## パート6: 失われた母

「これが、ドクター・リンが組み込んだ安全プロトコルだ」エリオットは制御パネルのディスプレイを指さした。「彼女は『量子ゲート』の起動プロセスを修正し、追加の検証ステップを加えた」


彼らは数時間かけて『原初区画』の制御システムを分析し、その機能と安全メカニズムを理解しようとしていた。


「彼女はゲートを完全に無効化したわけではない」セバスチャンは観察した。「むしろ、より慎重な起動手順を確立したようだ」


「お母さんは何を恐れていたの?」マヤは静かに尋ねた。彼女は母親について、そして彼女の動機について、もっと知りたいと思っていた。


「それを知るには、彼女の研究をより詳しく調べる必要がある」リアは言った。「彼女の個人的な記録や、彼女が残した他の痕跡を」


「彼女が最後に確認された場所は、この『原初区画』だった」エリオットは思い出した。「記憶残響室の映像では、彼女がここで安全プロトコルを組み込んだ後、ドミニクと衝突した」


「彼女は逃げたのか、それとも…」セバスチャンは言葉を濁した。


「彼女は生きている」マヤは強く主張した。「感じることができる」


リアは妹の肩に手を置いた。「彼女の痕跡を探しましょう。彼女がここに残したものを」


彼らは『原初区画』をより詳細に調査し始めた。中央の『量子ゲート』装置の周囲には、複数の小さな部屋があり、それらは研究室や制御室として使われていたようだった。


一つの部屋に入ると、それは明らかに個人的な研究スペースだった。壁には手書きのメモが貼られ、棚には古い装置と書類が並んでいた。部屋の中央には小さな作業台があり、その上にはいくつかの装置が置かれていた。


「これはドクター・リンの研究室かもしれない」エリオットは部屋を見回した。


リアとマヤは同時に、部屋の特別な雰囲気を感じた。ここには、彼らの母の存在が残っていた。


マヤがペンダントを取り出すと、それが微かに光り始めた。彼女がペンダントを部屋の中で動かすと、特定の場所で光が強まった。それは作業台の下の床だった。


「ここに何かある」マヤは床を指さした。


彼らが床を調べると、隠されたコンパートメントを発見した。中には小さな金属ボックスがあり、その表面には複雑な鍵穴があった。


「ペンダントを試してみて」リアは提案した。


マヤがペンダントを鍵穴に近づけると、ぴったりと合った。彼女がペンダントを回すと、ボックスが開き、中から数枚のデータディスクと手書きのノート、そして小さな写真が現れた。


マヤは写真を手に取った。それは若いドクター・リンが赤ん坊を抱いている写真だった。赤ん坊—マヤ—は眠っており、ドクター・リンの表情には深い愛情が表れていた。


「お母さん…」マヤは涙を浮かべながら写真を見つめた。


リアも感動して写真を見た。これは彼女が決して経験しなかった瞬間—母親に抱かれる瞬間—の記録だった。彼女は複雑な感情を感じた。羨望と喪失感、そして不思議な平和の感覚。


エリオットがデータディスクを取り、持参した装置に挿入した。画面にドクター・リンの研究記録が表示された。


「これは彼女の個人的な研究日誌だ」エリオットは説明した。「『波動適応』プロジェクトと『量子ゲート』に関する彼女の発見が記録されている」


彼らは記録を読み始めた。ドクター・リンは『波動適応』プロジェクトの進展と、被験者たちの状態を詳細に記録していた。特に、「LN-7」—リア—の進捗に多くのページが割かれていた。


「彼女はあなたの発達を細かく記録していた」エリオットはリアに言った。「彼女はあなたの能力の可能性に驚いていたようだ」


リアは複雑な感情を抱きながら記録を読んだ。彼女は実験体として記録されていたが、ドクター・リンの記述には冷たい科学的観察だけでなく、ある種の温かさも感じられた。


記録は続き、ドクター・リンが「外部環境モニタリングシステム」からの異常なデータに気づき始めた時点に達した。


「2105年6月12日」エリオットは読み上げた。「外部環境データに異常なパターンを発見した。放射線レベルの周期的な変動が、自然現象では説明できない規則性を示している。これは人為的な干渉を示唆している」


