十二日 #色水

 父に言われたヤヨイは、家の裏手にある井戸から水をくんだ。手にかかった水はひやりと冷たく、汗をひかせる。桶にはられた水に映るのは渋い顔だ。

 もう一度、井戸を覗きこむと、水面が揺めきが見えた。川は渇れたのに、里にある井戸はみな潤っている。山にある池も神獣が泳げるぐらいだ。

 干した布は等しく乾くのに、同じ地面から湧き出る川と井戸と池は違うことが納得できない。

 蝉の声にせっつかれ、家に戻る途中、見慣れない人が里を歩く姿が目に入った。遠目ではあるが、自信のあったヤヨイは開けっぱなしの戸を過ぎて、作業場にいる父に寄る。


「父上、知らない人がいる」


 娘の指差す方を見やった父は、彼らの足が向かう先を察して安心させるように笑む。


「神社に向かうんだろうよ。そろそろだと思っていた」

「そろそろって?」

「うちの里の川であれなんだ。しもの方にある村も困っているに違いない。理由を訊ねに来たのさ」


 いつも通りの穏やかな言音は、娘を安心させるのに十分ではなかった。

 大巫女に祠にあった足跡を口外することを禁じられていたヤヨイは、唇を噛み締める。


「……理由なんて、誰もわからないのでしょう?」


 耐えるように拳を握りしめるヤヨイから、桶を取った父はそうだなぁと間を取った。色粉に水を入れ、名状しがたい色に染まった柄杓ひしゃくでかき混ぜる。まだ外を見つめる娘に布を取るように言って濃い色の液にひたした。

 今日は、輝いた目で覗きこむ娘がいない。

 執拗に旅人を目で追うヤヨイは、父の苦笑を見落とした。


「私達にできることは限られている」


 ヤヨイは、言葉の力に引き寄せられて振り返り、腰をかがめる父を見下ろした。

 兄と同じ目元なのに、父のそれは夜を見定める梟のようだ。声の調子は、作業の合間に聞かせる昔語りの始まりに似ている。


「与えられる日々に感謝して、出来ることを精一杯やるだけだ」

「出来ることって?」

「今は、もう一杯の水が必要だな」


 父に頼まれたことを思い出したヤヨイは、慌てて桶を抱えて井戸に引き返した。

 次の色の準備にかかった父は、ふと空を見上げる。

 家の裏に迫る森は重い風にゆすられて、ざわついていた。空は固まったように暗い雲が動かない。井戸の水をくみ上げる娘まで飲み込みそうな勢いで、小さな稲光がかいま見える。


「巡業が早まるかもしれないね」


 ぽつりと落ちた予感は、先を見通しているようだった。



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