## パート2: 日常の裂け目

午後、上層と中層を結ぶ高速エレベーターの中で、リアは自分の疲れた姿を鏡面の壁に映した。研究所での長時間の作業の後、彼女の目には微かな疲労の影が宿っていた。しかし、これから向かう場所を思うと、自然と唇が緩んだ。


エレベーターが減速し始め、「中層到着」という機械的な女性の声がアナウンスされた。扉が開くと、上層とは全く異なる世界が広がっていた。上層の洗練された静寂とは対照的に、中層は活気と喧騒に満ちていた。


リアは慣れた足取りで人混みを抜けていった。中層の通路は上層より天井が低く、照明も少し暗めだったが、その分だけ人間的な温かみがあった。壁には手描きのアートや公共掲示板があり、様々な通知や個人的なメッセージで埋め尽くされていた。通路の両側には小さな店舗が並び、食べ物の香りや会話の声、時折聞こえる笑い声が空間を満たしていた。


「ノヴァク先生!」


振り返ると、小さな少女が手を振っていた。ジェニー、リアが教えている子供たちの一人だ。彼女の隣には母親らしき女性が立ち、リアに微笑みかけた。


「こんにちは、ジェニー」リアは心から笑顔で応えた。「今日も教室に来るの?」


「はい!新しい実験をするって聞きました!」少女の目は期待に輝いていた。


リアは頷いた。「そうよ。今日は光の不思議について学ぶわ」


ジェニーの母親が感謝の意を込めて頭を下げた。「いつもありがとうございます。上層の方が、こうして時間を割いてくださるなんて」


「どういたしまして」リアは軽く手を振った。「子供たちに科学の楽しさを教えるのは私の喜びですから」


別れの挨拶を交わし、リアは教育センターへの道を急いだ。彼女が週に二回行っているボランティア活動は、研究生活の中で最も充実した時間だった。上層の研究者が中層の子供たちに科学を教えるというのは珍しいことだったが、リアにとっては欠かせない習慣となっていた。


教育センターは中層の居住区と商業区の境界に位置していた。かつての貯蔵施設を改装した建物で、外観は簡素だったが、内部は驚くほど明るく機能的だった。リアが到着すると、すでに十数人の子供たちが待っていた。年齢は8歳から12歳ほどで、好奇心に満ちた目でリアを見つめていた。


「こんにちは、みんな」リアは声をかけた。「今日は光の粒子と波の二重性について学びましょう」


子供たちからの元気な返事に、リアは心が温かくなるのを感じた。彼女は準備していた実験キットを広げ始めた。プリズム、レーザーポインター、回折格子、そして自作の簡易干渉計。上層の最先端研究設備と比べれば素朴なものだったが、科学の基本原理を教えるには十分だった。


実験が始まり、子供たちの驚きの声が教室に響く中、リアはふと教室の隅に座る少女に目が留まった。彼女は以前には見かけなかった子供で、年齢は10歳ほど。黒い巻き髪と異常に鮮やかな紫色の瞳が印象的だった。少女は他の子供たちよりも静かに、しかし強い集中力で実験を見つめていた。


リアは説明を続けながらも、何度かその少女の方を見た。彼女の中に、何か引き寄せられるような感覚があった。不思議な既視感、あるいは…懐かしさ?


「光は波であり、同時に粒子でもあります」リアは説明した。「私たちの目には見えないけれど、光は常に周りの物と相互作用しています。時には波のように、時には粒のように振る舞うんです」


「でも、どうして両方になれるんですか?」年長の少年が手を挙げて質問した。「同時に二つの違うものになるなんて変じゃないですか?」


リアは微笑んだ。「良い質問ね。実は科学者たちも長い間その謎に悩まされてきたの。私たちの日常の感覚では理解しにくいけれど、量子の世界ではそういうことが起こるんです。矛盾しているように見えても、それが自然の真の姿なのかもしれない」


説明を続けながら、リアは再び紫色の瞳の少女を見た。少女は今、彼女をじっと見つめ返していた。その瞳には、他の子供たちとは違う何かがあった。理解、あるいは共感とでも言うべきものが。


