第3話 侍になれなかった女.3
他の家よりも少しだけ大きい建物へ導かれる。老人は、この小さな集落では相応の地位にある人物なのだろう。
中へと通され、そこで履物を脱ごうとしたところ、彼は目を丸くして制止し神妙そうに頷いた。
玄関を抜け、廊下を渡り縦長の部屋に足を踏み入れると、そこには部屋の半分ほどの面積を占める大きな机と椅子が置いてあった。
「どうぞ、おかけになってください」
老人の呼びかけに従い、椅子を引いて座る。
「何とお呼びすればいいでしょうか」
「ああ、そうですね、ドリトンと、お呼びください」
恭しく頭を下げたドリトンは、窓から入ってくる朝日に横顔を照らされて、その頬に年季のある皺で陰影をつけた。
「それで、私に聞きたいこととは?」
「まず確認したいのですが、日の本をご存知ですか」
「日の本…?いえ」
「ではなぜ、日の本の言葉を使えるのですか」
燐子が何かに追い立てられるようにして放った言葉を聞いて、ドリトンは深刻な顔つきで顎を引いた。
「…貴方は、やはり『流れ人』のようだ」
「『流れ人』?」
ドリトンは一度咳払いしてから、「心して聞いてください」と前置きして『流れ人』について語り出した。
「端的に言えば、違う世界からやって来た人のことです」
「…違う、世界?」
燐子は、ぽつりと呟かれた間抜けな声が、よもや自分のものだとは思えなかった。
「意味が分からない。もしや、からかっておられるのですか」」
「とんでもない。ただ、流れ人はみんな口を揃えてこう言うのです」
ドリトンは穏やかな口調からは思いも寄らないほどの早口で言葉を並べる。
「そんな国は聞いたこともない、違う国の人間がみんな自然に自分の国の言葉を使っている、見たこともない獣が周辺をうろつき、そして、自分の知り合いがこぞって姿を消していると」
彼の矢継ぎ早の説明を聞き、燐子はゾッとしたものを背筋に感じた。なぜなら、彼の言葉は全部、自分がここに来て感じたことだったからだ。
(そんな馬鹿なことがあるはずもない)
そう考える自分と、薄々似たようなことを感じていたと納得しかけている不気味な自分とが現れて、ただでさえ混乱している自身の頭の中をかき乱した。
やがて燐子は、感情のままに太刀を抜刀し、切っ先をドリトンに向ける。
「違う世界だと…?そのようなことが、信じられるか」
すると、唐突に扉が開かれた。
扉の向こうには、驚きに目を丸くしたミルフィが立っていた。
「ちょ、ちょっと!お祖父ちゃんに何してるのよ!」
彼女は燐子が手にした太刀の煌めきに気づくと、すぐに激昂し、慣れた手付きでナイフを抜いて、順手に構えた。
「ミルフィ、やめんか」
仲裁に入ったドリトンを無視して、ミルフィが「ちょっとアンタ!剣を下ろしなさい!」と怒鳴る。
今にも飛びかかってきそうなミルフィの存在に、燐子は大儀そうに瞳だけ動かして相手を見据えた。
その冷酷さと激情が同居した――目の合った相手に、ある種の畏れを感じさせる瞳に捉えられ、ミルフィは一瞬気圧されたように後ずさる。
だが、一瞬で元の勝ち気さを取り戻すと、次はゆっくりとした口調で警告した。
「下ろしなさい。このよそ者」
よそ者という言葉が、今は酷く苛立つ。
「口を出すな、女。邪魔立てすれば容赦はしない」
「アンタだって女でしょ。こっちだって、そいつを下ろさないと容赦しないわ」
「…やめておけ」
「いいから、下ろしなさいって!」
燐子は、ミルフィのことをじっと見つめたかと思うと、一度息をつき、氷のように冷たい声音で告げた。
「そうか」
少し離れた場所から、ドリトンが何か大声を上げた。だが、燐子はそれを完全に無視し、殺気をみなぎらせる。
「死にたいようだな。斬って捨てる」
一触即発の空気の中、何の前触れもなく、燐子が強く踏み込んだ。
地面に向けられていた刃先が、半円の軌道を描くように下から前方に振るわれる。
