34 目覚め

 遠くで、歌声がした。

 穏やかな海のさざ波に似た、控えめで優しい音色。最近は忙しく、アコがその音を最後に聞いたのはいつだっただろうか。


(すごく気持ちいいなあ。なんか、体がふかふかしてくるような……ふかふか?)


 自身を包む感覚に疑問を抱いた途端、アコの視界は光を取り戻した。

 見慣れた天井と吊り照明。照明の紐の先端につけられたイルカのマスコットが、じっとアコを見下ろしている。

 それをまじまじと見つめていると、ぺち、と右頬を軽く叩かれた。


「バカ」

「……水月?」

「そうだよ、バカアコ」


 振り返ると、じと、とこちらを睨む水月がいて、またぺちり、とアコの頬を叩いた。

「何で海に飛び込んだりしてたわけ」

「え」

「……っ、あんたがいなくなったら、どんだけの人が悲しむと思ってんの……?」

 水月の語尾が震え、彼女の目尻からジワリと雫が滲む。ぐっと両手を握りしめて激情を堪えながら睨みつけてくる水月に、アコは呆然として目を瞬かせた。

「私……もしかして、海に飛び込んで死のうとしてた、とか?」

「この時期の海に飛び込んでおいて、そんなつもりなかったなんて言わないよね。死ぬに決まってんじゃん」

「死ぬ……」

「そんなん、あたし、絶対許さないけど」

 耐えきれずに頬を伝った涙を、水月が腕で乱暴に拭った。それでも涙はなかなか止まらないらしく、彼女の勝気な桃色の目は潤んでいる。

「……ごめん、私……死のうとしてたわけじゃないんだ」

「っはあ?! じゃあ、どういう理由があるっての? あたしが見つけた時、アンタ人形みたいに真っ青な顔で海に沈みかけてたんだよ?! 見つけるのが遅かったら、アンタは……っ」

「ごめん……でも、本当に、違うんだ。私、水月のことやバンドのこと考えてたんだ。自分が、本当はどうしたいのかをはっきりさせたくて。その、死ぬとか極端なことは全然考えてなかった。ただ、ずっとモヤモヤしてたから、それをどうにかしたくてさ」

 ゆっくりと上半身を起こすと、かすかに目眩がした。すかさず体を支えてくれる水月の手はとても温かく、アコは思わず微笑んだ。

「それで思いつめて、海に……ってこと?」

「……海に入った時のことは正直覚えてないんだ。ただ、歌が聞こえた気がして」

「歌?」

「そう。海の中から聞こえた気がしたの。すごく綺麗で、聞いているだけで気持ちよくなれた。穏やかな海のさざ波みたいな、そんな歌。それを聞いているうちに意識がぼんやりして……」

 言いながら、アコは懸命に自身の記憶を探る。

 しかし、思い浮かぶのは鬱々とした気持ちを抱えて海辺へやってきたところと、考え込んでいるうちに綺麗な歌声が響いてきたことだけだ。

「……人魚の歌」

「えっ」

「昔、ばーちゃんから聞いたことがある。海の奥深くには人魚が住んでいて、その歌声はすごく綺麗だけど、耳にしたら最後、海に引きずり込まれるって」

「海に……」

 その話を聞いた途端、アコの中で優しく響いていたあの音色が急に恐ろしいものに感じられて、思わず自分を抱きしめた。

「まあ、人魚なんているとかマジで思ってないけどさ。海に魅入られるように入って亡くなっちまう人間ってのはいるみたいだから。アコも……死ぬつもりはなかったって言うけどさ、色々あった後じゃ、精神的に不安定になって考えちゃうってのはあるのかなって」

「……ない、とは言えないな。確かに私、すごく不安定だったから」

「あたしのせいだよね。分かってる。アコに相談しないで進路のこと……決めたから」

 水月が苦しげに目を伏せる。

 その顔を見てアコの胸の奥も一瞬ずきりと痛んだ。

「おめでとうって言ってあげられなくて、ごめんね。水月がずっと夢見てたこと知ってたから、本当だったら祝福してあげるべきだったのに」

「……いや、ショックでしょ。あんな急に知って。水族館に就職する話もしてたのにさ」

「うん、ショックだった。ウインターシーも脱退するって決めるくらいにはね」

「……っ、辞めるの?」

「…………今は分からないな。海辺で考えていた時はそのつもりだったけど……今は、分かんない。なんかね、色々疲れちゃった、考えるの。音楽のこと、水月のこと」

 そう吐き出すアコの心は不思議と軽かった。

 あれほど重苦しかったはずなのに、今は全くその重みを感じなかった。

 だから、笑顔でこの言葉を言えたのかもしれない。


「水月、友達に戻ろう」

「え……」

「これからのこと考えたら、その方がいいと思う。お互いに」


 それは強がりではなく、本心だった。

 水月への思いがなくなったわけではない。ただ、そこにしがみつくことに疲弊しすぎてしまった。

 過去、初恋の彼女に恋い焦がれていた時もそうだった。彼女への一方的な思いがいつしか執着に変わり、口にしたことで全てが壊れてしまったように。彼女の場合はアコに恋情どころか友情すら抱いていなかったこともあり、その壊れようは悲惨なものになってしまった。

 水月は彼女と異なり、アコと同じ思いを抱いてくれていた。だからこそ、水月とは互いを縛り付けるような関係ではいたくないと思ったのだ。

 水月が夢を追いかけると決めたのなら、なおさらだ。

「……アコはそれでいいの?」

「うん。少なくとも今は、水月と楽しく過ごせたらいいなって思って。それに……」

 ちらり、とアコは部屋の片隅にあるギターケースへ目を向けた。

「私も水月みたいに夢を見つけたいな」

「音楽じゃなくて?」

「うん。探してみたいんだ。私の意思で好きだ、やってみたいって思うこと。音楽は、水月がいる間だけやるよ。それからどうするかは考える」

 水月の桃色の瞳にうっすらと涙が滲む。悲しげにへの字を作っていた唇は、やがて歪な笑みを浮かべた。

「分かった。あたしも同じ気持ちだよ、アコ。残りの青春、アンタと、ウインター・シーのみんなと楽しく過ごしていきたい。そしたら、東京でもうまくやっていけそうな気がするし」

「軽音部と水族館もね」

「ははっ、そうだったね。部長と館長に怒られるとこだった」

 声を上げて笑う水月に、アコもつられるようにくすくす笑った。

 あれほど重たく辛かった気持ちは、もうない。

 アコが聞いた歌はアコ自身ではなく、アコの感情を海へ沈めてくれたのかもしれない。そう思うと、やはりあの歌のことは忘れられそうになかった。


 

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