第3話 いぶきと横川の密会を覗く

 二学期初日のスケジュールが終わった。


 柳橋駅前のゲーセンに行こうという伊東の誘いを断り、僕はそそくさと帰り支度を済ませて、教室を出た。あいつの塾が始まるまでの時間潰しに付き合うぐらいなら、いぶきを誘うほうが断然いい。悪いな、伊東。


 彼女と約束しているわけじゃないけれど、今日は金曜日で自分のバイトもないし、何よりも日曜日のことが気がかりだ。


 いぶきのスケジュール調整の状況はどうなのか訊きたかった。


 すでに入れているという日曜日の予定は動かせるのか。そして、二人でサプライズイベントを楽しむことはできるのか。


 とにかく、いぶきと一緒にどこか寄り道するか、それともまっすぐ帰って、どちらかの家で一緒に勉強するかしよう。


 そう考えていぶきの教室に行ってみたけど、あいにく彼女の姿は見えなかった。


 いぶきとつるんでいることの多い浅野という女子が帰り支度をしていたので聞いてみると、たった今、手ぶらで教室から出ていく彼女とすれ違ったという。


 たしかにいぶきの机の上には、見慣れたマスコットをぶら下げた通学用リュックが置かれたままだ。


「階段のほうに向かってたから、今なら追いつけるはずだよ」


 浅野さんはそう教えてくれた後に、ボブヘアを揺らしながら少し首をかしげて、

「頑張ってね、遼太くん」

 と、つけ加えた。


 彼女は僕のことを、そう呼ぶ。いぶきの友達であり、さらに僕の友達の元野球部員と付き合っていることもあって、僕ともわりと親しい関係なんだ。


 それはともかく、浅野さんの励ましを受けて、僕は回れ右して教室を飛び出す。


 階段を駆け下りて辺りを見回すと、下足場へと向かう渡り廊下の途中に、おさげ髪の女子生徒の後ろ姿が見えた。いぶきだ。


 彼女は、渡り廊下の途中から裏庭のほうに折れて、急ぎ足で遠ざかる。


 少し追いかけていって声をかけようと思ったとき、いぶきの十メートルほど前を背の高い男子生徒が歩いていくのに気づいた。


 あれは──横川純平よこがわじゅんぺいじゃないのか。


 いやな予感が胸をよぎる。いぶきが横川の後を追っているように見えたからだ。


 横川純平。

 野球部のエースピッチャー。高身長の細マッチョなイケメンで、外見は非の打ちどころのない男。


 でも、というか、だから、というべきか、女性関係では良くないうわさがつきまとっている。加えて僕にとっては、少し──いや、大いに引っかかりのある存在なんだ。彼が悪いわけじゃないけれど、僕が野球部を辞めるきっかけを作ったのが、あいつだったから。


 僕は声をかけるのをやめて、こっそりと後をつけた。


 二人は人気のない校舎の裏側に入っていく。


 僕は、校舎の壁からほんの少し顔を覗かせて、様子をうかがった。


 二人は五メートルほど離れたあたりで、お互い向き合って何か話をしている。ただならぬ雰囲気に、ふくれ上がる不安。それを増幅させるような会話が、僕の鼓膜をかすかに震わせた。


「やっぱり……こんな……よくない」

「俺は……いぶきが……」

「……申し訳ない……遼太……」

「あいつは……日曜日……」


 ともに深刻そうな様子で、いぶきは涙ぐんでいるようにさえ見える。


 何なんだよ、この二人。

 横川のやつ、いぶきを呼び捨てにして。部活では、みんなと同じように「イブちゃん」って呼んでいたくせに。


 それに何の話をしているんだ? よくない? 申し訳ない?──何がだよ?


 日曜日?──いぶきの予定の話? なんで横川が関係あるんだ?


