20 海の上の昔話
彩葉たちと別れて十分後。
アコはぶるぶると小刻みに震えながら亀の形を模したフロートの上にいた。
「アコ、ガチガチになりすぎ」
アコの背中を抱く形で乗った水月が呆れ声で言う。
「だ、だって、こ、怖いものは怖いし……っ」
「大丈夫だよ、ここ浅いし。落ちてもすぐ引き上げてあげるから安心しなって」
「お、落ちるとか言わないでっ!」
「だからガチガチだってば。リラックスリラックス」
ぽんぽん、と水月がアコの肩をたたく。その振動で大きく揺れ、アコは小さな悲鳴を上げた。
「ほら、怯えると折角のロケーションが台無しだって。浮かんでる感覚を楽しんで」
「う〜……」
今度は背中をさすり始めた水月に、アコはドキドキしながらじっと目の前の景色へ視線を向ける。軽やかにボディーボードを使いこなす小麦色の肌の男性や、カラフルなフロートに乗り、盛り上がる若い女性たち。賑やかな彼らから少し離れたところにいるアコたちの耳に入るのは、海の揺れる音と頭上で海鳥が鳴く声だった。
「あたしもさ、小さい時海が怖かったんだよね」
「え」
「幼稚園くらいかな〜、父親と海に来たんだけど、あたし海を見るのが初めてでさ、ずっと怖い怖いって言って泣いてた。でも、そんなんおかまいなしにさ、あのクソ親父、嫌がるあたしをフロートに乗せて連れ回したんだよね。もう、怖いのなんのって」
水月は笑いながら言うが、アコには全く笑えなかった。幼い水月のように、想像しただけで泣いてしまいそうになる。
「で、トドメと言わんばかりに、泣き疲れて海の家で眠っちゃったあたしを放置して、そのままドロンしちゃった」
「え?! お、お父さん、水月を置いてったの?!」
「ばーちゃん曰く、親父はあの日、あたしと最後の思い出を作りに行ったみたいよ。母親と別れて、あたしを引き取ったものの、どう関わればいいのか全然分かんなくて、で、仕事もうまく行ってなくて、きっと限界だったんだろうなってさ。あ、一応、海の家で目覚めた後はお店の人が親切にしてくれてさ、ばーちゃんがすぐに迎えに来てくれたから、無事だったんだけどね」
「……無事なのは良かったけど……お父さん……アレだね……」
サイテーでしょ、と水月がからりと笑って告げた。
「まあ、でも、今じゃどうでもいい話だよ。親の愛情はかけらももらえなかったけど、その分ばーちゃんがめちゃめちゃあたしを可愛がってくれたから。泳ぎ方を教えてくれたのもばーちゃんでさ、そのお陰で海もへっちゃらになっちゃった。あたしが溺れそうになっても、すぐに手を伸ばして助けてくれる。あたしの側にいてくれる人がいるって分かってるだけで、人生明るく見えるよね。どんな状況でも、きっと」
ぎゅっとアコの体を抱きしめて、水月がふふ、と笑う。その柔らかい温もりに心臓がとくとくと速いリズムを刻むが、海に浮かんでいるせいなのか、今日はその音が心地よく感じられた。
だから、アコの心の扉もあっさりと開いてしまったのだろう。
「……私は、逆。お母さんから逃げちゃった」
「お母さんって……この間アコの家にいた?」
そう、とアコは頷く。
水月にはその日の夜にメッセージで謝罪した。けど、アコはあの人が自分の母親であること以外のことは、水月に話せなかった。有無を言わさずアコの母親から追い出された水月からすれば、きっと聞きたいことはたくさんあっただろうに、彼女は何も聞いてこなかった。
「私のお母さんはすごく育児に熱心だったんだ。妊娠が難しくなる年齢ギリギリでようやくできた子供だから、大切に育てようって思ってたんだと思う。毎日毎日手の込んだ料理を作ってくれたし、私が迷子にならないようずっと手を握ってくれたし……私が、『良い子』に育つよう、いろいろな習い事もさせたし、勉強のことにも干渉してきて……そのうち、友達関係にも……」
そこまで吐き出して、アコは喉を締め付けられるような感覚に陥った。
実際、記憶の中のアコはいつも息苦しさを感じていた。
すぐに絶命してしまうような強い力ではなく、肌触りのいい布で首を結び、少しずつ締められていくような、そんな息苦しさだった。
『あの子は乱暴な言葉遣いをするから、距離を取ったほうがいいわ』
『メイクなんてする子はロクでもない職業についたりするものよ。口を聞いてはダメよ』
母からそう言われるたび、アコは戸惑いながらも頷き、従ってきた。
いや、従うしかなかった。
「……でも、例外がいたんだ。幼稚園の頃からの幼馴染だった女の子……あの子とは一緒にいても全然怒られないから、自然とその子と一緒にいる時間が増えていったの」
ふわふわの栗色の髪の、人懐っこそうな笑顔が可愛い女の子。
アコちゃん、と呼ぶその声は、どんなお菓子よりも甘ったるかった。
あの頃は、彼女が側にいれば、それで良かった。息苦しくても、母親の干渉が重たく感じられても、あの子が――あおいと呼んでいたあの子がいれば、アコは幸せだった。
「っ、私……私、ね……その子のこと…………っ、好き、だったんだ。その、友達としてじゃなくて、女の子として」
