秋風
まあそんなわけで、中々に予想外な展開でカッター女の出来事は収束した。
数日休んだのちに登校してきたカッター女は完全に大人しくなっており、竹林と同じくあたしとメイを眺めて楽しむクチに作り変えられていた。まさしく再教育だ。竹林の手腕に多少なり薄ら寒いものを覚えはしたが、まあ、あたしたちとしては何事もなく解決したので万々歳と言うべきだろう。
……いや正確には、まったく何事もなくとはいかなかったけれども。
一度起こってしまった出来事。当然、爪痕はある。
「はよっすお二人さん」
「おはよー夜凪さん、世界観さんも」
かれこれもう一週間以上、あたしはメイと肩を並べて教室の戸をくぐっている。なぜか? あたしにも分からない。しかも気付けば、なぜかバイトのない日の下校まで一緒するようになっていた。本当になぜなのか。
「ん」
飽きもせず楽しげにしているクラスメイトどもへ挨拶代わりにひと睨みくれてやる、ということすら面倒くさい。ので、今はもう雑に頷いて返すだけにしている。メイも相変わらずどうでも良さそうな一文字返事。一緒に登校するというのはある種の自衛策として始めたのだから、一日目にして意味がなくなったそれを続ける必要はまったくもってない。そう、ないはずなのだが。
「マリとジャージで道歩くってのも、中々新鮮だったねぇ」
今日は午前中に、三限分の時間を使った体育の大型合同授業がある。グラウンドでは陸上競技各種の、体育館ではバスケ・バレーの学級対抗プチ大会。この学校は体育祭とかいうのがないので、その代わりらしい。だものでジャージ登校可という、ただそれだけの話なのに。そんな些細なことですら、メイは嬉しそうにふんにゃりと微笑んでいた。
「……どうでもいいわ、そんなこと」
例によってその視線に耐えきれず、あたしは目を逸らした。
あの日の教室で見た、えらく綺麗で純粋な「ありがとう」の表情。あれ以来ますますもって、この女の顔を直視するのが難しい。こういうふうに微笑まれればなおのこと。そしてこいつはあの日以来、明らかに調子に乗っている。どうせあたしが……なんだ、デレてきてる? とかそういうふうに見えて機嫌がいいのだろう。勘違いも甚だしい。
「あーでも、どうせなら二人三脚とかあれば良かったのに」
「陸上競技にんなもんないでしょうに……ないわよね?」
だいたい、あたしは忘れていない。こいつがあたしに復讐したがっているらしいことを。あれが聞き間違いでない以上、いつかこいつに牙を剥かれたとしてもなんらおかしくはないのだ。
……まあその“復讐”という言葉を、いま話しているのとまったく同じべっちょりとした声で言いやがったせいで、こいつの意味不明さが加速しているのだけれども。
「じゃああとで個人的にやる?」
「やらんわ」
だからその声と目つきと顔と態度をやめろ。
◆ ◆ ◆
で、まあそうこうしているうちにプチ陸上競技大会も無事終了した。
とくに話すべきこともない。あたしは、ついでにメイも、さほど熱心に取り組んでいたわけでもないし。比較的楽な種目を適当に流して終了だ。
「……さっさと終わらせて戻るわよ」
そうなるとでは今、あたしとメイが二人でなにをしているのかというと。
それはあれ、後片付けというやつ。
「まあまあ。時間は余裕あるんだし」
陸上は個人競技が多いとはいえ、やはりクラス対抗のぶん露骨にやる気がないとクラスメイトから反感を買いかねない。べつにそれでもいいと言えばいいのだけれども、同時に、トラブルの種に進んで水をやりたいというわけでもない。カッター女の前例もあることだし。
なのであたしとメイが、楽な種目を選ばせてもらう対価として買って出たのがこの、各クラスに割り当てられた備品洗浄の仕事。うちのクラスはハードル走のあれ、ハードル、あれを洗えとのことで。全行程終了後の後片付け、その中でも洗浄なんて運動のあとじゃ面倒くさい、なんて考える人間は多い。やりたがる人がいないということはつまり、他人がいないということ。あたしらにしてみればむしろありがたい話だ。
