第8話「三人の絆」
秋の深まりとともに、村上家の生活のリズムも少しずつ変化していた。村上香織の状態は徐々に進行し、日常生活の細かな部分で困難さが増していた。しかし、三人の絆は逆に深まり、それぞれが新しい役割を見出しながら、家族としての形を維持していた。
金曜日の夕方、美月は学校から帰ってくるとすぐに、リビングで静香が仕事をしているところに飛び込んでいった。
「しずかおばちゃん、聞いて! 学校で賞状もらったの!」
静香はノートパソコンから目を上げ、眼鏡を外して姪っ子に微笑みかけた。
「まあ、おめでとう! 何の賞状?」
「作文コンクール! 前に書いた『わたしの大切なもの』が県大会で入賞したんだって!」
美月は喜びに満ちた表情で、ランドセルから賞状を取り出した。静香がそれを受け取り、目を通す。確かに、「第37回全国子ども作文コンクール 県優秀賞」と書かれていた。
「これはすごいわね! ママにも見せた?」
美月の表情が少し曇った。
「ママ、今日はお昼寝してる。起こさない方がいいって、朝言ってたよね」
静香は時計を見た。午後四時。香織は朝から体調が優れず、昼過ぎから横になっていた。
「そうね、もう少ししたら起きてくるでしょう。その時に見せてあげましょう」
「うん」
美月は少し寂しそうにしながらも、理解を示した。十歳になった彼女は、母親の状態についてより深く理解するようになっていた。
「宿題は?」
「算数と国語、もう終わらせたよ」
「偉いわね。じゃあ、おやつにしましょうか。キッチンにケーキがあるわよ」
静香と美月がキッチンでおやつを食べていると、香織が寝室から出てきた。少し疲れた表情だったが、二人を見ると微笑んだ。
「美月、おかえり」
「ママ、起きたの? 気分はどう?」
美月は母親の様子を心配そうに見つめた。
「ええ、だいぶ良くなったわ。やっと頭痛が治まったの」
香織は静かに二人の元に歩み寄り、椅子に座った。静香はすぐにお茶を淹れ、香織の前に置いた。
「美月ちゃん、ママに見せることがあるんじゃない?」
静香が促すと、美月は嬉しそうに賞状を取り出した。
「ママ、見て! 作文コンクールで県優秀賞に選ばれたんだよ!」
香織は驚きと喜びの表情を見せ、賞状を手に取った。
「まあ、すごいわ! 美月、おめでとう」
香織は娘をしっかりと抱きしめた。その腕には、言葉以上の愛情と誇りが込められていた。
「何の作文だったの?」
香織が尋ねると、美月は少し躊躇した。それは「わたしの大切なもの」という作文で、ママの病気のことも含めて書いていたものだった。
「えっと……『わたしの大切なもの』っていう作文。家族のことを書いたんだ」
美月の言葉に、香織は優しく頷いた。
「読ませてくれる?」
「うん」
美月はランドセルから作文のコピーを取り出した。香織はゆっくりとそれを読み始めた。作文には、美月が家族との思い出をどれほど大切にしているか、特に母親の記憶が少しずつ薄れていくことを知って、自分が代わりに記憶を守ろうと決意したことが素直な言葉で綴られていた。
読み終えた香織の目には、涙が光っていた。
「美月……本当に素晴らしい作文ね」
言葉につまりながらも、香織は娘の頭を優しく撫でた。
「この作文が賞を取れたのは、あなたの気持ちが真っ直ぐに伝わるからよ」
美月は照れくさそうに微笑んだ。
「先生が、『読む人の心に届く文章は、自分の本当の気持ちを書いたものだよ』って言ってくれたんだ」
静香も感動して、二人を見つめていた。美月の成長と、香織との絆の深さに、胸が熱くなる思いだった。
「そうね、美月の気持ちはちゃんと伝わったわ。私たち家族の絆がどれほど強いか、みんなに知ってもらえたのね」
その夜、美月がお風呂に入っている間、香織と静香はリビングで話していた。
「作文、読んだけど……美月は本当に理解してくれているのね」
香織の声には、安堵と少しの悲しみが混じっていた。
「ええ。彼女は賢い子よ」
「私の記憶が薄れていくことを、あんなに小さな子が受け入れて……逆に励ましてくれているなんて」
