婚約破棄された鉄面皮の調香師は、猟犬騎士に溺愛される
佐藤純
第1話プリマヴェーラの夜の事件
「バーベナ・ド・マルヴァーニャ!私はお前との婚約を破棄する!」
その瞬間、煌びやかな音楽が止まり、舞踏会場の空気が凍りついた。まるで時が止まったかのような静寂が広がる中、ハミルトン帝国の王子エリック・チャールズ・ハミルトンは、中央の舞台で堂々と声を張り上げていた。ハミルトン帝国を象徴する白と深紅の衣装に身を包みながら、その瞳には決意と少しばかりの高揚感が宿っている。
対するバーベナ・ド・マルヴァーニャ侯爵令嬢は、その場で微動だにせず立っていた。彼女は長いアッシュブラウンの髪を上品に結い上げ、エリックと合わせた白と深紅のドレスを纏っている。その表情は冷たく、まるで石像のように感情を表に出さない。だが、心の中はそうではない。
(殿下?!プリマヴェーラでなんてことをおっしゃっていますの?)
バーベナは心の中でうっすらと怒りを覚えていた。
(今日、この日のために、わたくしがどれだけ準備をしたか!エリック様のなけなしのご威光に傷がつかないように、陛下からも念を押され!完璧に仕上げたと思っていたのに!)
きっと、バーベナの表情が常人のように動いていたら、唇がわなわなと震えていただろう。バーベナはかわりに僅かに首を傾げ、困惑の表情を浮かべるような仕草を見せた。もっとも、それはバーベナなりの最大限の反応だったが。
プリマヴェーラ─それは、ハミルトン帝国の王城で年に四度行われる季節の舞踏会のうちの一つであり、春の訪れを祝う華やかな祭典だ。この舞踏会は、次代を担う若き貴族たちが主役となり、社交界への一歩を踏み出すための重要な場でもある。そして、そのプリマヴェーラの主催者は、この国の次代を担う王子の役目だった。
ハミルトン帝国は古き歴史を持つ大国であり、周辺諸国からも一目置かれる存在だ。広大な領土と豊かな資源を誇り、国内には数多の貴族家門がひしめいている。侯爵家であるマルヴァーニャ家も、その中で重要な役割を担う家系だ。バーベナは帝国の信頼を受けるマルヴァーニャ家の令嬢として、王子妃候補を探していた王室の目に留まり、幼い頃から厳格な教育のもと、ふさわしい知性と品格を身につけてきた。
「エリック様、どういうことでしょうか?」
バーベナは身につけた品性をフル活用し、自前の扇子で口元を隠しながら、静かな声で問いかける。その声からは驚きも怒りも感じられない。しかし、バーベナの心の中は、自分の努力が、本人の手によって無に帰しそうになっていることに虚無感でいっぱいだ。
「どういうことも何も、言葉通りだ!バーベナ、そなたが社交界でどのようなあだながついているか知っているか?『鉄面皮の侯爵令嬢』、『表情筋が死んでいる』とも『氷の魔女』とも言われている!そなたと過ごす淡々とした時間。私にはあのお茶会が苦痛で仕方なかった。」
(…表情筋が死んでいる、はちょっと面白いですわね。)
バーベナは、表情が動かなくなってしまったことと、その完璧さが仇となり、一部の貴族の間で自分が「鉄面皮」と揶揄される存在になってしまったことは知っていた。表情を表に出さない、いや、出せない彼女の姿勢は、冷徹な人間だという誤解を招き、特にエリックにとっては耐えがたいものだったのだろう。だが、本当は心の中では感情豊かな方だと思っている。
「私はこのマリーナ男爵令嬢と愛し合っている!」
エリックはバーベナの返答をまたず、興奮しているのか少し紅潮した頬で舞台脇に立つ女性へ視線を送り、彼女を舞台中央へと招いた。その女性─マリーナ男爵令嬢は、甘い砂糖菓子のようなふんわりとしたドレスを纏い、可愛らしい微笑みを浮かべている。
登場した男爵令嬢に、あっけにとられていた貴族たちも、ようやく声を出し始める。
「マリーナ・デ・ローザリア男爵令嬢?」
「なぜ男爵令嬢がここに?」
「まさか、王子殿下が男爵令嬢を?身分違いもはなはだしいのでは?」
プリマヴェーラに似つかわしくない人物の登場に、一瞬にしてざわつきが波紋のように広がる。彼女はこの国の男爵家に生まれた、いわば社交界の最下層に属する令嬢だが、バーベナと正反対であるその愛らしい容姿と純朴そうな雰囲気でエリックの心を掴んだらしい。
周囲のざわつきを抑えるかのように、エリックが声高々に台詞をつむぐ。
「マリーナは私の話に心から笑い、涙してくれる。バーベナ、君とは違って!」
(……愛し合っている、ですって?それが婚約破棄の理由?それってプリマヴェーラで宣言しなければいけなかったこと?)
バーベナの心中には、自分が捨てられたという不安や怒りはまったくなく、ただただプリマヴェーラが取り返しのつかないほどに台無しにされたことへの怒りがじわじわと広がっていた。
「エリック様、陛下とわたくしの父は、この件をご存知ですの?」
「陛下にはこれから話すつもりだ。マリーナの立場では、謁見の機会を得るのも難しい……だからプリマヴェーラだったのだ!」
(なるほど…?!ですから、あえてのプリマヴェーラ…!)
堂々と言い切るエリックの姿を見て、バーベナの心の中では、納得の感情とともに、エリックのその潔さに感服した。
確かに王城で開催される舞踏会は、貴族の多さから原則的に伯爵家以上の家門でないと参加できないしきたりがある。その慣例を唯一取っ払っているのがこのプリマヴェーラだ。であるからこそ、王子と王子妃候補が主催し、参加する歴戦の貴族たちも些細なことには目をつむる。
その次にバーベナに、ふっと安堵の気持ちが現れる。
(あら。わたくし、プリマヴェーラをだしに使われた事に対して怒っているのであって、エリック様の心変わりに対してはなんとも思っていないのね?それに…なぜか心が晴れ晴れしいわ!)
自分のこと気持ちに気がついたバーベナは、口元を覆っていた扇子を左手でピシッと閉じ、エリックに負けないほどの高らかさで宣言する。
「わかりましたわ、エリック様。では、わたくしバーベナ・ド・マルヴァーニャは、この婚約破棄を受け入れます!」
その瞬間、再び会場がざわついた。
(果たしてこれは、皆様に目をつむっていただける範疇なのかわからないけれど…。もういいわよね?王子妃候補でもなくなったわけですし。)
バーベナはその場を振り返ることなく、優雅に一礼して会場を後にする。彼女の背中には微塵の迷いも見られず、むしろ婚約破棄を言い渡された側とは思えないほどの威厳が漂っていた。
「まさか、エリック殿下があのような宣言をするとは……。」
「しかし、マルヴァーニャ侯爵令嬢も見事な対応でしたわね。泣き喚くような真似をしないなんて。わたくしでしたら卒倒きてしまいますわ…。」
「それにしても、男爵令嬢とご婚約?陛下が許されるはずありませんわ。」
様々な声が飛び交う中、バーベナの存在は改めて貴族たちの記憶に深く刻まれた。彼女の「鉄面皮」というあだ名は、今夜の出来事を機に、さらに広まるだろう。しかし、彼女自身はそんなことを気にする様子もなく、心の中で静かに歓喜した。
(これで王城通いともおさらばね!)
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