第29話 特別扱い

「この名前の奴、青柳なら知ってるんじゃないかって思ってさ」


声が、出せなくなった。

『萩野唯』その名前から目を離せなかった。


どうにかして言い訳を探す。

「あ、えっと、見間違えじゃ、ないかな?たまたま似た名前の人がいただけとかさ……」

「青柳さん、テニスで県大会でたって言ってたよね?」

「あっ……」

今までずっと黙っていた白井さんが割り込んでくる。


「ホラ吹いてたってこと?」

「いや、それは」

その大会には、出た。

しかし、説明するのが難しかった。

そろそろ一年前になるその大会に、自分が今とは違う苗字で出たこと。


それはつまり、『この一年で苗字を変えてここまで来ないといけなくなるほどの事情があった』ということだ。

それは事実なのだが、彼らに話したくない。

自分から離れて行ってしまうのが怖い。

自分があの時しでかした事の重さを知っているからこそ、それを知られたくない。


「……」

「言いたくないなら、言わなくてもいいけどさ」

三か月の間積み上げ続けてきた安心感がすべて毒となって、自分に襲い掛かってくるようだった。

少しでもその毒に侵されてしまえば、自分がこのままではいられなくなってしまうという不安が溢れた。

自分が本当は人間ではなくて、人間のふりをしているだけのナニカだと見せつけられて、仮面を引っ剝がされてそれを壊されるような、そんな気がした。


彼らはどこまで知っているのだろうか?

『萩野唯』が『青柳唯』と同一人物であることだけだろうか?

わたしの耳のことは?

わたしの過去は?

もしかしたら、先輩が言いふらしたのか?

喉……いや、もっと奥、胃から溢れそうになるものを必死にこらえる。


「ご、ごめん、話せるようになったら、話すよ」

「か、帰るね」

そこまで言って、静かに部室から出た。

扉を閉めて、部室のみんなから見えなくなっていることを祈りながら、わたしは走った。

とりあえず人のいない場所まで、吐き気を抑え込みながら走った。


――――


「唯、いる?」

「よくわかりましたね、いや、先輩に見つけてほしかったから、ここに逃げ込んだのかも」

六所神社の階段に座り、私の顔を見ずに唯が口を開いた。


「大丈夫?」

「大丈夫じゃない」

「先輩が勝手に教えたとかは、ないですよね、あれ」

「教えてないよ」

こんなことで噓をつく必要はない。

唯は眼だけでこっちを見つめて、呟く。


「信じるよ、先輩だから」

「ありがとう」

少しだけ、ほっとした。

本当のことを言えば、唯が自分から離れてしまうのではないかという不安があった。

こんな唯を見ても、結局私は自分本位のままなのだ。

自分が少し嫌になる。


「何があったのか、話してくれる?」

「今は、無理」

「少しだけ、落ち着く時間が欲しい」

「となり、座っていい?」

「どうぞ」


唯の許しを得て、彼女の隣に座る。

唯の少し荒い息遣いを鼓膜で感じながら、唯のための言葉を探そうとした。

でも、答えは見つからなくて。

唯の震える背中を見ながら、唯の背中に触れようと思った。

唯の震えを、止めてあげたくて、でも、透明な壁に触れたようにその手は届かなかった。


息苦しい沈黙が続く。

唯はどんな景色を見てきたのだろう。

どんな感情をもって、どんな表情をして生きてきたのだろう。

「唯は、どうしたい?」

おそらく、彼らも悪意はないだろう。

無かったことにするのも、たぶんできる。

しかし、それは本当に唯の望むことだろうか。


「分からない」

「分からないんだ、本当に、なにも」

「……そっか」

「なんでもいいよ、おいしいもの食べたいとか、ゆっくり寝たいとか、わたしとキスしたいとか」

「最後のはそっちの願望なんじゃ……」

最後の選択肢はともかく、取り敢えず解決のためには唯の心に整理をつける必要がある。


唯はたっぷり五分ほど考えた後、ゆっくりと呟いた。

「海が見たい」

『海に行きたい』か、確かに岡崎に海は無い、少し早めの夏休みだと思えば、リフレッシュにはもってこいだろう。

「じゃあ、今度二人で海に行こうか」

「……うん」


きっとこれは自分のためだ。

今の私にとって唯はもう一つの心臓のようなもので、重すぎる本来なら自分では支えきれない立場を一緒に支えてくれる仲間であった。

唯を手放したくなくて、唯をずっと自分だけのものにしていたくて、そうして自分は、彼女にわざとらしい特別扱いを続けるのだ。

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