安心猫
夏川まこと
第1話
「クビだ」
「え?」
俺は店長の言うことが一瞬理解できなかった。店長は休憩室の椅子に座り、机の上に置いてあるノートパソコンを見ながらそう言った。この店長は俺の上司で、俺は店長の経営する焼肉屋で働いている。今日はシフトが早かったのでまだ店の外は明るいが、俺の気分は不安な空模様になっていった。
「クビってどういうことですか?」
「クビはクビだよ。もう君は今日でおしまい。帰っていいよ」
「そんな、困りますよ。家にお金入れなきゃいけないのに」
「君、いくつだっけ?」
「39です」
「なんでバイトなんてやってるの? 正社員になろうとか、思わないの?」
「それはなれたらいいですけど、この年齢で正社員で雇ってくれるところなんて……。それに俺はずっと非正規だったんで、バイトとかのほうが気楽ですし……」
店長はパソコンの画面を見たままふうとため息をついた。この店長はあれなんだよな、こういうところがある。俺はあんまり好きじゃないんだけど、店長は店長だから仕方ないんだよ。俺はバイトで、こいつは店長。このツルッパゲのバーコード頭のやつれた顔をした50近い男が店長。妻子持ち。
店長は机の上の雑誌を手に取ると、俺の近くの机上に放り投げた。
「なんですか?」
「なんですか、じゃないんだよね。これ、君のでしょ?」
この雑誌は「世界マニアック武術2024年1月号」というタイトルの雑誌だ。俺の愛読書なんだな。今月号はロシアの軍隊格闘技の特集が組まれてて、俺はわくわくしながらこれを読んでいた。もちろんバイト中に。
「バイト中にさ、仕事さぼってこんな雑誌読んで、いいと思ってるの?」
この店長はこういう堅苦しいところがちょっとあるんだよな。仕事はできるやつだと思うんだけど。俺だって毎日働いて、ホールとかキッチンとかこなしてるんだからさ。そりゃちょっと息抜きもしたいよね。ちょっとさ、バイト中に雑誌をちょっと読むぐらいなんて別に問題ないと思うんだけど、どうもこの店長はそこが気に入らなかったらしいんだな。堅苦しいんだよな。真面目なんだ。
「思ってないです」
「良いと思ってないならなんで雑誌なんか読んでたの? 仕事中だよ?」
「ちょっと息抜きに……」
「息抜きは休憩時間にできるじゃない。それに君、これ一度や二度じゃないでしょ。他のバイトも見てるよ、君がサボってるところ」
「すみません、最近ちょっと持病がよくなくて、ちょくちょく休憩入れないと」
「持病? なんの病気?」
まいったな。とっさに持病なんて言葉が出ちゃったけど、別に俺は健康なんだよ。でも言っちゃったからにはどうにかしないとな。
「み、水虫」
「水虫? 水虫で接客してたの?」
「いえ、えーと、椎間板ヘルニア」
「ヘルニアなの? よくそれで仕事できたね」
「はい。だからちょいちょい休憩しないと駄目なんです」
「はー、そうなんだ」
店長は眉をひそめ俺を見ながらまたため息をついた。
「それじゃお大事にね。クビはクビだから。もう来ないでね。これ、バイト代」
そう言うと店長は俺にバイト代が入っているであろう茶封筒を渡した。手切れ金ってやつかな? いや、俺が働いた分だからちゃんとした俺の金だ。でも店長も薄情だよな。こんな寒い時期に俺を無職にするなんてさ。五年も働いたバイト先を去るのは、なんだか現実味がないよな。そして最後ってあっけないんだなと思ったよ。
俺は着替えると休憩室から出て店内を通って外に出ようとした。
「あれ? ノボルさん、もう上がりですか?」
店のテーブルを拭きながら俺に話しかけてきたのは同じバイト仲間のススムって男だった。こいつは3ヶ月前に入ってきて俺が仕事を教えてたんだけど、物覚えが早くてもう全部できるようになってる。年は27か28だったかな。
「うん。上がり」
「へーいいですね、こんな人手不足な時に」
こいつは仕事を覚えたらこんな嫌味を言うようになってきた。39歳の俺のことをおじさんだと思ってるようで、正直見下されてると感じるんだよな。こいつはまだ20代だから将来の明るい展望を持ってるんだろうけど、俺と同じバイトであることは変わりないから、あとは年を取ったら俺と同じだ。そのことをわかってないようだ。もう店に来ることもないから、最後にアドバイスしといてやるかな。
「ススムくん、君は将来のことをちゃんと考えたほうがいいよ。バイトばっかりじゃいけない」
「ノボルさんもバイトばかりでしょ? いいんですよ、俺はこれで。計画はあるんで」
計画だってさ。なんのことを言ってるんだこいつは。計画ね。さぞ立派な計画があるんだろうな。俺のアドバイスを無視するような、こんなやつじゃ最初はなかったんだけどな。
俺はそれから黙ってススムを通り過ぎて、店の外に出た。
外は1月だけど雪が積もってなくて、でも気温は寒かった。通行人も冬の身なりで通行している。こんな寒い時期に無職になるなんて、どうかしてるんじゃないのかな。
茶封筒の中身を見ると1万2千800円だけ入っていた。
なんでかな、その瞬間、俺はすごい悲しい気持ちになって、もうどうしようもなくなりそうになったんだよな。それで俺は気がついたら元バイト先の休憩室の中に戻っていた。
「店長! ここで働かせてください! お願いします!」
俺は土下座して頼んだ。すごいだろ。これは俺の特技なんだ。俺は土下座しても何も感じないんだ。大抵の人間はこれをするだけで許してくれるんだよ。
でも店長には効かなかった。俺は追い出されてまた店の外にでた。出るときにススムがなんとも言えない表情でこっちを見てたな。ススムにもクビになったことばれちゃったな。
店にはバイトで入って無職で出てきから、無職で入っていったらまたバイトになって出てこれると思ったんだけど、そんなことは起こらなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます