?」

「うん。見えるよ」

 真剣な顔で自分を見つめる湯玄を見て、凪の鼓動が再び速くなる。こんなにも美しい男に見つめられることが照れくさかったのだ。

「すごく綺麗な獣だ」

「そうか。あの二匹の獣は普通の人間には狛犬にしか見えないのにな? 其方には見えるのか……」

「ん?」

「いや、なんでもない」

 あんなに楽しそうに飛び回っていた獣たちは、源泉の隅で凪と湯玄のやり取りをじっと見ている。自分たちのせいで凪が源泉に落ちたと思っているのだろうか? ふさふさとした立派な尾と耳が垂れ下がっていた。

 そんな獣たちを見た湯玄が「くくっ」と喉の奥で笑う。

 先程より柔和な表情を見せる湯玄に、凪は胸を撫で下ろした。それと同時に、こんな穏やかな顔もできるんだ……と驚かされてしまう。

 そんな湯玄を見て「この人もまるで獅子のようだ」と凪は思った。ふと、まるで闇夜のように黒い獅子が、凪の頭の中に思い浮かぶ。

 湯玄は美しいだけではなく、勇ましさも兼ね備えている。凪は湯玄に視線だけでなく、心までも奪われてしまったのかもしれない。

 胸がギュッと締め付けられるほど苦しくて……それなのに、多幸感に包まれる。こんな感情を凪は知らなかった。心臓がドキドキと高鳴って、頭の中が甘く痺れていく。

 これはなんだろう……まだ幼い凪は、そんな感情の名前さえわからず、着物の胸の辺りをギュッと掴んだ。

「さぁ、子供はもう帰るがいい。境内まで送ってやろう」

「でも、俺もっとあんたと話がしたい」

「駄目だ。もうすぐ日が暮れるから帰れ。そして、もう二度とここに来るな。わかったな?」

「なんでだよ、俺、またあんたに会いたい!」

「ふふっ。威勢のいい子供だ」

 湯玄の笑顔に胸が痛い。先程まであんなに恐ろしい顔つきをしていたのに、そんな風に笑うなんて……。

 ずっと湯玄の傍にいたい。そして、もっと彼のことを知りたい。それなのに、凪の意識が少しずつ遠ざかっていくのを感じる。

「湯玄……」

 凪は温かくて逞しい腕の中で、そっとその男の名を呼ぶが、男が応えることはなかった。



「凪! 凪!」

「ん、んん……」

 聞き慣れた声が聞こえてきたと思ったら、体を強く揺すられる。夜遅くになってもなかなか帰って来ない凪を、両親や宿屋の使用人が探し回っていたようだ。

「凪、凪、大丈夫か⁉」

 父親の悲痛な声にうっすらと目を開くと、目の前にいたのは美しい湯玄ではなく、目にたくさんの涙を浮かべた母親だった。

「父さん、母さん……」

「凪、無事でよかった!」

 父親と母親に抱かれた凪が虚ろな視線を彷徨わせれば、そこはいつも遊んでいた境内だった。鳥居の両脇には赤色と青色をした狛犬が二匹向き合って座っている。

「あれは、夢だったのかな……」

 そして凪は父親に背負われ、家路についたのだった。



 湯玄と出会った数日後。

 凪は湯花神社が気になって、そっと椿屋を抜け出した。

 あの赤色と青色の獣は、本当に境内の中に置かれている狛犬なのだろうか? そして、あの美しい湯玄という男の正体は……? 考えれば考える程、いまだに気に掛かることが多く、ついに凪は、居ても立ってもいられなくなってしまう。

 あの日の夜、凪の両親は涙ながらに「もう二度と源泉には近づかないで」と、凪を抱き締めた。そんな両親の姿に心を痛めた凪は渋々了承したのだが……。そんな約束も、持ち前の好奇心の前では霞んでしまう。

「父さん、母さん、ごめんなさい」

 そう呟き、湯花神社に向おうとした凪はそっと誰かに腕を掴まれる。「見つかったか……」と恐る恐る後ろを振り返ると、にっこりと微笑んだ凪の祖母が立っていた。

 顔中に深く刻み込まれた皺に、綿毛のように真っ白な髪の毛。腰はすっかり曲がってしまっており、子供の凪より背が小さい。数年前に夫と死別してからも、凪の両親と共に椿屋を支え続けているのだ。