「2105年6月15日」彼は続けた。「さらなる分析により、信号のようなパターンを特定した。これは偶然ではない。誰か、あるいは何かが、外部から接触を試みている可能性がある」


「2105年6月20日」彼はさらに読み進めた。「信号パターンの解読に成功した。それは確かにメッセージだ。しかし、その内容は…不穏だ。『準備完了。受け入れ待機中』という文言が繰り返されている」


「2105年6月25日」エリオットの声が緊張を帯びた。「より詳細な分析により、この信号が他の避難所からのものではないことが確認された。信号の特性は、我々の知る技術とは根本的に異なる。私は恐ろしい可能性を考え始めている—これは地球外からの信号かもしれない」


全員が驚きの表情を見せた。


「地球外?」マヤは信じられない様子で言った。「宇宙人?」


「それとも、何か別のもの」セバスチャンは思案した。


エリオットは読み続けた。


「2105年7月2日」彼の声は静かになった。「私の懸念をドミニク・ヴェイルに報告したが、彼は驚くべき反応を示した。彼は既にこの信号の存在を知っており、むしろそれを歓迎しているようだった。彼は『量子ゲート』の起動準備を加速するよう命じた。私は彼の真の意図を疑い始めている」


「2105年7月10日」彼は続けた。「秘密裏に調査を続けた結果、衝撃的な事実を発見した。ドミニクは過去数年間、この信号の送信元と何らかの形で『交信』していたようだ。彼は『量子ゲート』を通じて、未知の存在を受け入れる計画を立てている。彼はこれを人類の救済と呼んでいるが、私は深い不安を感じる」


「2105年7月15日」エリオットの声が震えた。「今日、私は決断した。マヤを連れて逃げ、『鍵』を隠す。そして、『量子ゲート』に追加の安全プロトコルを組み込む。ドミニクは私を止めようとするだろうが、私は人類の安全のためにこれをしなければならない」


「最後のエントリーだ」エリオットは静かに言った。「2105年7月20日。もし誰かがこの記録を見つけたなら、警告する。『量子ゲート』を開いてはならない。少なくとも、完全な検証なしには。外部からの信号の送信元は友好的ではない可能性がある。彼らが何者であれ、彼らの真の意図は明らかではない。私はマヤを安全な場所に託し、『原初区画』に戻り、最後の防衛線を確立する。成功すれば、また娘に会えるだろう。失敗すれば…この記録が警告として残ることを願う」


沈黙が部屋を満たした。彼らは皆、ドクター・リンの最後の言葉の重みを感じていた。


「お母さんは…自分の命を危険にさらして、私たちを守ったのね」リアは静かに言った。


「そして、人類全体を」エリオットは付け加えた。


マヤは写真を胸に抱き、涙を流した。「彼女は戻ってくると約束した。でも…」


「彼女はどこに行ったのだろう?」セバスチャンは思案した。「最後の防衛線を確立した後、彼女はどうなったのか?」


リアは手書きのノートを取り、ページをめくり始めた。それはドクター・リンの個人的な日記のようで、彼女の研究だけでなく、感情や思いも記録されていた。


「彼女はマヤについてたくさん書いている」リアは感動して言った。「彼女がどれだけマヤを愛していたか…」


彼女はさらにページをめくり、突然立ち止まった。「これは…」


「何?」マヤが近づいた。


「私についても書いている」リアは驚いて言った。「『LN-7—リア—は特別だ。彼女は単なる実験体ではない。彼女は私の遺伝子を持ち、ある意味で私の娘だ。彼女を連れ出せないことが、私の最大の後悔だ』」


リアの目に涙が浮かんだ。「彼女は私のことも…」


マヤは姉の手を握った。「私たちは姉妹。そして、お母さんは私たちを愛していた」


リアは頷き、さらに読み進めた。最後のページに、彼女は重要な情報を発見した。


「『最後の防衛線として、私は自分自身を『量子ゲート』のシステムに統合する。私の意識を量子波動パターンとして保存し、ゲートの不正な起動を防ぐ最終防壁とする。これは危険な実験だが、他に選択肢はない。成功すれば、私はある形で存在し続け、いつかマヤとリアに再会できるかもしれない』」


