第4章「手がかりと不安の狭間で」(1)

「昨日のメモを読んでも、全然思い出せない。どうなってんだ、これ……」


 白山シンは、自室の机で薄暗いランプの光を浴びながら呟いた。

 時計は朝の六時三十分を示している。

 シンの部屋はシンプルな内装で、勉強机とベッド、教科書やノートが詰め込まれた本棚がある。

 壁には部活関係のポスターや中学時代の写真が少し貼られている。

 しかし、いつからか「こんな写真撮ったっけ……」と記憶が飛んでいるものもあった。


「断片的な映像……白衣の大人たち……なんなんだよ、これ……」


 シンはスマホのメモアプリを開いて昨晩の走り書きをチェックする。

 しかし、何の脈絡もない単語が羅列してあるだけで、繋がりが見えない。

 頭が重く痛んで、じわりと冷や汗がにじむ。


「シン、起きてるの? 朝ごはん冷めるわよ」


 階下から母親の声が響く。

 

 「今行くよ、母さん!」と返し、シンは急いでブレザーを羽織る。

 ネクタイを締めようとするが、指先が震えて上手く結べない。

 最近の頭痛と不安のせいなのか、細かい作業がスムーズにいかない場面が増えたと感じる。


(念動力で指先を動かそうとしても意味ないしな……変なこと考えすぎか……)


 自嘲気味に笑いつつ、なんとかネクタイを整えたところで階段を下りる。

 リビングへ行くと、母がエプロン姿で「シン、ほんとに顔色悪いわね。具合が悪いなら休んだら?」と真剣な目を向けてくる。


「大丈夫……ちょっと寝不足かも」

「寝不足ってレベルじゃないと思うけど……無理しないでよ? 学校も大事だけど、健康が一番なんだから」


 母親はシンの表情を窺う。

 しかしシンは「うん、わかった」と笑みを作って朝食のトーストにかじりつく。

 全然味を感じないが、食べないわけにもいかない。


(ごめん、母さん……。俺、念動力とか記憶喪失とか……どう説明すればいいのか全然わからないんだよ……)


 黙々と食べ終えると、急いで身支度を整え玄関へ向かう。

 母親が「いってらっしゃい……ほんとに忘れ物ない?」と確認するが、シンは「平気だよ」と曖昧に返事し、家を飛び出した。


 ◇


 シンはやや曇り気味の空を見上げる。

 シンが通う学校は駅から十分ほどのところにあり、生徒数はやや多め。

 校舎は三階建てで中庭があり、行事も割と活発に行われる普通の公立校――のはずだが、最近シンには“普通じゃない”何かを感じてならない。


 坂道を下っていると、後ろから賑やかな声が聞こえた。

 

