第2話



 数日の間、実家に戻ってもいいですか。


 送ったメッセージはすぐ既読になった。雪澄さんは仕事中でも、会議でなければすぐに返事を返してくれる。


 しばらく間が空いて返ってきたのは「了解です。ゆっくり過ごしてね。帰る日が分かったらまた連絡ください」という予想通り優しい返事だった。


「ごめんなさい……」


 結果的には家事をサボってしまうことが心苦しくて、液晶の明かりを落としながら、私はぽつりと呟いた。




 困ったことに、久方ぶりの実家は想像以上に居心地が良かった。


「お家の方、大丈夫なの?」


 リビングで一緒に食事をとっていると、窺うように母が問う。母の懸念は尤もで、実家に戻ってから丸三日が経過していた。


「ごめん、迷惑かけて」

「私は全然いいのよ。でも、そろそろ一回戻った方がいいんじゃない?」

「うん……」


 そうだよね。私もそう思う。


 だけど、ここに居れば居るほど雪澄さんとのお家には戻りにくくて、あれこれ悩んでいたことについても、結局結論は出ていない。


 まだ胎動も何もない、薄いばかりの腹をそっと撫でる。


 ただひとつ、どんな形であれこの子を産み、育てたい――いつの間にか芽生えていた母性、それだけが確かだった。


「私は、蓮月さんのことを深く知ってるわけじゃ無いけど」

「……?」

「どんな内容であれ、百合子からの相談なら真剣に聞いてくれると思うわ。……百合子がここに来てから、毎晩私宛に電話が来てるって、知ってた?」

「えっ?」


 びっくりして母を見る。母は、ほんのり悪戯めいた笑みを浮かべた。


「百合子の様子はどうかって、どっちが母親なのか分からないくらい。旦那さん、寂しそうだったよ」

「……!」


 寂しそう。そう言われて、自覚してなかった自分の心にも気付く。


 心に小さな穴が開いて、そこから何かが欠けていくような。パズルのピースが足りないような。――そう、私も感じていた。雪澄さんが側に居ない寂しさを。


「うう……帰る……帰る、かあ……いやでも…」


 やっぱり踏ん切りがつかない。けどもう金曜日だし、土日はきっと父も家に居る。鉢合わせるのだけは避けたい。


 電話こそ無いけれど、雪澄さんは毎日欠かさずメッセージをくれていた。そういえば、昨晩に至っては「あとどのくらいの予定?」と訊かれてもいたんだっけ。


 雪澄さんとのトークルームを見返そうとして、手元にスマートフォンが無いことに気付く。


 慌てて探すとソファーに放り出されていた。手に取って電源ボタンを押し、通知欄を見て「へぇ!?」と変な声が出る。


「お、お母さん!」

「どうしたの?」

「雪澄さんが来るかも……」


 母に向かってスマートフォンの画面を向ける。「今から会いに行ってもいい?」――簡潔なそのメッセージを受信したのは、もう三十分も前だ。


「いい旦那さんね。百合子が心配なのよ」

「ど、どうしよう」

「とりあえず帰り支度したら?」

「えぇ!?」


 母はすっかり私を家に帰すつもりである。


 そんな殺生な。迷惑をかけている身であることを棚に上げて絶望していると、ピンポーン、と来客を知らせるチャイムが鳴り響いた。


「あら」


 固まる私を置いて、母がインターホンに向かう。


「はい」

『突然の訪問、申し訳ございません。蓮月雪澄です。……百合子さんはいらっしゃいますか?』


 母に応じた、低く落ち着いた声。


 数日聞かなかっただけなのに随分と久しぶりな気がして、胸がきゅうっと締め付けられた。


「いま開けますね」


 通話の終了ボタンを押した母が、私を振り向く。立ち竦む私に苦笑して、母は私の肩を優しく叩いた。


「百合子は座って待ってて。……怖がらないで大丈夫よ、彼なら」


 言われるまま、よろよろと座る。暫くすると廊下に続く扉が開いて、すらりと長い脚が現れた。


「百合子さん」


 静かに呼ばれて、どきりと心臓が跳ねる。


 恐る恐る顔を上げると、僅かに眉を下げた雪澄さんと目が合って、なんだか泣きそうになってしまった。


「じゃあ、私は席を外しますね」

「すみません、お義母さん。ありがとうございます」

「いえいえ。百合子のこと、よろしくお願いします」


 二人は頭を下げ合って、母は言葉通り部屋を出て行ってしまう。


 雪澄さんは扉が閉まるまで母を見送って、それから、私の向かい側に座った。


「百合子さん、元気にしてた?」


 微笑みながら訊ねられて、ぽっと頬が熱くなる。なんだか、少し会わなかっただけで彼の美貌に対する免疫が下がってしまったみたいだった。


「う、うん。……雪澄さんは?」

「元気じゃないかな」

「え!? か、風邪? それともお仕事で何か……?」


 元気じゃないなんて言う雪澄さんは珍しくて焦る。


 思わず熱を測ろうと伸ばしかけた私の手を、雪澄さんは包み込むように掴んだ。


「百合子さんが帰ってきてくれないから」

「え……」


 片頬を僅かに膨らませた雪澄さんが、腕を枕にして突っ伏すように頭を預ける。


 じっと上目遣いで射抜かれて、私はごくりと唾を飲んだ。


「ゆっくり休めた? 久しぶりの実家は」


 掴んだ私の手をふにふにと弄りながら訊かれても、そっちが気になってしまって上手く答えられない。


「う、うん……」

「……やっぱり、寂しかった?」

「え?」


 雪澄さんの指が私の指をなぞり、そのまま絡めるように手が繋がる。


 手汗が滲んでしまいそうだから離してほしいのに、決して許されないような力強さだった。


「平日の昼間、家に一人だから寂しくさせたのかなと思って。ごめんね」

「雪澄さんは何も……」

「じゃあ、そろそろ帰って来てくれる?」


 甘えるような声で強請られて目を瞠る。そんな私にちょっとバツが悪そうに、雪澄さんは視線を逸らした。


「本当は、俺からは何も言わないでおこうと思ってたんだけど……俺がもう、我慢の限界」

「雪澄さん……」

「お願い百合子さん、一緒に帰ろう」


 そのために迎えに来たんだ、と雪澄さんは言った。


 思えばまだ平日の昼間。まさか、仕事を休んでまで……?


「お義母さんには悪いけど、百合子さんがうんって言うまで、俺帰らないよ。それとも、俺が百合子さんに何か嫌なことしちゃった? それなら直すから言ってほしい」


 首をぶんぶんと横に振る。雪澄さんは頭を持ち上げて、掴んだ私の手を引くと、その指先にちゅうと吸い付いた。


「帰ろう、百合子さん」


 今度は甘える声じゃない。芯の通った音で紡がれて、私の首は自然と縦に振られていた。




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