リアは驚きと希望が入り混じった表情で顔を上げた。「彼女は…生きているかもしれない。ある形で」


「意識を量子波動パターンとして保存?」エリオットは科学者として驚きを隠せなかった。「理論上は可能だが、実際に成功した例は…」


「『波動適応』プロジェクトの究極の応用だ」セバスチャンは理解した。「人間の意識と量子波動の完全な統合」


マヤは希望に満ちた表情で立ち上がった。「お母さんに会える?」


「もし彼女が本当に『量子ゲート』のシステムに統合されているなら」リアは考えた。「私たちの能力を使えば、彼女と接触できるかもしれない」


彼らは研究室を出て、中央の『量子ゲート』装置に戻った。リアとマヤは装置の前に立ち、互いの手を取った。


「準備はいい?」リアはマヤに尋ねた。


マヤは頷き、ペンダントを前に掲げた。「お母さん…私たちはここにいるよ」


二人は目を閉じ、能力を発動させた。リアの左手から青白い光が、マヤの手から紫色の光が放たれ、二つの光が螺旋状のパターンを形成した。光のパターンが『量子ゲート』装置に向かって広がり、装置のリングが微かに輝き始めた。


最初は何も起こらなかったが、徐々に、リングの内部に霧のような形が現れ始めた。それは徐々に人の形に凝縮し、ついにドクター・リンの姿が浮かび上がった。彼女の姿は半透明で、青白い光に包まれていた。


「マヤ…リア…」彼女の声は遠く、エコーがかかったように聞こえた。


「お母さん!」マヤは涙を流しながら叫んだ。


「ドクター・リン…」リアも感動して言った。


ドクター・リンの霧のような姿は微笑んだ。「あなたたちが来ると知っていた。二人とも成長して…」


「あなたは本当に…」エリオットは驚きを隠せなかった。


「生きている?死んでいる?」ドクター・リンの声には皮肉な調子があった。「私は量子状態にある。存在と非存在の間」


「どうやって…」セバスチャンは科学的好奇心を抑えきれなかった。


「時間がない」ドクター・リンは言った。「私の状態は不安定だ。あなたたちに警告しなければならない」


彼女の姿が一瞬揺らいだ後、再び安定した。


「外部からの信号は、地球外生命体からのものだ」彼女は続けた。「彼らは『量子ゲート』を通じて私たちの世界に入ろうとしている。彼らの真の意図は明らかではないが、ドミニクは彼らと接触し、取引をした」


「取引?」リアは驚いて尋ねた。


「彼らは高度な技術と知識を提供する代わりに、私たちの世界への門を開くよう要求した」ドクター・リンは説明した。「ドミニクは彼らを人類の救世主と見なしたが、私は彼らの真の意図を疑った」


「あなたは彼らを止めるために、自分を犠牲にした」エリオットは理解した。


ドクター・リンは頷いた。「私は『量子ゲート』に最終的な安全プロトコルを組み込んだ。ゲートは開くことができるが、私の承認なしには完全な通過はできない」


「でも、なぜドミニクはそれほどまでに彼らを信じたの?」マヤが尋ねた。


「彼は彼らの約束—進んだ医療技術、無限のエネルギー、外部環境の浄化—に魅了された」ドクター・リンは悲しげに言った。「特に、彼の家族を救う可能性に」


「彼の家族?」リアは混乱した。「彼らは事故で…」


「その事故は、初期の『量子ゲート』実験中に起きた」ドクター・リンは説明した。「彼の家族は死んでいない。彼らは量子状態に捕らわれている。ドミニクは彼らを救うために、何でもする覚悟だった」


この新たな情報に、全員が驚きの表情を見せた。ドミニクの行動に、新たな理解の光が当てられた。


「しかし、あなたは彼らを信じなかった」リアは言った。


「彼らは情報を隠していた」ドクター・リンは答えた。「彼らの通信には隠されたデータストリームがあり、それは彼らの真の計画を示唆していた。彼らは『探検』や『交流』のためではなく、『征服』のために来ようとしていた」