「凪ちゃん、どこに行くの?」

「あ、ばあちゃん……どこって別に……」

 気まずさのあまり思わず目を泳がせていると、凪の祖母が「ふふっ」と笑っている。

「また源泉に行こうとしているのね? 子供が源泉に近付くと、湯玄様に怒られてしまうわ。だから行ったら駄目よ」

「湯玄様?」

「そうよ、湯玄様。湯玄様は湯花神社に祀られている温泉の神様なの。この湯滝村が温泉で栄えたのも、湯玄様のおかげ。あの方は、この湯滝村の守り神なのよ」

「温泉の神様……守り神……」

「えぇ。湯玄様は、まるで真っ黒い獅子のように立派な方だけれど、とてもお美しい方……私は会ったことなんてないけれど、この村にはそう言い伝えられてきているのよ」

「へぇ、そうなんだ……」

「もしかして、凪ちゃんは湯玄様に会ったことがあるのかしら?」

「あ、会ったことなんてないよ!」

 祖母からの突然の問い掛けに、凪は慌てて目の前で両手を振る。

 もし「湯玄に命を助けてもらった」ということがバレてしまったら、また大目玉を食らってしまうことだろう。それだけは何としても避けたかった。

「そう。湯玄様はとっても怖い方だから。凪ちゃん、源泉には行かないでね?」

「……わ、わかった……」

 凪は自分の腕を掴む祖母の手をそっと握る。まるで枯れ木のように細い指だ。

「温泉の神様、か……」

 小さく呟いて、凪は湯花神社を遠目に眺める。

 これが凪と湯の神である、湯玄との出会いだった。


 ◇◆◇◆


 凪が湯玄と出会ってから二年の月日が経った。

 あれ以来、凪が湯玄と再会することはなく、赤色と青色の狛犬が動き出すこともない。あの美しい湯の神との出会いは、夢だったのだろうか? あまりに変わり映えもなく続いていく生活に、凪はそう思ってしまうくらいだ。

 しかし、湯玄に会った時の胸の高鳴りや、温かくて逞しかった腕を凪は忘れることができずにいた。

 それでも凪はあの頃よりも大分背も高くなり、顔つきも大人っぽくなった。

「あー! 今日もいい天気だ」

 大きな暖簾を持ち、深く深呼吸をする。

 いつもと変わらず腐った卵の匂いがするのと同時に、甘い香りが凪の鼻腔をくすぐった。甘い香りの正体は、宿屋の玄関の近くに咲いている姫椿おとめつばきだ。

 寒い時期に薄紅色の可愛らしい花をつける姫椿は、この旅館の名物でもある。昨日降った雪の綿帽子を被り、朝日にきらきら輝くその姿はとても可憐だ。凪はそんな姫椿を見て思わず目を細める。寒い時期にも関わらず、こんなにもたくさんの花をつける姫椿の木が、とても頼もしく感じられた。

「よし、今日も頑張るぞ」

 凪が呟いた瞬間。腰のあたりに違和感を感じ、ぞわぞわっと虫唾が駆け抜けていった。

「凪、おはようさん。今日もべっぴんさんだなぁ」

「ちょ、ちょっと、いきなり何すんだよ⁉」

 宿の入口に暖簾を掛けている凪の腰をいやらしい手つきで撫でるのは、数件先にある呉服屋の店主をしている和助わすけだ。だらしなく垂れさがった和助の目尻を見るだけで、その気色悪さに吐き気がこみ上げてくる。

 凪は和助の手を払い除けながら睨みつけた。

「俺はあんたの孫くらいの年だろう? そんな俺の体を触るなんて、本当に根性が曲がってんなぁ!」

「いやいや、お前さんは本当に綺麗な面をしているからな。できたらワシの小姓にしたいくらいだ」

「はぁ? ふざけんなよ。気色悪ぃ……」

 懲りずに体に触れようとするものだから、背中を寒気が走り抜けていく。「変態じじぃが!」と思わず声を荒らげてしまった。

 そんな凪を見た和助が、心外だ……と言わんばかりに眉を寄せる。

「凪は黙っていれば天女様のようにべっぴんなのに、どうしてそんなに口が悪いんだ? その気の強さが、お前の全てを台無しにしちまってるよ」

「黙れ! 勝手に人の体を触っておいて、それはねぇだろうが?」

「はぁ……お前にもう少し可愛げでもあれば、金を工面してやってもいいんだぞ?」

「金? なんだよ、それ……」

「最近は源泉も枯れてきて、湯量も減り、どんどん温泉もぬるくなっちまってる。そんなんじゃ、椿屋も客足が遠のく一方だろう? だからこのワシが、潰れそうな椿屋を立て直してやろうっていうんだよ」

