悪魔に願うはただ一つ
関鷹親
第1話 始まりはやみ夜と共に
キラキラと眩いばかりに輝く豪奢な部屋に響く、鞭がしなり空気を切り裂く音と罵倒。
痛みに耐えるために菫色の目をキツく瞑ったリュートは、服が破れ剥き出しになった肌に感じる痛みをやり過ごしていた。
本来の年齢よりも小さく細い体をさらに小さく丸め、痛みで血の気が引いた顔は本来の白さを通り越して青白くなっていた。
ミルクティーブラウンの髪は肩下まで伸び、本来の輝きを失うほどに薄汚れ、着ている服も煌びやかな部屋には似つかわしくいほどに草臥れている。
「まったく忌々しい!! どいつもこいつも私を馬鹿にしやがって!!」
顔を真っ赤に染めて憤怒の形相で鞭を振るうのはこの屋敷の主であるロマリオ・コールド。
彼はリュートの叔父に当たる人物だ。両親が不慮の事故で亡くなりロマリオに引き取られてからというもの、リュートはこうして彼の憂さ晴らしに鞭を打たれる日々を送っていた。
意識を飛ばせればどれだけいいか。
でもそれはしてはいけないことの一つだ。意識を飛ばせば水をかけられ、さらに酷い仕打ちが待っている。
打たれている際に声を上げるのも厳禁だ。
ロマリオが疲れるまで、または気が済むまで、ひたすら拷問のような時間を耐え続けるしかリュートにできることはない。
皮膚が裂け、焼けるような痛みに歯を食いしばって耐えていれば、くすくすと楽し気に笑う男女の声が聞こえてくる。
声の主は見なくてもわかる。ロマリオの妻であるシェールと、その息子フェードだ。
鞭を打たれ無様に這いつくばっている姿のどこに笑う要素があるのかリュートにはわからない。
だが彼らはいつもいつも、豪華なソファに優雅に腰掛け、リュートがこうした目に遭っている様子を見ながら醜悪な笑顔を浮かべるのだった。
痛みで意識が朦朧とし始め、目が勝手に瞼を閉じようとしてくる。
それを無理やり押し上げ目を見開くと、綺麗に磨かれたタイル貼りの床をリュートは見つめ続けた。
リュートにとってこの屋敷に味方と言える者は誰一人としていない。
やめてくれと叫ぶのを止めたのはいつだったか。部屋の隅に控えるメイドや侍従たちに助けを求めるのを止めたのはいつだったか。
そうしてリュートは絶望の淵に立たされ続けるのだ。
「嫌だわロマリオ、こちらまで血が飛んでいてよ」
「母上、もう少し後ろに下がりましょう」
「そうねぇ……でもいいわ。このまま観劇に行きましょう、あなたも一緒にどうですロマリオ」
鞭を振り下ろした直後。肩で息をするロマリオは、ふんと鼻を盛大に鳴らしてから乱れたシャツを整え、控えていた侍従に鞭を手渡した。
どうやら今夜はここまでのようだ。
いつもより短くすんで助かったと息を軽く吐いた瞬間、革靴の硬いつま先で腹を蹴り上げられた。
「――っ!!」
危うく出そうになった声をなんとか押し留め、体を丸めて痛みを耐える。
「これを部屋に連れていけ」
言い捨てたロマリオに続き、シェールとフェードも部屋を出ていった。
途端に静まり返った部屋には、暫くしてから重い息を吐きだす音が複数聞こえてくる。
メイドは汚れた床を掃除するために動き出し、ロマリオに言いつけられた侍従は面倒くさいといった表情を隠しもせず、リュートの目の前に立つ。
力が完全に抜け歩くことができないリュートを一人では支えられず、結局侍従二人ががかりで両脇を支えられ、引きずられるようにして部屋から連れ出された。
リュートに与えられた部屋は屋敷の一階、それも奥まった場所にある。
絵画や調度品が並べられた煌びやかな廊下を抜け、階下の者達が使う通路とは別の簡素な廊下を抜ける。
そこからさらに進めば、他の物とは異なる金属でできた扉の前に辿り着いた。
扉が開かれれば、油がさされていない金具がギリギリと耳障りな音を上げる。
ヒヤリとした湿っぽい空気が漏れ出すと同時に、リュートは侍従によって背中を強く押されてしまった。
