陸 一緒に

第20話

<font color="#ff8c00">「鈴、ちょっと来て」</font>


 鈴は振り向き、腕の中の小さな娘を揺すりながら、彼女を呼んだ母のそばへと歩いていく。

 すると、母から今日も彦佐が来たことを告げられた。

 鈴が実家に戻り、二週間になるというのに、彦佐は毎日、鈴の実家に来ては、彼女の家族に妻と娘の様子を聞いていく。

 彼に会いたくないと言ったのを気にしているのか、鈴に会わないように、いつも彼女が留守にしている間を狙うようにだ。


<font color="#cd5c5c">(私には一度も会いにこないくせに、家族に様子を聞きに来るなんて…。)</font>


 もう、放っておいて欲しい。完全に完璧に、無視してくれればいいのに。

 そう思いながら、それは鈴の本心ではない。

 琴に会いたいんだろうな…と、娘を溺愛していた夫のことを思い出す。

 眠っている娘を見つめて、鈴は小さく溜め息をついた。


 彦佐に言われたことはショックだった。あんなに取り乱している彼を見たのも。

 彼は今、どう考えているんだろうか。あの時は引き止めたけれど、今は気持ちが変わっているかもしれない。

 怒りとショックが過ぎ去ると、鈴も少しは彦佐の立場になって、贔屓目にも考えられるようにはなった。

 けれど、また彼に疑われたり、見当違いな侮辱を与えられるのは耐えられない。

 信じて欲しい。

 けれど、彼が信じてくれても、鈴を信じると言う、彼の言葉を鈴自身が信じられるかどうか…自信がなかった。

 悲観的になるのは悪い癖だとわかっていても、どうにもよくないことばかり、その可能性を探さないと落ち着かない。

 鈴は先がある程度見えないと、進めないタイプだった。

 それなのに、彦佐とのことは一寸先すら予測出来ない。

 どうにも、鈴には落ち着かないことだった。

 かといって、このまま、実家に居続けるのも肩身が狭い。

 貧しい家に、出戻りの娘がいる場所なんてない。


 どうするべきなんだろう。彦佐の所に帰るしかないんだろうか。

 気が滅入る。

 そう先ではない未来に、結論は出さなくてはいけない。

 自分がどうしたいのか、彦佐にどうして欲しいのか……もう、鈴にはわからなくなりかけていた。


 気掛かりは他にもあった。

 栄治のことだ。実家に戻ると、得意満面でやってきて、鈴を脅した。

 あろうことか、鈴に妾になれと言う。

 言うことを聞かなければ、身持ちの悪い噂をたて、村から追い出してやると言われた。


<font color="#669966">「彦佐を裏切って、よそ者の男といい関係になってると言ったら、村の連中はどう思うだろうなぁ?」</font>


 栄治の卑下た笑いを思い出し、鈴は身を震わせた。

 狡猾な栄治は、その気になれば何でもでっちあげそうだ。

 本当に嫌な奴。


 鈴は頭を振って、嫌な男の顔を追い払う。

 心が休まるのは、琴を見ている時だけだ。

 小さな手に指を握られると、そのぬくもりに微笑まずにはいられない。

 彦佐のことも栄治のことも、娘を見ていると忘れられる。

 両親は、鈴を彦佐の所に返したがっているし、行く所なんて、鈴にはどこにもなかった。

 それでも、娘を見ていると自分が必要とされ、守るべき者がいることを痛感する。

 いつまでも逃げているわけにはいかない。

 残念ながら、琴は鈴一人だけの娘ではない。

 彦佐と琴の間まで引き裂く権利は、鈴にはないのだ。


<font color="#cd5c5c">「ハァ……」</font>


 溜め息をついた時、砂利を踏みしめる音がした。

 物憂げに顔を上げると、我が娘の父親が立っていた。

 二週間ぶりに見た彦佐は、少しやつれているように見えた。


<font color="#4682b4">「…悪い。声をかけるつもりではなかったんだ……ただ、二人が元気にしているようで安心したら、つい気が緩んで……おまえに気付かれてしまった」</font>


 彦佐は戸惑うように一歩退いた。

 鈴の腕の中で眠る、琴を見つめる眼差しは愛情に溢れていて、罪悪感が芽生える。

 貧るように娘を見つめている彦佐に近づき、彼に向かって、鈴は娘を抱いた腕を伸ばした。


<font color="#4682b4">「…いいのか?」</font>


 鈴の意図を察し、喜びと困惑が混じる瞳で尋ねる彦佐にうなずいてみせる。


<font color="#cd5c5c">「琴は……あなたの娘だもの」</font>


 小さな娘を腕に抱いた彦佐は、幸せそうに吐息をついて、娘の柔らかな頬にそっと頬を寄せた。

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