10.暗躍する影

 翌朝も薄曇りの空が都心を覆い、蒸し暑い空気が警視庁の一課フロアを落ち着かない雰囲気にしていた。日高光彦(ひだか みつひこ)は、いつものように早めに出勤し、要点をまとめたメモを手に事件資料を再確認する。


 「あと数日で担当を外される」――その現実が重くのしかかっていた。

 “再開発利権”“政治家の不正”“警察内部の圧力”――どれひとつ証拠が固まらない現状で、このまま時間切れになれば池内沙織(いけうち さおり)の事件も、平沢真梨子(ひらさわ まりこ)の死も、闇へ葬られかねない。


 しかし、希望はまだあった。古川(ふるかわ)というフリージャーナリストが追う“取材メモ”と“写真”の行方。彼が見つけ出した僅かな噂は、確かにこの事件の最深部に通じているはずだ。

 (絶対に掴み取る。そうすれば上層部の目を覚まさせるだけの衝撃を与えられる……。問題は、あちらも本気で揉み消しにかかっているということだが)


 出勤後ほどなくして、日高の私用スマートフォンに古川からメッセージが届いた。

 「動きがあった。すぐ会いたい。例の“ロゴ”の正体もわかったかもしれない」

 短い文面に明らかな焦燥がこもっている。日高はデスクを後にし、主任へ「外回り」を伝えて急ぎ署を出た。


 約束の場所は都内の繁華街にあるコーヒースタンド。大通りに面して人通りが多いが、狭いカウンターだけの店内は客の回転が早く、それぞれがすぐに立ち去っていく。

 「ここなら立ち話で済むし、追跡者がいてもごまかしやすいってわけか」

 日高はそう呟きながら周囲を見回す。しばらくすると、奥の壁際で薄い帽子を深く被った古川が手を挙げた。


 「悪いな、急に呼び出して」

 古川は紙コップのコーヒーを片手に、眉を寄せながら言う。

 「実は“取材メモ”が高額で取引されそうだって噂、さらに情報が入った。三浦総合開発の幹部連中が、どこかの仲介者を通じて“完全な形”のメモを回収しようとしているらしい」

 「完全な形、ですか」

 「どうやら平沢真梨子が遺したメモには、補足資料や関係者の証言録まで含まれる“フルバージョン”があったようだ。これを“編集”した上で、警察やマスコミに小出しする動きもあるって話だ」

 古川の話に、日高は唾を呑む。誰かがメモを握ったまま、利用価値を図っているのかもしれない。


 「もうひとつある。あんたが追っていた写真の“ロゴ”――あれの正体が、どうも外国の警備会社らしいって噂だ」

 古川が声をひそめる。

 「G…C…いくつか候補があるんだが、“G&C Security”という海外系の警備企業のロゴが円形で、アルファベットが二文字入ってる。再開発関連で日本に進出してるとも聞く。詳しい契約先はわからないが、三浦総合開発が海外投資を拡大するときに使った会社かもしれん」

 「警備会社……。つまり、三浦総合開発が雇った“企業の用心棒”みたいな存在か」

 日高の頭の中で、池内が撮った写真の人物像が動き始める。フードを被っていたのは、表向きに顔を知られたくない警備担当者かもしれない。


 古川は辺りを警戒するように視線を走らせ、さらに声を落とす。

 「政治家絡みの裏仕事も請け負う連中がいるとすれば、そいつらが真梨子を“消した”可能性だってある。取材メモを回収する動きも、そいつらが手足になって……」

 ぞくりとするような予感が日高を貫く。真梨子が最期に見た“円形の光”――あれはこの海外系警備会社のバッジだったのではないか。


 貴重な手がかりを得たものの、警察組織は動いてくれない。むしろ今、日高は担当から外されようとしている。

 「この情報、捜査一課で共有しても無駄かもしれない……上の方で揉み消される可能性が高い」

 日高は苦い表情を浮かべる。古川も同じく渋い顔のままうなずいた。

 「だからこそ、俺が先に報道として流す手もある。だが、“確固たる証拠”がないとデマ扱いされかねない。メモと写真を入手してクロスチェックする必要がある。……あんた、その覚悟はあるか?」