香織は窓の外を見つめた。外は既に暗くなり、街の灯りが点々と輝いている。
「美月は強い子だわ。でも、時々彼女の肩に重すぎる重荷を負わせていないか心配になるの」
静香は姉の心配を理解していた。
「確かに、十歳の子供にしては大きな責任を背負っているかもしれない。でも、美月ちゃんは自分で選んだのよ。あなたの娘だもの、責任感の強さは遺伝ね」
香織は弱く微笑んだ。
「そうかもしれないわね。でも、もっと子供らしく過ごさせてあげたいわ」
「それなら、楽しいイベントを計画してみない? 美月ちゃんの好きなことをする日を作るの」
香織はその提案に目を輝かせた。
「いいわね。美月の『楽しい日』をプロジェクトとして計画しましょう」
二人はその晩、美月が好きそうな活動のリストを作った。動物園、水族館、遊園地、ピクニック、映画鑑賞、料理教室……様々なアイデアが出てきた。
翌朝、美月が朝食のテーブルに着くと、香織と静香が何やら内緒話をしているような様子だった。
「何の話してたの?」
美月が好奇心いっぱいに尋ねると、香織は微笑んで答えた。
「美月への特別なサプライズよ」
「サプライズ? 何?」
「教えたらサプライズじゃなくなっちゃうわ」
静香が茶目っ気たっぷりに答えた。
「でもね、これから数週間、週末ごとに特別な計画があるの」
「特別な計画?」
美月の目が期待で輝いた。
「そう。美月の『楽しい日』プロジェクトよ」
香織は嬉しそうに言った。
「今日は天気が良いから、ピクニックはどうかしら? 井の頭公園に行って」
「やったー!」
美月は飛び上がって喜んだ。
その日、三人は井の頭公園でピクニックを楽しんだ。静香が準備したサンドイッチとフルーツ、香織が前日に焼いたクッキーを持って行き、緑豊かな芝生の上でシートを広げた。
穏やかな秋の日差しの中、三人は食事をし、おしゃべりをし、時には公園内を散策した。香織はスケッチブックを持参し、美月と一緒に風景を描いた。静香はその様子を写真に収めながら、自分も時々絵を描く輪に加わった。
「ママ、この木の描き方教えて」
美月が大きな銀杏の木を指さすと、香織は優しく説明した。
「まず幹の形を捉えるのよ。そして、葉は一枚一枚描くのではなく、全体の印象を捉えるようにするといいわ」
香織は絵を描く時、言葉が流暢に出てきた。絵画に関しては、むしろ以前よりも豊かな表現ができるようになっていた。美月はその様子を嬉しそうに見つめていた。
「ママ、絵を描いてるときが一番幸せそう」
美月の素直な言葉に、香織は微笑んだ。
「そうかもしれないわね。絵を描いていると、時間も忘れて、ただその瞬間に集中できるの」
静香もその会話を聞きながら、姉の変化を観察していた。確かに、香織が絵を描いている時は、病気の症状がほとんど見られない。それは彼女にとって、単なる趣味ではなく、自己表現の重要な手段となっていた。
公園での一日は、三人にとって特別な時間となった。特に美月は、久しぶりに子供らしい無邪気な笑顔を見せていた。木々の間を駆け回り、池のカモにパンくずをあげ、時には母親と叔母を競争に誘うなど、活発に過ごした。
夕方、家に帰る途中、美月は両手を香織と静香に握られながら、満足げにつぶやいた。
「今日は最高の一日だった」
その言葉に、香織と静香は目を合わせて微笑んだ。
次の週末には、上野動物園に行った。美月が特に見たがっていたパンダを中心に、様々な動物たちを見て回った。香織はカメラを持参し、美月の喜ぶ姿を何枚も撮影した。静香がジャーナリストとして取材した海外の珍しい動物の話を聞きながら、三人は楽しい時間を過ごした。
その翌週は雨だったため、室内での活動に変更。三人で料理教室に参加し、本格的なイタリアン料理に挑戦した。香織は手順を忘れることもあったが、美月と静香のサポートで無事に美味しいパスタとティラミスを完成させた。
こうして「美月の楽しい日」プロジェクトは、毎週末の恒例行事となった。それは単に美月のためだけでなく、香織にとっても大切な時間だった。娘と過ごす充実した一日一日が、彼女の記憶に新たな彩りを加えていった。
