亡き二人のためのパヴァーヌ
夔之宮 師走
序
連絡先から削除することができず、かといって自分から電話をすることもできなかった番号の表示。俺は留守番電話サービスにつながる直前に電話に出る。会おうと言ってくれたその声は、十年以上前と何も変わらなかった。
新宿駅から真っ直ぐ西に向かって歩く。今日は地上を歩きたい気分だった。
新宿副都心建設計画に基づき建てられた歴史あるホテル。当時、世界一の高さを誇った超高層の姿は今も変わらず美しい。
指定されたラウンジに向かう。華美でもなく甘くもなく、だが普段着とは言い難いすっきりとしたワンピースを着た彼女は俺の記憶の中のどれよりも綺麗だった。
卓には珈琲。そして、バターと蜂蜜、アーモンドをふんだんに使った伝統ある焼き菓子。
卒業後にしばらく経ってから会った時に起きがちな、その後、どうだったという情報交換。俺の有様は十分に知られていた。誰からも表向きは同情されるが、裏では何を言われているかわかったものではない。彼女も同様に俺に何があったのかを知っていたが、他の連中とは違い、「お疲れ様」の一言で全てを洗い流してくれた。
「ヒデ君。部屋に行こう」
彼女の言葉に俺は既に絡めとられていたのかもしれない。促されるまま、41階に向かう。新宿を睥睨する眺望。プレミアグランスイートの贅沢な空間に俺は圧倒された。
シャワーを浴びてベッドで待っていると、バスローブだけを身に纏った彼女がやってくる。
ジャスミンとベルガモットの香りが届く。髪もろくに乾かしていない彼女は、ゆっくりと俺を押し倒し、胸元を
「ごめんね」
ぽつりと彼女の言葉が落ちてきた。
「でも、最初はヒデ君しかいないと思ったの。だから…ね。お願い」
俺の目の前で彼女の口が倍ほども開いて見えた。杭のように尖っていく犬歯。押さえつけられた両腕は微動だにしない。彼女の口が俺の胸にゆっくりと近づく。
俺は良いも悪いも考えられなくなっている。十数年ぶりに会った彼女。俺のこれまでを優しく認めてくれる彼女。俺の血を吸おうとしている彼女。
俺はその全てを受け入れられた。
彼女の牙が俺の胸に突き入れられる。吹き上がる俺の血。だが、俺は愉悦に浸っていた。一切の痛みはない。歓喜と悦びが脳を突き抜け、俺の四肢を焦がす。血を吸われることによる悦楽が脊髄を通って、脳と俺の四肢の末端まで伝わっていく。
俺の中から記憶と感情が流れ出ていく感触。俺の本音。俺の感情。自分自身で目を背けたくなるようなものまで全てが彼女の中に入っていく。
「飲んで」
彼女の声が遠く響く。頭の中の何重に靄がかかっており、理性的な考えが全くまとまらない。俺は心の奥底。本能からの声で答える。
「ありがとう」
俺の口内で歯が鋭く伸びるのを知覚した。彼女の血がそうさせている。魂で理解できる。
「最初の
俺は本能のまま彼女の首筋に牙を突き立てる。口内に溢れる血。一滴も逃すまいと俺の喉が動く。
俺の中に彼女の記憶と感情が流れ込んできた。目を背けたくなるような記憶も少なくない。だが、俺はその全てを受け入れられた。
朝だと思われるがカーテンが閉め切られており様子がわからない。一糸も纏わない彼女が俺に覆いかぶさってくる。彼女の乳房が俺の胸を優しく押してくる。
「おはよう」
「おはよう」
俺は彼女と朝の挨拶を交わす。彼女の唇が俺の唇を閉じさせる。
俺は覚醒し、布団やシーツの様子を確認するが、血の跡は一滴としてなく、純白が俺たちを覆っている。
彼女の笑顔が近い。学生の頃には見たことのない屈託のない笑顔だった。
「全部私の中。そしてヒデ君の中だよ」
俺は確信すると同時に自分に言い聞かせる。
俺の幸せは彼女の幸せだ。
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