 日高は即答した。

 「当然だ。証拠さえ押さえれば、俺は組織の命令を飛び越えてでも世に公表する」


 それが日高の“刑事としての最後の仕事”になる可能性もある。だが、もう迷いはなかった。


 古川と別れて警視庁へ戻る途中、日高はビルの谷間の横断歩道で信号を待っていた。夏の湿気が肌にまとわりつき、不快な汗が背中を濡らす。

 「……日高さん」

 またしても、その声が耳元に囁く。こんな人通りのある場所でも、彼女は日高にしか見えない姿で現れる。

 「真梨子……戻ってこられたのか」

 彼女は微かにうなずく。輪郭は相変わらず不安定だが、先ほどよりは落ち着いているように見える。

 「あなたが探している“G&C”って文字……わたし、取材先でチラッと耳にした気がする。政界のお偉いさんが“海外の新興企業”を使って警備を一任しているって……」

 「やっぱりそれだ。海外警備企業が裏の仕事を請け負っていたなら、君が殺されたのも……”公式に記録されない事件”として処理された可能性がある」


 真梨子は眉を曇らせ、寂しげに呟く。

 「わたし、思い出したいのに……思い出せば思い出すほど、体が薄れていくみたい。池内さんの悲劇を繰り返したくなかったのに……結局、彼女も殺されてしまった。申し訳なくて……」

 横断歩道の青信号が点灯し、周囲の人々が一斉に歩き出す。日高は他人の視線を気にしながらも、そっと小声で彼女に囁いた。

 「池内さんは君の無念を晴らそうとした。それを受け継ぐのが、今度は俺の役目だ。君が思い出せない部分は、別の方法で必ず突き止める。……だから、どうか消えないでくれ」

 真梨子はかすかに微笑む。しかし、その微笑みさえ一瞬で揺らぎ、儚げに宙へ溶けていった。


 署に戻ると、捜査一課は妙に殺気立っていた。書類を抱えた宮下が日高のもとへ急ぎ寄る。

 「日高さん! 本部長室から書類が届いて……正式に“担当外し”の内示が出ました。数日後には異動か、最悪の場合は地方部署への転任とか……」

 宮下の声は悔しさを滲ませている。日高は静かに肩をすくめる。

 「想定内だ。まだ数日あるんだろう?」

 宮下はうなずきながら書類を見せる。そこには「捜査縮小の方針に反する動き」「組織指示への逸脱行為」といった文言が並び、日高の行動を問題視する記述があった。

 「どうするんです? 本気で証拠を掴まない限り、日高さんは――」

 宮下の言葉を待たず、日高は意を決したように言い放つ。

 「もう組織の保身を考えて動くつもりはない。上層部を味方につけられないなら、外部の力を使うしかない。マスコミや古川さんのようなジャーナリスト、あと、信頼できる元同僚とか……とにかく当たれるところは全部当たる」


 そう言い切った日高に、宮下は少し驚いたような顔をする。が、すぐに意を固めたようにうなずいた。

 「分かりました。僕もお供します。組織に逆らうのは怖いけど、これ以上見て見ぬふりはできない」

 小さな握手を交わす二人の横で、何も知らない他の刑事たちは訝しそうな視線を向けている。だが、もう止められない。


 その日の夕刻、日高が捜査会議室で一人残業の資料整理をしていると、廊下のほうでちょっとした騒ぎが起こった。どうやらアポなしの来客が一課フロアを訪れたらしい。

 「すみません、急用なんです!」

 女性の声がする。どこかで聞き覚えがある。日高が扉を開けてみると、そこには池内沙織の友人である鈴村彩香(すずむら あやか)が立っていた。先日、事件について重要な証言をくれた女性だ。

 「鈴村さん、どうしました? また新しいことが分かったんですか?」

 日高が慌てて応対すると、鈴村は青ざめた顔で言葉を連ねる。

 「誰かに尾行されてるみたいで……。それだけじゃなく、沙織が隠していたかもしれない“何か”を、私の部屋に取りに来た人がいるようなんです……」


 嫌な予感がした。尾行者は“取材メモ”や“写真”を探している連中だろうか。鈴村が矢面に立つ状況は明らかに危険だ。

 「落ち着いて話してください。家のほうで物が荒らされたとか?」

 「いえ……実害はなかったんです。ただ、不自然に扉が半開きになっていて、何かを探したような痕跡が。私の部屋を間違って開けたのかもしれません。急いで鍵を換えましたが……」

 鈴村は明らかに怯えている。このまま放置していたら、彼女自身が池内の二の舞になる恐れもある。

 「わかりました。保護を含めて検討します。とにかく一緒に来てください。詳しく聞きましょう」


 日高は鈴村を連れ、会議室へ戻る。扉を閉めたその瞬間、廊下の照明がわずかに揺れたような気がした。ぞくりとするような空気の冷たさが日高の背を撫でる。

 廊下の隅に、かすかな白い靄が見えた。真梨子だろうか。彼女は何かを伝えたいのかもしれないが、今はその声が聞こえない。

 (それでも、お前の意志はしっかり受け取ってる。絶対に守ってみせる――池内さんの友人も、そして真理子の記憶も)


 資料を掴んだまま、日高は鈴村を振り返る。彼女の不安げな瞳の奥には、なにやら重大な秘密があるように見えた。もしかすると、“もう一つの証拠”が――。

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