第21話 さよなら、世界.2
山の頂から、朝日が顔を覗かせる。すると二人は、それを合図にしたかのように、一瞬で距離を詰め合った。
紫陽花の胴薙ぎを、地面擦れ擦れまで身を屈めて躱す。
起き上がる勢いで下から斬り上げるも、いとも容易く身を引いて避けられる。
(やはり、やる)
左足を一歩前に出して袈裟斬り。
大鎌の柄で防がれて、後退する。
その動きに合わせ、紫陽花が深い当て身を繰り出してくる。
ぐらり、と体勢が崩れる。
よろめいた体に目掛けて、紫陽花が袈裟斬り。
すんでのところで体を後ろに逸らして避ける。
それを追い打つように、右から左への切り払いが迫る。
燐子は、紫陽花の想像以上の切れの良さに冷や汗をかきながら、同時に言葉にしようもない興奮を覚えていた。
(鎌の構造上、防御は危険。だからといって、このまま躱し続けるのは至難の業だ)
ならば、と燐子は体を逸らしたままで、太刀の角度を変え、相手の攻撃の流れに合わせてすっと刃を差し込んだ。
受け止めることもせず、躱すこともしない。
ただ相手の軌道だけを逸らして、ギリギリ自分の胸先三寸へと遠ざける。
自分の丹田あたりを切り裂くはずだった一撃は、凄まじい風圧と共に、ミルフィから借りた白シャツだけを引き裂いて通り過ぎていく。
(寸前で躱し、断ち切る――私が編み出した妙技、身躱し斬り)
紫陽花の瞳が驚愕に見開かれる中、燐子の太刀が、しならせた竹を戻すかのような勢いで相手の胴体を狙った。
斬り裂け、そう意思を込めながら振りぬいた一撃だったが、紫陽花は素早く大鎌を引き、その柄で受け止める。
鎌の柄には鉄が仕込んであるらしく、寸断できなかった。それどころか、太刀の刃のほうが欠けてしまった。
(無理もない、あれだけの敵を斬り、攻撃をいなしてきたのだ。いくら業物で、腕の立つ職人に手入れをしてもらった後だとしても限界は来よう)
素早く気持ちを切り替え、太刀を鞘に納める。そして、ゆっくりと小太刀を抜く。
「うふふ、今の、まぐれかしら」
「好きに思え」
会話の途中であっても、紫陽花は何の躊躇もなく大鎌を振り下ろした。燐子はそれを紙一重で横に避けると、間髪入れず、小太刀で刺突した。
切っ先は、紫陽花の着物の裾をわずかに引き裂いた。薄っすらと血が滴っているのを見るに、かすめはしたようだ。
「あらあら、まぁ!」
燐子は、続けて袈裟斬りを放ったが、返す刃を受けて後退を余儀なくされた。
「ぞくぞくするような戦い方だわ…!死ぬのが怖くないのね」
「太刀を握ったその日から、戦で死ぬことを誉と思って生きてきた!」
「そう、そうだったわよね!命がいらないとか、そういう次元ではなく、一つしかない命を、目的を果たすための手段や、武器と考えるのが、貴方たち侍のはずよね!」
戦いは白熱していた。少なくとも燐子にとっては、周囲の音が霧散していると錯覚するほどに。夢中になっている、と言っても過言ではなかった。
馬鹿だ。私も、こいつも。
『対等に戦って勝つこと』『強い相手と戦うこと』、それ自体に一体何の意味があろうか。
そう考えながら、その意味を理解できるものが一体どれだけこの世界にいるのかと想像した。
間違いない、この世界にも侍と似た仕組みで生きている者はいる。
目の前のこいつがそうだ。形や目的は違えども、本質は同じ存在。
形式や、精神的な充足にこだわり、合理性や実益を度外視した生き方をする生き物。
「ふふ、貴方も楽しんでくれているようで、嬉しいわ」
「…ふ、私も嬉しく思う。こんな場所まで来て、お前のような相手と刃を交えられることに」
「まぁ、情熱的な言葉。好きになってしまったらどうしようかしら?」
「ちっ…ぬかせ」
互いが黙った刹那、燐子が駆けだす。
朝日を受けた小太刀を煌めかせ、先ほどとは倍近く早い太刀筋で紫陽花に襲い掛かる。
紫陽花は機敏に動き、その連撃を難なく躱した。
間違いなく、今までの相手の中で最も手強い。
だが、だからといって絶対に敵わないわけではない。
息つく暇も与えない、攻撃を繰り返していれば必ず隙はできる。
(それがたとえ、どんなに狭苦しい隙間であっても、ねじ込んで見せる…!)
「ふふ、そんなに激しくして、大丈夫?」
挑発するように紫陽花が言うが、その口元には息切れが見られる。
こちらの体力が尽きるのが先か、それとも相手がさばききれなくなるのが先か。
全身の皮膚が焼け付くようにひりつく、最高のひととき。
自分の全てを賭した大勝負。
絶対に、目を逸らしたりはしない、逸らさせはしない。
(研ぎ澄ませ、ぶつけろ!私が戦場で磨いてきた技――これだけは、何のしがらみもなく、本物だと信じてきたはずだ!)