ある日の夕方、美月が宿題をしている間、香織は自分の日記を書いていた。病気と診断されてから続けているこの習慣は、彼女にとって重要な記録となっていた。
「何を書いているの?」
静香が香織の隣に座って尋ねた。
「美月との思い出。特に、この『楽しい日』プロジェクトのことを」
香織は穏やかに答えた。
「彼女はとても喜んでくれているわね」
「ええ。そして私自身も。実は、この活動を始めてから、記憶の保持が少し良くなった気がするの」
香織の言葉に、静香は興味深く耳を傾けた。
「どういうこと?」
「強い感情を伴う出来事は、より鮮明に記憶に残るでしょう? 美月との特別な一日は、通常の日よりも印象が強いから、覚えていられるの」
それは香織が研究者として知っていた記憶のメカニズムだった。強い感情、特に喜びや幸福感を伴う経験は、脳内でより強く符号化される。
「それで毎週違うことをしているのね」
「そう。多様な経験が、多様な記憶の痕跡を残すから」
静香は姉の計画性に感心した。病気と闘いながらも、研究者としての知識を生かして自分自身の状態を管理している姿勢は、まさに香織らしかった。
十一月に入り、香織の状態には新たな変化が現れた。言葉を探すことが増え、時に簡単な日常的な決断にも迷うようになった。しかし、美月と過ごす時間だけは特別で、そこでは香織の笑顔と温かさが変わることなく続いていた。
ある土曜日、三人は東京国立博物館に出かけた。美月が学校の社会科で日本の歴史を学んでいることもあり、彼女自身がこの行き先を提案したのだ。
博物館の広い展示室を歩きながら、美月は学校で習ったことを二人に熱心に説明していた。
「この時代は縄文時代って言うんだよ。土器を使い始めた頃なんだって」
美月の解説に、香織と静香は感心して聞き入った。香織は時折、自分の知識を加えることもあったが、基本的には美月が案内役を務めていた。
古代の展示から中世、近代へと進むにつれ、美月の知識は時に限界を迎えることもあった。そんな時、静香がジャーナリストとしての幅広い知識で補足し、三人で学びを深めていった。
日本画のコーナーに着いたとき、香織は特に興味を示した。繊細な線と色彩で描かれた風景画や人物画に見入る彼女の姿を見て、美月が尋ねた。
「ママ、こういう絵も描いてみたいの?」
「そうね。日本画の技法は難しいけれど、いつか挑戦してみたいわ」
香織の答えに、美月は嬉しそうに頷いた。
「ママの絵、どんどん上手になってるもん。きっとこういうのも描けるよ」
美月の無邪気な自信に、香織は心から微笑んだ。
博物館を出た後、三人は近くのカフェで遅めの昼食を取った。テーブルに着くなり、香織が少し困った表情を見せた。
「何か飲み物を注文しようと思ったけど……あの、よく飲むもの……」
言葉が出てこない様子に、美月がさっと助け舟を出した。
「ママはいつもホットミルクティーだよね」
「そうだったわ。ありがとう、美月」
香織は感謝の笑顔を向けた。美月も自然に返して微笑み、何事もなかったかのように会話を続けた。
静香はその光景を見ながら、美月の成長に感動していた。彼女は母親の変化を受け入れ、さりげなくサポートする術を身につけていた。それは決して教えられたものではなく、愛情から生まれた自然な対応だった。
夕方、家に帰ってから、美月は今日見た展示について絵と文字で記録し始めた。それは彼女が最近始めた「思い出ノート」の一部だった。
「何してるの?」
静香が覗き込むと、美月は誇らしげにノートを見せた。
「私たちの思い出ノート。ママがいつか忘れちゃっても、このノートを見れば思い出せるように作ってるんだ」
そのノートには、日付と場所、そこで見たものや感じたこと、三人の様子などが丁寧に記録されていた。時には写真が貼られ、時には美月自身が描いたイラストが添えられている。
静香はその内容の詳細さと心遣いに、言葉を失った。十歳の少女が、こんなにも深い思いやりと計画性を持っているなんて。