地下へと続く石でできた幅広い階段を転がり落ちて下まで辿り着けば、再び耳障りな音が再び聞こえ、扉が閉められ施錠された。
「いっ、ッ!!」
階段で打ち付けた全身が痛みで悲鳴を上げる。
灯り取り用の細長い窓が天上付近にひとつあるだけの室内。
月が雲に隠れて光が入らない今、室内は暗闇に飲まれていた。
広い地下室にポツンと置かれている使い古されたベッドまで這いずりながら何とか辿り着くが、リュートはそこで力が尽きてしまった。
背中は燃えるように熱いのに、痛みのせいで血の気が引いていてとても寒い。
打ち付けた箇所もズキズキと痛んで仕方なく、とても立てそうになかった。
ベッドに上がるのを諦めたリュートは、体から力を抜くとそのまま目を閉じる。
地下だというのに加えて、床は石を敷き詰めてできているせいで、ひんやりとした冷たさがさらに体温を奪っていくように感じる。
傷つけられた背中からは血が滴り落ち、床の血溜まりが少しずつ大きくなっていくのを感じながら、今度は早く意識が遠のくようにと念じるしかなかった。
叔父に鞭を打たれるというのが毎日ではない、ということが唯一の救いだ。
死なれたら困るから――という理由は、こそこそと話す使用人達から盗み聞いて知っていた。
リュートには親から託された物がいくつかある。
それらはリュートが成人を迎えた年に、相続財産を管理する役人から渡されることになっていた。
ロマリオはそれを狙っているようなのだ。
だがこれには決まりがあってリュートが成人前に不審な死を遂げた場合や、相続直後に不審な死を遂げたりすると相続された物がロマリオに渡らないことになっている。
だからこそ、死なないギリギリのラインでいつも鞭を振るわれるのだった。
食事は最低限のパンとスープが一日二回。だがそれも量が多い訳ではないし、美味しくもなければ、こうして鞭で打たれた夜は食事が出ることはなかった。
リュートは日々薄暗く湿ったこの地下室で寝起きし、ロマリオの機嫌が悪い日に部屋から連れ出され鞭を打たれる生活を強いられている。
いったい自分が何をしたのか。何が悪いのか。
何もかもわからないまま、引き取られてから既に五年の月日が経っていた。
これならいっそ、父や母と一緒に命の火を消してしまいたかったと、そう何度も考えてしまう。
生きていて良かったと、そう思える今も未来もどこにもありはしないのだから。
くぅ……と小さく鳴ったお腹を抑えれば、蹴られた腹部が痛む。
――このまま朝など迎えなくていい。
そう思いながらキツく目を閉じていれば、ふと、空気が揺らぐのを感じた。
窓ははめ殺しになっているため、風が入ってくるはずもない。
気のせいだろうと意識を落とすことに再び集中していれば、今度は強い光が一瞬だけ瞼の裏まで届いた。
流石のリュートもこれには明確な違和感を覚えて目を開ける。
すると、目の前にあるはずもないピカピカに磨かれた革靴が見えた。
思わず視線を上に向ければ、暗闇で光る真っ赤な瞳とかち合う。
暗くてよく見えない中、暗闇に浮かぶ赤をじっと眺めていれば、雲に隠れていた月が顔を出し、部屋の中にわずかな光を届けた。
浮かび上がった姿にリュートは目を見開く。
スラリと伸びた背に程よい体格。肌の色は浅黒く、黒く癖のある髪と怪しく光る釣り上がった赤い瞳は人間離れしているような気配があった。
この屋敷で働く者達全員を知っているわけではないが、己を見下ろす男からは屋敷で働いているような雰囲気が一切ない。
「――だ、だれ……? 」
小さく掠れた声で問い掛ければ、唐突にしゃがみ込んだ男が片眉と口端を器用に上げた男が口を開く。
「俺はルミアス。お前に召喚された悪魔だよ」
とても現実とは思えない事象と限界に達した痛みも相まり、リュートはふっと意識を手放した。
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