突然、鋭い痛みがリアの頭を貫いた。目の前がちらつき、教室の風景が一瞬歪んだ。


_—白い部屋。明るすぎる光。冷たい金属のテーブル。小さな手。泣き声。_


「先生?大丈夫ですか?」


ジェニーの声でリアは現実に引き戻された。彼女は机の端を掴んで体を支え、額に浮かんだ冷や汗を感じた。


「ええ、大丈夫よ」リアは微笑もうと努めた。「ちょっと頭痛がしただけ」


子供たちは心配そうに彼女を見つめていた。リアは深呼吸をして体を落ち着かせた。これは初めてのことではなかった。こうした断片的な記憶—あるいは幻覚—は時々彼女を襲った。特に疲れているときや、強いストレスを感じているときに。


「さあ、実験を続けましょう」彼女は明るく言った。


授業は無事に終了し、子供たちは次々と帰っていった。リアは片付けをしながら、先ほどの紫色の瞳の少女を探したが、彼女の姿はもうなかった。誰の子供だったのだろう?名前を聞くのを忘れてしまった。


教育センターを出ると、中層はすでに人工夕暮れの時間に入っていた。コンプレックスの環境制御システムは、居住者の生体リズムを維持するため、自然の日照サイクルを模倣していた。上層では明るい照明が維持されていることが多かったが、中層では日没と日の出が忠実に再現されていた。


帰路につきながら、リアは先ほどの記憶の断片について考えた。白い部屋、明るい光、冷たい金属のテーブル。それは病院の記憶だろうか?それとも別の何か?彼女の幼少期の記憶は断片的で、親についての明確な記憶もなかった。テクノクラート連合の養育施設で育ったという記録はあったが、その詳細はぼんやりとしていた。


中層から上層へのエレベーターに乗り込むと、リアは静かに溜息をついた。エレベーターが上昇するにつれ、彼女の心も沈んでいった。研究所での充実した知的活動と、中層での温かな人間関係。その両方が彼女の生活の一部だったが、どちらにも完全には属していないような感覚が常にあった。


上層に到着し、リアは自分のアパートメントへと向かった。テクノクラート連合の研究者用住居は、機能的で広々としていた。彼女の部屋からは、コンプレックスの中央コアを見下ろす素晴らしい眺めがあった。


部屋に入ると、自動的に照明が点灯し、環境制御システムが彼女の好みの温度と湿度に調整された。リアはまず小さな植物園のような一角に向かい、様々な植物に水をやった。緑の植物たちは、無機質な部屋に生命の息吹を与えていた。


夕食は簡素だった。上層の食料供給システムは効率的で栄養価の高い食事を提供したが、中層の食べ物のような風味や多様性には欠けていた。食事を終えると、リアは窓際に置かれた古いピアノの前に座った。これは彼女の数少ない贅沢品の一つで、何世代も前の本物の木材とアイボリーで作られていた。


指が鍵盤に触れると、ショパンのノクターンの旋律が部屋に満ちた。リアは目を閉じ、音楽に身を委ねた。演奏しているとき、彼女の中の矛盾や疑問、不安が一時的に解消されるような気がした。


しかし今夜は、音楽でさえも彼女の心を完全に鎮めることはできなかった。セバスチャンの言葉、境界実験室での異常現象、紫色の瞳の少女、そして断片的な記憶—それらが彼女の心の中で絡み合っていた。


演奏を終えると、リアは窓際に立ち、コンプレックスの夜景を眺めた。上層の明るい灯り、中層の温かな光、そして遠く下方に見える下層の薄暗い区画。そして、その向こうにある地下区画—ほとんど知られていない、謎に包まれた領域。


彼女の視線は、量子揺らぎ区画の方向に向けられた。肉眼では見えなかったが、彼女は何かを感じることができた。微かな引力、呼びかけ。


「行くべきかな…」彼女は窓ガラスに映る自分の姿に問いかけた。


長い沈黙の後、リアは決断した。彼女はデスクに向かい、境界実験室への立ち入り許可申請を作成し始めた。セバスチャンの推薦があれば、許可は下りるはずだ。そして、もしそこに彼女の疑問への答えがあるなら…


申請を送信すると、リアは深く息を吐き出した。これが正しい決断なのか、それとも彼女の注意深く構築してきた生活を壊す過ちなのか、わからなかった。ただ、この選択が彼女を何か大きなものへと導くという予感だけがあった。


彼女は再び窓の外を見た。アルファ・コンプレックスの夜景の中で、量子揺らぎ区画の方向だけが、わずかに異なる光で瞬いているように見えた。あるいは、それは彼女の想像かもしれない。あるいは、彼女の「特別な知覚」かもしれない。


いずれにせよ、明日、彼女は一歩を踏み出すことになる。未知への、そして恐らくは自分自身の過去への一歩を。

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