そう口にしてしまってから、アコは急に体が冷えるのを感じた。
もう誰にも言わない。知られたくなかった恋。
それを、こんな不安定な海の上で突然口にしてしまったことに、アコは頭が真っ白になり、パニックになった。呼吸が浅くなり、目の前がクラクラする。
けれど、そんなアコを守るように彼女の腰を抱く水月の腕に力がこもった。
「うん」
たった一つの相槌。腕の温もり。それがアコを受け入れている。
そう思うと、強張っていた体が緩むのを感じた。
「その子が側にいれば良かったんだ。思いが叶わなくてもいいって、全然いいって思ってた。あおいにとって私が都合のいい『王子様』であってもいいって……思ってた……思ってたのに、私……っ、言っちゃったんだ。あおいに、好きっていっちゃったの……」
「うん」
「でも、あおいは私のことそんな風に思ってないって、私が、き、気持ち悪いって言った……いつの間にか友達に広められちゃって……それどころか、お母さんまで、そのこと知っちゃって……たくさん、たくさん、否定されたの、私……」
「っ……うん」
鼻をすする音がする。水月が自分のために泣いてくれている。
そう思うと嬉しくて、悲しくて――その感情の中で、アコを嘲笑するあおいの幻影が揺らぐ。砂浜に描いた文字を消すように、さざ波が全てをさらっていく。
「それで……何もかもうまくいかなくなっちゃって……そしたらお父さんがおじいちゃんの水族館を継ぐことにしたから、お前も来ないかって誘ってくれたんだ」
「……そうだ、館長。館長はアコたちがそんな状況の時、どうしてたの? その状態、あの館長が黙認してたとは思えないんだけど」
「うん……でも、家族仲は悪くなかったんだけど、お父さん、仕事でいないことの方が多くて。お母さん、プライドが高い人だから、お父さんには都合のいいことしか話してなくて、お父さんもそれを信じちゃってたんだって。それを今では悔やんでるんだって言ってた。だから、今、私たちのことをすごく気遣ってくれてるんだ。一人東京に残ったお母さんに仕送りをして支援したり、お母さんの実家と連絡を取り合ったりとかして。お母さんと物理的な距離ができたし、あおいとも……あれきり連絡を取ることがなくなって、こっちに来てからは気持ちも落ち着いてたんだけど…………まだ、ダメなとこあるなあ」
グス、と鼻を鳴らし、アコは不恰好な笑みを浮かべた。
「お母さんは相変わらずだし、私はあおいのこと思い出すだけで倒れちゃったりするし。お父さんにも迷惑かけてばかりで、ほんと、ダメな子だなって」
「……生きてるだけで、いいじゃん」
ぎゅう、と腕に力を込めて、水月が囁く。
「呼吸してるだけでえらい。話ができるだけでえらい。百点満点だって、うちのばーちゃんはよく言ってる」
「……そう、なのかな」
「そうだよ。ばーちゃんは嘘つかない。アコはえらい。今の話、すっごく言いづらかったのに、言えたじゃん」
すごいよ、と水月が涙声で褒めてくれる。アコの涙腺が緩み、涙が流れ出した。
「帰りたくない、なぁ」
「お母さんがいるから?」
「ん……明日には帰るって言ってたけど、それでも今晩は顔合わせないといけないからね」
今朝、母に会ったことを思い出し、アコはほろ苦く笑う。
父の作った朝食に手をつけず、ぼんやりしていた母。アコがぎこちなく「行ってきます」と告げても、ちらりとも見ようとしなかった。
アコへの干渉をしないことが滞在の条件であるから、それを守っているからかもしれない。
そうだと思っていても、東京にいた頃のような息苦しさを覚えてしまった。
「じゃ、うちに泊まる? ばーちゃんなら超歓迎してくれると思うけど」
「……ううん。お母さんを変に刺激したくないから」
「でも、帰ったってアコは嫌な思いするじゃん」
「……明日には終わるって考えれば……」
「そんなヨワヨワな声で言われても、安心できないよ」
「ごめん……」
しばらく、アコも水月も何も言わなかった。ふと、海の上に浮かぶ感覚を怖いとは思わなくなっている自分に気づく。それは水月がこうして寄り添ってくれているのかもしれない。
「このまま、駆け落ちするのもありかな」
「へ?」
「ほら。だいぶ陸から離れたし。このままぷかぷか浮かんだまま、二人で駆け落ちするのもいいかなって。そうすればアコ、帰らなくて済むでしょ?」
そう告げられた途端、アコはぷるっと体を震わせた。
「アコならいいよ、あたし」
「……っみ、水月……」
このドキドキは陸からどんどん離れていく恐怖から? それとも――。
動揺で小刻みに震えるアコに、水月はふ、と笑うと、
「じょーだんだよ。しっかり掴まってて。戻るよ」
そう言うなり、水月は海へ飛び込んだ。軽くなり大きく揺れるフロートにアコは慌ててしがみついた。
そのまま起き上がれず、ぶるぶる震えるアコに「また戻っちゃったね」と笑いながら、水月はフロートを引っ張って岸まで泳いでくれたのだった。
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