「時間はあっても、次のクラスがつっかえてるかもしれないでしょうが」
使えるホースの数は限られているからか全クラスが一斉に済ませられるわけでもなく、順番にグラウンド端の水場を使っていく形になっている。いっそ実行委員かなにかを立ててそいつらで一括管理したほうがいい気もするのだけれども……そこまでやる規模のイベントでもない、ということなのだろうか。しらないけど。
「どうせみんな適当にだらけてるって」
……まあ確かにメイの言う通り、いま近くで誰かが順番を待っているような様子はない。遠目にグラウンドを見やれば、大抵の生徒は各クラスの待機スペースで駄弁りながら、のそのそと片付けを進めている。教師たちも、強いてまでそれを咎める様子もない。緩い雰囲気だ。
「……まあ、ほら。いいから蛇口捻って」
これ以上言い返すのも難しかったので、あたしは誤魔化すようにして明後日のほうを向き、ホースの口近くを握った。たぶんそれが良くなかったのだろう。ちゃんと手元を見ていなかったから。思いのほか勢いよく吹き出した水が、洗うべきハードルたちとはまったく別の方向──蛇口を捻ったメイへと飛んでいった。
「あ」
「おわぁっ」
慌ててホースをわきへ向けるも時すでに遅く、結構な量の水がメイの腹辺りに直撃し、下半身を広範に濡らす。メイもこれには驚いたようで、珍しく目をまん丸にして変なポーズで固まっていた。
「…………」
「…………」
「……ぁ、あー、その……ごめん。わざとじゃないんだけど……」
さすがのあたしも、謝罪の言葉が口をついて出る。
メイはあたしの顔を見ながら目を瞬かせ……そしてゆっくりとその目つきを細めていった。自分の下半身へ視線を下ろし、腹部に手を当て、言う。
「あーあ、マリのせいでナカまでびしょびしょ」
「んっ」
なぜだろうか、ちょっといかがわしく聞こえてしまうのは。
伏し目がちな眼差しか。水を浴びても冷めない、どころかむしろ湿度を増した、あたしの名前を呼ぶ声か。濡れてできた影か。あるいはそれらすべてのせいか。
上下ともジャージでその中に体育着を着ているから、べつになにやら透けるだとかそういう事態にはなっていないけれども……でもそんなこととは関係なく、佇むメイがひどく扇情的に見えてしまった。頬が熱くなっていくのを感じる。なぜあたしはこう、こうも動揺してしまっているのか。
動揺、そう動揺だ、隙だ、そういう類のものだ。それを突くように、メイが顔を上げた。
「……やられたからには……“復讐”、しないとねぇ?」
その言葉に別の意味で心臓が跳ね、そして次の瞬間にはあたしも水を引っ被っていた。いや、メイが殊更にべしょついてきたという意味ではなく。ホースを奪われ、そんで普通に水をぶっかけられた。
「……なにすんのよっ」
「やられたらやり返さなくちゃね」
「だ、から、あたしのは故意じゃないってばっ」
「わざとじゃなければなにやっても許されると思ったら大間違いだよマリぃ──うぉっ」
小憎たらしい表情があたしの心をざわつかせる。さっきの申し訳ない気持ちはどこへやら、やり返さずにはいられない。だからあたしはホースを奪い返してもう一発食らわせてやった。
そしたらまあもう、そこからしばらくはホースの奪い合い水のかけ合い。ほんの一瞬だけ洗浄という仕事も忘れて、あたしはどうにか、メイに参ったと言わせようと躍起になってしまった。それは、数分にも満たないあいだだったけれども。
「……くしゅっ」
「うわ、マリくしゃみかわいっ」
「……うざ、っ、んきゅしゅっ」
「あっはは、無理に抑えようとするから、ぁ、ひ、……っしょぃっ」
「……っ、くくっ、あんたのは祭りのかけ声みたいね」
「や、もうちょい可愛げのあ、るっ、んしょあっ」
秋も随分と深まってきていて、濡れた体に秋風は思いのほか堪えた。それで正気に戻れた、とも言える。さすがに教師から注意された。
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