「美月ちゃん、これ素晴らしいわ」
「ありがとう。でもまだ秘密にしておいて。ママの誕生日にプレゼントするつもりなんだ」
静香は約束するように頷いた。しかし心の中では、美月の行動が単なる子供の思いつきではなく、深い愛と理解から生まれていることに感動していた。
その日の就寝前、静香は香織と二人きりになって、美月のことを話した。
「美月ちゃん、本当に大きく成長したわね」
「ええ。時々驚くくらいよ」
香織は子供部屋の方を見やりながら言った。
「彼女の中に、大人の女性の芽生えを見るわ。思いやりに満ちて、責任感があって」
「あなたそっくりね」
静香の言葉に、香織は少し悲しげに微笑んだ。
「でも、私のようにはなってほしくないわ」
「どういうこと?」
「私は常に頭で考え過ぎていたの。感情よりも理論を優先し、人間関係よりも研究を大切にした。美月には、もっとバランスの取れた人生を送ってほしいわ」
静香は姉の言葉に深く考え込んだ。
「お姉ちゃんは素晴らしい研究者だったわ。そして、素晴らしい母親でもある」
「ありがとう。でも今思うのは、研究だけが人生ではなかったということ。もっと早く気づきたかったわ」
香織の言葉には後悔ではなく、静かな諦観があった。
「でも今、あなたは美月との時間を大切にしている。それこそが重要なことよ」
静香の言葉に、香織は深く頷いた。
週末の「美月の楽しい日」プロジェクトは続き、それは三人の生活に彩りと活力をもたらしていた。静香も仕事のスケジュールを調整して、できるだけ参加するようにしていた。
ある週末、三人は香織の提案で、昔よく行っていた江ノ島に日帰り旅行をした。電車に揺られる間、香織は窓の外の風景を眺めながら、懐かしさに浸っていた。
「美月が五歳の時も来たのよね」
香織が言うと、美月は驚いた顔をした。
「えっ、私、覚えてないよ」
「そうよね、小さかったもの。でも、あなたは砂浜で貝殻を集めて、『ママのための宝物』って言って、全部私にくれたのよ」
香織の目は、遠い記憶を見つめるように優しく輝いていた。
「本当に? そんなことあったんだ」
「ええ。その貝殻、今でも私の宝箱に取っておいてあるわ」
美月はその話を聞いて、嬉しそうに微笑んだ。
江ノ島に着くと、三人は海岸沿いを歩き、神社を参拝し、名物のしらす丼を楽しんだ。香織はスケッチブックを持参し、海の景色を描いた。美月も隣で一緒に描き、時には静香も加わった。
夕暮れ時、帰りの電車に乗る前、三人は海に沈む夕日を眺めていた。
「きれいね」
香織がつぶやいた。
「うん、とってもきれい」
美月が同意した。
「この景色、絶対に忘れないよ」
美月の言葉に、香織は娘の肩を抱いた。
「ありがとう、美月」
静香も二人の隣に立ち、この瞬間を心に刻んだ。三人の影が一つに重なり、夕日に照らされて長く伸びていた。
家に帰る電車の中、美月は疲れて香織の肩に寄りかかって眠ってしまった。香織は娘の寝顔を見つめながら、静かに静香に話しかけた。
「静香、あなたに感謝してもしきれないわ」
「何を言ってるの。家族でしょう?」
「それでも、あなたの人生を大きく変えてしまったわ。世界中を飛び回っていたジャーナリストが、こんな日常に縛られて……」
静香は姉の言葉を優しく遮った。
「お姉ちゃん、私は自分の意志でここにいるの。それに……」
彼女は窓の外を見やりながら続けた。
「私はずっと、どこか落ち着く場所を探していたの。世界中を旅しながらも、本当の居場所が欲しかった。今、ここにいることで、私はようやく本当の『家』を見つけた気がするわ」
香織は妹の言葉に深く感動した。
「私たちは互いに支え合っているのね」
「そう、三人で一つの家族よ」
静香が言うと、香織は美月の寝顔を見つめながら静かに頷いた。
三人の絆は、日々の困難の中でむしろ強くなっていた。それは砂時計の砂のように、上から下へと流れ落ちる記憶の中でも、確かに存在し続ける絆だった。
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