目も止まらぬ連撃をひたすらに叩き込む。
少しずつ紫陽花の顔色に焦りが滲む。
初めは最低限を刃で防ぎ、残りは体をひねって躱していた紫陽花も、段々と防ぐ回数が増えていき、最終的には亀のようにその場で防ぎ始めた。
「ふ、ふふ…っ、まともではないわね、貴方!」
自分の中に蜘蛛の巣のように張り巡らされている神経が、命のやり取り、ただ一点に向けられていく。
一方で、そうして一騎討ちに集中している自分の他に、それらを遠くから俯瞰している自分の存在も確認できた。
くるくる回る、風車。
キラキラと朝日を反射して輝く、水面。
剣と刀がぶつかる際に時折光る、火花。
刹那、確かに見えた気がした。
周囲の風景を切り取って、次から次に入れ替えているような視界の隅に、この異世界で待つ新しく、刺激に満ちあふれた日々が。
思い出じみた印象だったけれど、確かにそこにあった。
きっと、この世界には、まだ知らないことがたくさんあって。
もっと、自分の心と技を高められる相手がいて。
ずっと、自分のことを理解してくれる人がいて。
(…そうだ、思い出みたいに、光る)
――綺麗なもの。
それが何であれ、私は構わない。
戦って勝つこと。
美味い飯を食うこと。
新しい剣術に触れること。
感嘆の息が漏れる風景に出会うこと。
自分より強い者と刃を交えること。
過去の自分から解き放たれること。
親友を作ったり、人を好きになったりしても、面白いかもしれない。
(…あぁ、そうか…)
本当はやっぱり、まだしたいことがたくさんあったのだ。
私の人生は、古めかしい城と共に燃え尽きて終わるものでも、父と共に自刃することで簡単にケリをつけていいものでもない、と心のどこかで、私が私に訴えていたのだ。
それを知っていたから、父はあのとき逃げ落ちろと言ったのだろう。
(…ふ、親の心子知らず、とはよく言ったものだ)
だから、こちらの世界に来てから、あれこれと理由をつけて腹を切ることから逃げていたのか。
誇りや誉のためなら、死んでもいいと思い命を懸けて戦う自分も。
生きて、新しいものに触れたいと願う自分も。
…どちらも本物だ。
そうして生きられる自分は、きっと豊かで、幸せなのだろう。
不意に、自分の体が深く沈んだ。
何が起こったのか不思議だったが、どうやらその辺に転がっていた死体に躓いたらしい。
すでに集中も途切れ、体力も尽きている。
(そんなことにも気づけなかったのか…)
それを好機と、紫陽花がかすかに下がり、大ぶりの横薙ぎの構えをとる。
(大丈夫だ。死ぬことなど、怖くはない)
倒れそうな姿勢のまま小太刀を構え、距離の目測を立てる。
(ずっと、そうやって生きてきた)
自分の胴体を両断するべく、刃が躍りかかる。
(運命の激流が私を阻もうと、最期の最期まで、抗う。それだけだ)
薙ぎ払われる刃に合わせて、小太刀を当てる。
上へと滑る、刃。
だが、考えていた以上に、攻撃が逸れない。
「それは、もう見たわ」と誰かが言っている。
最初の感覚は、熱い、だった。
まるで、誰かが自分の左肩に火を放ったのではないかと錯覚してしまうほどの、熱量。
それから続いて、痺れ。
ジンジンと、深く斬られたとき特有の鼓動を打つような痺れが、肩に大きく広がっていく。
(――斬られたのか)
そのときになって、ようやく燐子は気が付いた。
(この傷は、深い、な)
そのまま地面に倒れ込む。
立ち上がろうとしても、どうにも体が言うことを聞かない。
一騎討ちで負けるのは初めてだ。
疲労と、度重なる小さな切創、そしてトドメの一撃。
血を流しすぎたのだ。
意識が、朦朧としている。
誰かがそばに立って話している声が、遠くに聞こえる。
「満身創痍の貴方に、ここまでやったら大人気なかったかしら?」
本当に反省しているみたいな声音だった。
「まあ、それでも私の勝ちよ」
勝ち?
ぎこちなく、唇を動かして笑う。
いいや。私の勝ちだ。
遠くから、馬の蹄の音が聞こえていた。騎士団のものだろう。それに混じって、ミルフィの悲鳴も聞こえる。
「…時間稼ぎができればよかった、ということね。ふふ、前言撤回。私の負けのようだわ」
紫陽花が撤退を呼びかければ、馬の蹄の音やら鎧がこすれる音やらが二重になってぼんやりとした頭に響く。
(間に合った…というには、遅すぎるがな…)
体が少しずつ熱を感じなくなってきて、とうとう寒ささえ感じてきた。
死ぬ、というのも、存外落ち着くものだ。
それもそうか。
元いた場所に帰る、というだけの話にすぎないのだから。
自分たちが、生まれる前にいた場所。
暗い、安らかな場所。
朝焼けが、山間を橙色に染める。
あぁ、やはり、この世界は美しい。
死んでもいいとは言ったものの、もう少しだけ、生きていたかったものだ…。
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