あまりに的確で、あまりに一瞬で振るわれた刃を、ミルフィは身動き一つできないまま眺めていた。
燐子は、今この瞬間まで、完全にミルフィを殺す気であった。
しかし、その刃先は、彼女の喉元に食いつく前にぴたりと動きを止めた。
初めミルフィはその理由が分からず、目をぱちぱちさせるだけだったが、そうしているうちに背後から聞こえてきた声に、慌てて振り向く。
「ちょっと、二人とも何してるの?」
「え、エミリオ…」ミルフィが唖然とした様子で呟く。
やがてミルフィは、たった今、人を殺そうとしていたとは思えないほど淡々とした瞳の燐子を見て、その人間離れしたおぞましさ、冷徹さに、本能的に喉を震わせた。
「エミリオ、危ないから下がってなさい!」
しかし、ミルフィの心配をよそに、エミリオの年の割に聡明そうな視線を受けた燐子は、じっと、視線を返した後、小さくため息を吐いて刀を引いた。
自分の喉元に突き付けられていた刃先が離れていくのをわけも分からず見送ったミルフィの隣をエミリオがすり抜けて行く。
「ちょ、待ちなさい」
ミルフィは急いでそれを止めようとしたのだが、指先がわずかに彼の背中に触れただけであった。
「燐子さん、何でお姉ちゃんを斬ろうとしたの」
「うるさかったからだ」
「じょ、冗談だよね?」
「冗談で刀は振らん」
そう冷たく言い放った燐子を見て、エミリオは何かを考え込むように黙り込んだ。
「何だ。言いたいことがあるなら、言え」
「多分、お姉ちゃんがガサツだから、何か燐子さんの気に障ることをしたんだと思うけど、そんなに簡単に人を殺しちゃったら駄目だと思うよ」
至極まともなことを子どもに諭された燐子は、不愉快そうに眉をひそめたのだが、彼の悲愴に染まった幼い顔を見て、思わず目を逸らした。
「斬らなかっただろう」
「それは、僕が来たからでしょ」
「だが、侮蔑を受けて黙っているというのも、武士の名折れではないか」
武士――それは燐子としては、生まれたときから自然と口にしてきた言葉で、世間一般においても知らない者はいない言葉のはずだった。
だからこそ、エミリオが不思議そうに首を傾げて呟いた言葉が、にわかには信じられなかった。
「ぶし?何それ」
「何?そんなことも知らんのか」
燐子は、この村では身分の話も子どもに教えていないのか、と大人たちの至らなさを嘆きながら、ドリトンのほうへと視線を投げた。だが、彼はまたも無言を貫いただけであった。
その柔らかくも知性に満ちた顔つきが、かえって彼女の不安を駆り立てる。
(まさか…)
藁にも縋る思いで、先ほど斬りかかった相手の顔を見つめた。
「な、何よ」
「武士だぞ、いや侍と言えば分かるか?それくらいはいかに辺境の村と言えど知っているだろう」
「悪かったわね、辺境の村で!知らないわよ!」
そう強く言い返された燐子は、ふらりとよろめき、片手を机の上について俯いた。
燐子は、自分が信じている、いや、もはや崇拝していると言っても過言ではない概念が、この世に存在しないことにとても大きな戸惑いを覚えていた。
(そんなまさか、このようなことがあるのか)
侍や武士のいない世界。
違う、そうしたものによる、誇りや誉がない世界。
そのような世の中が認められるのか?
「侍の、いない、世界」
思わず呟いた言葉に、エミリオが過敏に反応し大声で騒ぎ立てる。
「やっぱり、燐子さんは流れ人なんだ!」
煙の見せた夢幻のほうが良かった。
地獄のほうがマシだった。
ここが仮にドリトンの言った『別の世界』なのだとしたら。
武士道の芽吹いていない、荒涼の大地なのだとしたら…。
がくりと膝が折れ、地面が近くなる。
眠れば、全てが醒めるのだろうか。
体に半端に身に着けていた鎧が、地面にぶつかり派手な音を立てる。
腰にぶら下げた太刀だけが、床の継ぎ目に引っ掛かり真っすぐと屹立していた。
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