1月31日3:35 那須高原

 吹き抜けから聖歌チャントが聞こえてくる。


 見張る者エグリゴリ達の声。人が出せる範囲を超えた高音と低音が入り混じっている。徐々にテンポが上がり、音量が大きくなっていく。

 何かを讃えているのか。何かを呼んでいるのか。


 ひときわ大きな合唱コーラル

 一瞬の静寂。

 その後、黒犬バスカヴィルの雄叫びが建物を貫く。見張る者エグリゴリ達からも悲鳴とも鬨の声ともとれる声が上がった。


 戦いが始まった。


 私は平山と阿蔵の前に立つ。平山の目の奥には正気の光があった。

 下の戦況が見えない中、あまり時間をかけてはいられない。私は平山の顔を覆うように手を広げ五本の指で頭を優しく包み掴んだ。


 私はゆっくりと丁寧に、優しく撫でるように能力ギフトを顕現させる。

 平山の目が見開かれる。阿蔵の腕を掴んでいる平山の手に力が入る。阿蔵はしっかりと両の腕で平山を抱きしめる。より強く。よりタイトに。


 平山の身体が小刻みに動き出した。震えているのだ。


 私の能力ギフト恐怖テラーという。


 恐怖がじわりじわりと頭に浸み込んでいく様が魂に直観されているのだろう。水に落としたインクのように、自分の魂がゆっくりと染まっていくのを理解しているはずだ。


 私は恐怖を操る。ただそれだけができる吸血鬼ヴァンパイア。それだけしかできない不死者ノスフェラトゥ

 根源的かつ究極の恐怖を司る。その名は「死」。


「阿蔵。これから先はあまり楽しいものではないぞ」

「大丈夫です」

 阿蔵の眼差しは真っ直ぐだ。良い目をするようになった。私は頷く。

 阿蔵に抱かれた平山は顔色を失っている。元より白い肌が抜けるようだ。平山の震えは今ではおこりのようになっている。口元から歯がかちかちと鳴る音が聞こえてくる。


 私は平山の頭から手を放し、スーツの上着を脱ぎながら二人に話しかける。

「私は取るに足らない吸血鬼ヴァンパイアだ。お前たちや多くの夜の者共のようにいくつもの能力ギフトを持っているわけではない」

 シャツの袖を捲る。

「私は霧にも獣にも姿を変えることができない。魅了チャーム支配ドミネーションも顕現させることができず、顕現体ファミリアーと云われる使い魔を出すことも使役することもできない」

 二人の前に座り込む。

「ただただ人の血を吸い。そして、ただただ長く生きてきただけの化け物だ。私は闇の口づけも与えたことがない。私のような者は私だけで十分だからだ」


 平山の目前に腕を出す。

「飲みたまえ」

 震える身体を支えながら平山が私を見る。

「先ほどで私の能力ギフトについてができただろう。私の血を飲み、私の与える恐怖テラーを自分のものとするんだ」

 なぜ。と平山が目で聞いてくる。

評議会カウンシルの連中には、この能力ギフトの顕現を獄鎖チェインズと説明している。相手を私の恐怖テラーで縛り、自由を奪う。と」

 

 突如として突風が部屋に吹き込み、部屋の入口にかかっているカーテンを乱す。階下から雷鳴のような轟音が聞こえてきた。魔獣ジェヴォーダンの参陣。


 「だが、正確に言うならば、獄鎖チェインズはせいぜい相手の能力ギフトの顕現を阻害するくらいのものだ。禁を破ると命を取るといったり、能力ギフトを完全に止めるといった高機能なものではない。それに、お前たちの意思を封じるような強制力のあるものでもない」