 凪は大きな目を見開いて、再び和助を睨みつける。そんな凪を見た和助が厭らしく唇を吊り上げた。その仕草はまるで舌なめずりをしているかのようで、凪は顔を引き攣らせる。

「凪よ。お前は本当にべっぴんさんだなぁ」

「どこまでも気色の悪いじじぃだ……」

「悪いようにはせんから、大人しくワシの言う通りにせい」

 凪は湯滝村でも有名な美丈夫だ。絹糸のように細い銀の髪は朝日にきらきらと輝き美しい光を放つ。肌は蝋のように白く透き通り、真ん丸な瞳はよく晴れた日の空のように青い。

 その姿は、まるで絵物語から飛び出してきた天女のようだ……村人達はそう噂している。

 そんな美しい凪を一目見ようと、わざわざ椿屋に足を運ぶ者さえいるほどだ。今や凪は椿屋の看板のような存在でもある。

「どうだい、凪。今夜あたり……痛いッ!! 何をするんだ‼」

「薄汚い顔を近付けんな、狸じじぃが。俺は死んでもあんたなんかに体を許さねぇよ」

「なんだと……」

「それに、源泉はまた蘇る。湯玄様がいる限り、源泉が枯れることなんかねぇよ。俺は湯玄様を信じてる」

 そう自分に言い聞かせるように呟いてから、凪は少し離れた小高い丘を見つめる。凪の視線の先には古びた神社がひっそりと佇んでいた。



 凪の視線の先にあるのは湯花神社ゆばなじんじゃ。この神社の中には源泉があり、湯滝村の観光名所になっている。

 湯花神社は古くから伝わる神明造りという建築形式で、檜の素朴造りというのが特徴的だ。

 屋根の棟木むなぎを支える棟持柱むなもちばしらをはじめ、全ての柱は足もとに礎石を置かず、直接土の中へ埋め込む掘っ建て柱となっているその造りは、穀物を保管しておく高床式倉庫を彷彿させる。

 その佇まいは、参拝に来た人々の心を穏やかにするのと同時に、まるで神秘の世界へと誘われてしまいそうなほど幻想的な雰囲気を持ち合わせていた。

 そんな湯花神社のすぐ隣には、見上げるほど大きな滝がある。その水の勢いは、辺りの音を全て掻き消してしまうほどで、滝壺に落下した水が水けむりを巻き上げ神秘的な風景を醸し出していた。

 しかし、この滝は普通とは違い百度近くある温泉が流れ落ちている。滝の上には泉源があり、そこから温泉が湧き出ているのだ。

 滝から落ちた温泉は湯花神社の中庭を流れ、湯滝村の真ん中を通る川となる。そして凪の両親が営む椿屋や他の宿屋へと運ばれていくのだ。

 そんな湯花神社に祀られているのが、湯の神である湯玄だ。湯玄は湯滝村に温泉を恵んでくれる神として、古くから信仰の対象とされている。

 年に一度『湯祭り』という盛大な祭りが開かれ、温泉地としての更なる発展と、豊作が祈願されるのだ。こうして、湯滝村は有名な温泉地として、全国各地から訪れる客が後を絶たない。

 しかし、和助の言う通り、ここ数カ月前から源泉の湯量が減ってきていることは事実でもある。

「湯玄など、あてになるものか。現に源泉の湯が減り始めている。もしかしたら、このまま源泉が枯れてしまうかもしれないぞ?」

「おい、湯玄様を侮辱するのだけは許さねぇぞ」

「そんなことより、凪よ……」

「本当に、ふざけんなよ!」

「わっ! な、何をするんだ」

 懲りることなく凪の腰に手を回そうとする和助の肩を勢いよく突き飛ばせば、和助は体勢を崩して無様に尻もちをついてしまった。

「俺は湯玄様を信じてる。だから源泉が枯れることも、椿屋が潰れることもねぇよ! わかったらさっさと帰りな!」

「小童が、こっちが下手に出れば調子に乗りやがって……。ちょっと見た目がいいからと言って調子にのるなよ!」

 和助は茹で蛸のように顔を真っ赤にさせながら、捨て台詞を吐いて逃げ出してしまう。そんな和助を見て、凪は大きな溜息をついた。

「顔はいいのに、口が悪くて性格がいけ好かないなんて、言われ慣れてるんだよ。馬鹿が!」

 凪はそんな和助に向かって舌を出したのだった。


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