彼女の姿が再び揺らぎ、彼女は苦しそうな表情を見せた。


「時間が少ない」彼女は急いで言った。「あなたたちは決断しなければならない。『量子ゲート』を完全に封印するか、あるいは…」


「あるいは?」リアは促した。


「あるいは、正しい目的のためにそれを使うか」ドクター・リンは言った。「外部世界は回復しつつある。他の避難所も存在するかもしれない。『量子ゲート』は探索と接触のための貴重なツールだ。しかし、それは危険も伴う」


「どうすればいいの?」マヤは困惑した様子で尋ねた。


「それはあなたたち次第だ」ドクター・リンは優しく言った。「私はただ、あなたたちに選択肢を与えたかった。ドミニクのように、あなたたちから選択の自由を奪いたくなかった」


彼女の姿がさらに薄くなり始めた。


「お母さん、行かないで!」マヤは叫んだ。


「私はいつもここにいる」ドクター・リンは微笑んだ。「『量子ゲート』の一部として。そして、あなたたちの心の中に」


彼女はリアを見つめた。「リア、あなたは私の最初の娘。あなたを連れ出せなかったことを、いつも後悔していた」


リアの目から涙があふれた。「あなたは…私を愛していた?」


「もちろん」ドクター・リンの声は優しかった。「あなたは実験体ではなく、私の娘。あなたとマヤは姉妹。そして、あなたたち二人は特別な運命を持っている」


彼女の姿が更に薄くなり、ほとんど見えなくなった。


「私の時間が尽きる」彼女は言った。「最後に一つ。『鍵』—マヤのペンダント—には、まだ明らかになっていない機能がある。それは『量子ゲート』の制御だけでなく、『原初区画』の最深部へのアクセスも提供する。そこには、コンプレックスの真の目的に関する最後の秘密がある」


「最深部?」エリオットは周囲を見回した。「ここより更に深い場所があるのか?」


「探しなさい」ドクター・リンの声はほとんど聞こえないほど弱くなった。「あなたたちなら見つけられる」


彼女の姿は完全に消え、リングは再び空になった。リアとマヤは疲れ切って膝をつき、互いを支え合った。


「お母さん…」マヤは涙を流した。


リアは妹を抱きしめ、自分も涙を抑えることができなかった。彼女はついに母親に会い、そして彼女が愛されていたことを知った。それは彼女の心に深い癒しをもたらした。


「彼女は勇敢だった」エリオットは静かに言った。「そして、彼女は正しかった」


「最深部…」セバスチャンは思案した。「『原初区画』の更に下に何があるのだろう?」


リアは立ち上がり、決意を固めた。「見つけましょう。ドクター・リン—私たちの母—が残した最後の秘密を」


マヤもペンダントを握りしめ、立ち上がった。「お母さんの言った通り、ペンダントが鍵になるはず」


彼らは『原初区画』をより詳細に調査し始めた。マヤはペンダントを様々な場所に近づけ、何らかの反応を探した。


「ここには何もないようだ」セバスチャンは言った。「もし更に深い場所があるなら、入口は隠されているはずだ」


「あるいは」エリオットが思いついた。「入口は物理的なものではないかもしれない」


「どういう意味?」リアは尋ねた。


「『量子ゲート』自体が入口かもしれない」エリオットは説明した。「別の場所への門として機能するなら、『原初区画』の最深部への門としても機能するかもしれない」


リアとマヤは互いを見つめ、理解した。彼らは再び『量子ゲート』の前に立ち、マヤがペンダントを掲げた。


「どうすれば…」マヤは迷っていた。


「直感を信じて」リアは優しく言った。「あなたはドクター・リンの娘。彼女の血を引いている」


マヤは目を閉じ、集中した。ペンダントが輝き始め、『量子ゲート』のリングも反応して光り始めた。しかし、リングの内部に現れたのは、外部世界への通路ではなく、下方への螺旋状の光の道だった。


「成功した」エリオットは驚いて言った。


「これが『原初区画』の最深部への入口」セバスチャンは確認した。


彼らは光の道を見つめ、次の一歩を考えた。


「行きましょう」リアは決意を込めて言った。「最後の秘密を見つけるために」


彼らは光の道に足を踏み入れ、『原初区画』の最深部へと向かった。ドクター・リンの最後の遺産が、彼らを待っていた。

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