 平山と阿蔵は怪訝な顔になる。

「重要なのは私の獄鎖チェインズがあると、。下で起きている降臨の奇跡はお前の意思を超えているな」

 平山は素直に頷く。

獄鎖チェインズでお前たちを血統の支配から解放する。これ以上の奇跡の発生を止めるためだ」

 私は意図的に言葉を切った。一息の間。

「そして、今後お前たちに降りかかるであろう評議会カウンシルからの精神支配や精神汚染の一切を防ぐ」

 平山と阿蔵は目を見開く。


 阿蔵の腕を掴んでいる平山の手に私の手を重ねる。

「お前たちは多くを失った。失ったものが戻ってくることはない。そして、これからも多くのことを失い続け、心や尊厳が蹂躙されるだろう」

 手に力を込める。

「だが、お前たちがお前たちであり続けられることだけは私が約束しよう。お前たちの覚悟は必ず果たされる」

 二人が頷いた。

「私は取るに足らない化け物だ」

 私の腕を平山が掴む。

「だが、私を超える恐怖はない」

 平山が私の腕に牙を突き立てる。ずぶりと沈んだ牙が腕の血管を切り開き、血が溢れ出る。平山が私の血を飲むと、平山の魂に私の血が絡みついてく。平山には私からの幻視ヴィジョンが流れ込んでいるだろう。

 昔、巽が言っていた。私の血を飲むと、何処までも続く荒野が見えるのだそうだ。それは吸血鬼ヴァンパイア達が持つ原風景ではない。それは最初の生。私の記憶だ。


 私は平山の肩をはだけさせ、首元に牙を突き入れる。流れ込んでくる平山の感情と記憶。血の交換。魂の交歓。相互に流れ込む互いの感情と過去の記憶。

 私の腕から口を離した平山から吐息が漏れた。平山はそのまま眠りにつく。


 私はシャツを整え、上着を着る。

 聖歌チャントはもう聞こえない。


 無言で平山を抱きしめている阿蔵を残し、階段に向かう。

 

 吹き抜けを見下ろすと、三階付近に浮遊している見張る者エグリゴリが見えた。球形の身体に六対の翼。身体と翼に数えきれないほどの目があり、ぎょろぎょろと辺りを睥睨している、頭上には光輪が浮いていた。

 聖なる異形。神性を注入された無垢なる怪物。

 目と目の隙間にはいくつもの割れ目があり、その奥に歯が並んでいるのが見えた。唇の無い口なのだ。

 

 一階の喧騒は落ち着いている。あらかた片付いているようだ。

 私は躊躇なく吹き抜けから飛び降りる。異形の上に浮かぶ光輪の間を抜け、見張る者エグリゴリの上に立った。芯にがっしりとした筋肉あるいは骨格がある感触があるが、足元の肌はぶよぶよとした柔らかさがあり、生ごみの上に立ったかのような不快感を覚えた。

 身体と翼についている目が一斉に私を捉える。足元でスイカほどの大きさの角膜が動き、視線が合った。


 私は姿勢を定め、見張る者エグリゴリの頭頂に全力で右の突きを放った。何の躊躇もない。相手を瞬時に灰に還すつもりの一撃。だが、その拳は見張る者エグリゴリの身体には届かず、不可視の壁に阻まれた。

 刹那の後に来る衝撃。行き場を失った拳圧がそのまま私に戻ってくる。私の右手は一瞬にして赤い霧と化し、肉やら骨やらの破片が背後に飛び散る。衝撃は浄闇ノクスの耐圧限界を優に超えており、スーツの右肩から先はぼろぼろに消し飛んだ。割と気に入っていたのに残念だ。


 飛び退こうとする私よりも数瞬だけ早く見張る者エグリゴリの口内から伸びた触手が私に絡みつき、妙に整った歯の間に私を引きずり込む。

 左手一本では触手を剥ぎとることも、歯を折ることも容易ではない。瞬時に閉じられた歯と歯が合わさり、腰と背の骨が粉々になる音を聞いた。

 スーツが耐圧性能を最大限に発揮したおかげで私の身体は食いちぎられることなく、吐き出された。腰から下がそっぽを向いており、足に力が全く入らない。


 私の身体は一階まで落ち、どさりと重い音を立てた。

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