「シン、おーい! 待てって!」


 振り返ると、御影コウタがすいすい自転車を漕いで追いついてくる。

 クラスではボケ役を担うムードメーカーだが、根は真面目で親切。

 中学時代からシンと親しい友人だ。


「おい、シン! お前、また出発遅かったろ? 大丈夫か?」

「おはよう……寝坊ってわけでもないんだけど、ちょっと朝から頭痛が……」

「おいおい、昨日もそんなこと言ってたよな? ほんとに平気か?」


 コウタはシンの顔を覗き込む。

 シンは笑ってごまかすが、コウタは半ば呆れた口調で続ける。


「まあ、無理すんなよ。ナツミも『シンがマジで死にそう』って心配してたからな」

「うん……わかってる」


 会話をしつつ学校に着くころには、予鈴まであと五分。

 二人で急いで校舎へ駆け込んだ。


 ◇


 教室に入り、ホームルームの開始を待つ間、クラスメイトたちがざわざわと雑談を楽しんでいる。

 風間ナツミが「コウタ、この前の宿題、ちゃんと提出できたの?」とツッコミを入れ、コウタが「当然だろー! 俺はやるときやる男なんだよ」とボケる。

 周囲は「あはは」と笑いが起こり、いつもの和気あいあいとした光景。

 ナツミはクラス委員を務め、何かとまとめ役に回るほか、ツッコミ担当としても定評がある。


 「シン、お前も笑えよ!」とコウタが話を振るが、シンは「あ、ごめん……」と素っ気なく返すだけ。

 ナツミが「ちょっとシン、いつもより酷いわね。昨日も顔が暗かったけど、今日もなの?」と苦笑する。

 しかし、シンは力なく「なんかごめん……」と答えた。


 ◇◇◇


 黒江ユキは、シンの様子を少し離れた席から観察していた。

 セミロングの黒髪をストレートに下ろし、制服を端正に着こなしている。

 周囲にほとんど笑顔を見せず、必要最低限の会話しか交わさないため“近寄りがたい”と思われがちだが、その正体は“読心力”を持ち、他人の強い感情を拾ってしまう体質だからだ。

 結果、自分の感情がどんどん希薄化しているという悩みを抱えていた。


(彼、やけに落ち込んでる。あのとき廊下ですれ違ったときも強い不安が伝わってきた……。だけど私が近づくと能力が疼いて……頭が痛むし、自分の気持ちもわからなくなる……)


 ユキはノートを開いて何事もなかったように振る舞うが、その瞳には小さな戸惑いが浮かんでいる。

 ユキにとってシンの“感情”はどこか棘のように刺さり、目を逸らせなくなるのだった。


 ◇◇◇


 二限の授業を終えたタイミングで、シンは頭痛に耐えかねて机に突っ伏していた。

 ノートにメモを取ろうとしても集中できず、忘れないように書いておきたいことが何だったかすら思い出せない。


 「シン、大丈夫?」とナツミがそっと声をかけ、コウタも「休み時間に保健室行ったほうがいいんじゃね?」と促す。

 しかしシンは「もうちょい大丈夫……」と返すばかり。

 するとナツミが「ちょっと廊下に来て」と手招きし、コウタと三人で教室を出る。


「見て、これ。昨日の放課後、図書室で見つけたパンフの切れ端。『特別支援センター』とか書いてあって、児童心理研究とか……。思い出した?」

「う……頭が……」とシンが額を押さえる。

 コウタが「ほら、やっぱ保健室行けって」と苦笑するが、ナツミは資料を指し示しながら続ける。


「全部読めるわけじゃないけど、“子どもの情緒面のサポート”とか“政府の外郭団体”みたいな表記があって……正直怪しいのよね。シンが言ってた“記憶が飛ぶかも”とか、そういうのと関係あるんじゃない?」

「そ、そうかもしれない……でも頭痛が酷い……どうして見覚えがある気がするのに、繋がらないんだ……」


 周囲はクラスメイトがワイワイ談笑しているが、ここだけ深刻な空気が漂う。

 コウタが「シン、マジでやばいなら俺が病院連れてくぞ?」と言うが、シンは「いや……何て説明すればいいのか……念動力の話は……」とぼそり。

 コウタは「え、なんか言った?」と怪訝そうに聞き返し、シンは、「はっ」として口をつんだ。


 ◇◇◇


 次の休み時間。

 ユキは、廊下の隅で一人ボーッとしているシンに無言で近づいた。

 視線が合うと、ユキは「顔色わるいね」と率直に指摘する。

 シンは困った顔で「うん、ちょっと朝から調子悪くて……」と呟く。

 ユキが「調子悪いって、具体的には?」とあっさり追及してくるので、シンは苦笑しつつ打ち明ける。


「図書室で変な資料を見つけて……“特別支援センター”って書いてあるパンフの切れ端なんだ。昔俺がそこに通ってたのかもしれないって思うと、なんか頭痛が……」


 「特別支援センター?」とユキは目を細める。

 ほんのわずかに眉が動き、内心で(私も……昔何かの検査を受けてた気がする。まさか同じ施設?)と動揺するが、口には出さない。


「でも、思い出せないんだ……」

「そうなんだ……」

「うん……ちなみにさ……そういうの、知らないよね?」


 シンがそう尋ねると、ユキはわずかに唇を動かし、「知らない」と答える。

 ユキは嘘を言うつもりはないが、確証がない状態で話せないかった。

 読心力でシンの不安を拾いすぎて頭がキリキリするため、それ以上会話を続けられず「変な話、聞かせてごめん……」とシンは気まずそうに俯く。

 ユキは「ううん」と呟き、背を向けて教室に戻るのだった。


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