 今朝、いぶきと一緒に登校してから、ついさっきまで僕の心を満たしていたささやかな昂揚感は、跡形もなく砕け散っていた。その代わりに、黒雲のような不安感と不快感が胸郭で渦巻く。


 横川がいぶきの耳元で何かささやきながら、可憐な肩をポンポンと軽く叩いた。

 それに対していぶきは、うつむき加減に小さく頷く。


 その場にとどまっているともっと悪いことが起こりそうな気がして、僕は彼らに背を向け、足早に立ち去った。


 ◇


 気がつくと、部屋でひとりぼんやりとしていた。


 ついまっすぐ帰宅してしまったけど、ひとみ亭に寄ればよかったな。ひとみ亭で晶に話を聞いてもらって──。


 そのとき、スマホの着信音が鳴った。いぶきからのメッセージだ。


 弾かれたようにスマホを手に取り、画面を開く。


〈ごめん。やっぱり日曜日、予定変更できなかった。またの機会じゃだめかな〉


 さっきの光景を見たときから、なんとなく覚悟はしていたけれど、こうして最後通告を受けると、改めて心が打ちのめされる。


 ペアチケット、誰かに譲ってやんなきゃ。もったいないもんな。


 僕はスマホを手にしたまま、ベッドに仰向けに寝転がった。その姿勢でスマホを操作して、晶にメッセージを送る。今さら出かけるのは億劫だけれど、状況が悪化しつつあることは知っておいてもらいたい。


〈さっき、いぶきと横川が学校の裏庭で──〉という書き出しで、いきさつを大まかに伝えた。


 送信を終え、スマホを投げ出して目を閉じる。いぶきに返信する気は、まったくなくしてしまっていた。


 思い出したくないはずなのに、さっきの光景がまぶたの裏によみがえってくる。


 いぶきと横川が二人きりで話をするのは、別におかしなことでも何でもない。ついこの間まで野球部のエースピッチャーだった男子と、マネージャーを務めていた女子の間柄なんだから。


 でも、あの場の空気は、そういう表向きの関係のものとは違っていた。


 男と女。

 まさか──な。

 横川といぶきが? そんなはずはない。


 僕が野球部を辞めるきっかけを作った男、もっと身もふたもない言い方をすれば、僕を引退に追い込んだやつと、大好きな幼なじみの彼女が──?


 あの瞬間を思い出すと、今でも背筋を悪寒が走る。


 うなりをあげて迫ってくる白球。危険を察知した次の瞬間、右顎に生じた凄まじい衝撃が顔全体に、そしてまたたく間に上半身に広がった。


 去年の秋季大会直前の練習中、シート打撃の最中に、僕は横川から顔面に死球を食らったんだ。


 そのままバッターボックスで昏倒した僕は、救急車で病院に担ぎ込まれた。


 下顎骨骨折で、手術を含めて全治三ヶ月の診断。食事はもちろん会話もままならない状態を長く過ごし、身体が違和感なく元どおりになるまでには、半年近くを要した。


 でも身体と違って、心が元に戻ることはなかった。

 僕はバッターボックスに立てなくなったんだ。


 マウンド上のピッチャーが投球モーションに入ると、凶器と化したボールが数秒後に再び自分の顎を砕くという幻覚に襲われて、その場にしゃがみ込むようになってしまった。


 しまいには、バッターボックスどころかグラウンドに立つことさえ、とてつもない精神的負担を感じてめまいや吐き気を催す始末。


 そんな体たらくの僕に、いぶきは献身的に尽くしてくれた。


 メンタルケアについてネットで調べたり、わざわざ専門家に訊ねてくれたりして、僕が恐怖心を克服できるように、彼女ができるあらゆる努力を費やしてくれたんだ。


 でも結局、僕はグラウンドに戻ることはできなかった。


 次第に野球そのものへの情熱を失って、三年生になる直前の、今年の三月に野球部を退部した。


 そのときのいぶきの落胆ぶりは、当人の僕以上だったと言っていい。いぶきの両親や、僕の母さん、晶、そして僕自身が、逆に彼女を元気づけなけりゃならないほどだった。


 僕は、何度も何度もくり返した言葉を、心の中でつぶやく。


(あのデッドボールさえなかったら──)


 ◇


 いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。


 階下から晩ごはんの食卓に呼ぶ母さんの声で、目が覚めた。


 身体を起こしながら、枕元に放っていたスマホ画面に目をやると、晶からの着信通知が表示されている。文面は〈明日、バイトだろ。いつもどおり帰りに寄ってくれ。話したいことがある〉とそれだけ。


 僕はため息をついて、ベッドから立ち上がった。

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