3.交差する足跡

 日高はタクシーを降り、再開発予定地の広がる一角に足を踏み入れた。先ほどまで降っていた雨もすっかり止み、冷たい空気の中にコンクリートの匂いが混ざっている。工事のために囲われたフェンスの向こうでは、重機が不規則な唸り声を上げていた。

 「三浦総合開発」のロゴが入った大きな看板が、再開発事業の概要を示している。高層マンションや商業施設、オフィスビルの建設計画がずらりと列挙され、周辺には写真や完成予想図が貼り出されていた。

 ふと視線を感じ、周囲を見回すが人影はまばらだ。工事関係者と見られる作業着姿の男たちが慌ただしく行き来しているだけ。もちろん“彼女”――真梨子の姿も見えない。

 (……姿を消すのは慣れてきたが、やっぱり落ち着かないな)

 日高は苦笑しつつ、フェンス沿いを歩き始めた。どうやって“事件”につながる糸口を探すのかは、自分にもわからない。ただ、何かしらの違和感や気になる点がないか探すしかない。


 敷地の端に小さな事務所が建っていた。プレハブの仮設建築だろう。窓に「三浦総合開発 現地事務所」と書かれたプレートがかかっている。

(中に担当者がいるなら、聞けることがあるかもしれない)

 警察手帳を見せて話を聞くのも手だが、公式の捜査として乗り込むには根拠が乏しい。日高は少し逡巡したが、思い切ってチャイムを鳴らすことにした。

 応対に出てきたのは、30代と思しきスーツ姿の男性だ。やや疲れた表情で、警戒するように日高を見つめる。

「突然すみません。警視庁捜査一課の者です」

 名乗りながら手帳を見せると、男性は少しだけ背筋を伸ばした。

「これは……また何か事件でも?」

「いえ、あくまで確認事項がありまして。こちらの再開発の計画や、関連企業の動きをお伺いしたいのですが……」

 日高の言い回しは曖昧だったが、男性は心得たようにうなずく。

「分かりました。どうぞ中へ。私で分かることがあればお話しします」


 プレハブ内は狭いながらも簡素な打ち合わせスペースがあり、ホワイトボードや地図、書類が整然と並んでいる。男性――名刺によれば「三浦総合開発 都市計画部・赤城(あかぎ)」という肩書きだった――は、丁寧にコーヒーを勧めてきた。

「こちらのプロジェクトは、区画整理と住宅再建をメインに進めています。最近は地元との折衝も大方まとまって、ようやく大規模な工事に取りかかれた段階ですね」

 赤城は手慣れた調子で説明を続ける。地図を示しながら、どこに商業施設を建て、どこにマンションを建設し、いつ頃完成予定か――まさに教科書通りのPRだ。

「ここに至るまで、大きなトラブルはありませんでしたか?」

 日高はあえて具体的なキーワードを出さずに尋ねる。赤城は少しだけ考える素振りを見せた。

「そうですね……地元の一部で再開発に反対する声はありましたが、公式には既に決着済みです。目立った騒ぎや事件も起きていないはずですよ」

 赤城の答えには隙がない。だが、あまりにも「予定調和」な印象に、日高はむしろ引っかかりを覚える。


 視線をさりげなく室内の資料に向けると、折り畳まれたポスターの裏に“住民説明会”のスケジュールらしき紙が貼られている。そこには二週間前から先週にかけて、各所で説明会が行われた日程が記されている。

 (そういえば、池内沙織が撮った写真の日付も先週だ。もしかして、彼女はこの説明会に足を運んでいたのか……?)

 その可能性を思い浮かべた矢先、赤城が言葉を継いだ。

「先週の説明会には、数名の方が熱心に質問されていたのを覚えています。反対運動というほどではありませんが、“景観の保持をどうするんだ”とか、“昔ながらの商店街を残してほしい”とか。若い女性で、フリーランスで何か書き物をしていると話していた人もいましたよ」

 日高は表情を変えぬよう気をつけながら、できるだけ自然に尋ねる。

「その女性の名前は、わかりませんか?」

「名乗らなかったと思いますが……背が高くて、ショートカットだったかと」

 池内の写真で見る限り、髪はセミロング。だが、容姿を多少変えていた可能性もあるし、赤城の記憶違いもあるだろう。一方で、池内とは別の人物かもしれない。


 適当なところで切り上げ、日高は事務所を後にした。表へ出ると、さっきまで曇っていた空からまた小雨が降り始めている。ビルの合間から吹き込む風が冷たく肌を刺す。

「池内がここへ来ていたとして、なぜ? 本当に再開発の取材? 翻訳家がそんなことを?」

 口に出して自問自答するが、答えは得られない。赤城が語る“何も問題はない”という姿勢と、池内が死亡しているという事実との落差がどうにも埋まらない。

 少なくとも、池内は再開発に何か違和感を抱いていた可能性がある。そこに事件の糸口があるかもしれない――その程度の推測しか立てられないまま、日高は足早にフェンス沿いを歩く。


 ふいに、不思議な気配が後ろから寄ってきた。横を振り向くと、霧のように揺らめいて“彼女”が姿を現す。誰にも見えていないはずの幽霊――平沢真梨子だった。

「話は聞こえてた?」

 日高が低い声で問いかけると、真梨子は微かに首を横に振った。

「急にここに来られなくなって……どうやら、あなたが室内に入ると、わたしはそこに入れないことがあるみたい」

「物理的な壁じゃなくても、何か“結界”のようなものがあるのか……」

 日高自身、よくわからないが、真梨子が出入り自由というわけでもないらしい。彼女は寂しげに目を伏せる。

「ごめんなさい。わたし、何の役にも立てなくて」

「いや、そんなことはない。三浦総合開発の名を知ったのも君のおかげだし、これからまだ何かわかるかもしれない」


 言いながら日高は周囲を再度見回す。小雨を受けて、地面に細かい水たまりができ始めていた。鳴り響く重機の音が耳障りだ。

「ところで……君のほうは、何か思い出したか?」

「少しだけ、断片的に。わたし、確かに“取材”をしていたみたい。上司と一緒に仕事をしていて、最初は小さな記事だったのに、いつの間にか大きな問題に触れそうになって……」

 そこまで言ったところで、真梨子は頭を押さえる。痛みに耐えるような表情だ。

「でも、その先がどうしても思い出せないの。頭が割れるように痛くて……」

「無理に思い出そうとしなくていい。少しずつで構わないから」

 日高は努めて柔らかい声で言った。彼女は苦しげに呼吸を整えながら、小声で続ける。

「……もしかしたら、わたしが追っていた“真実”が原因で……殺されたのかもしれない」

 その言葉に日高は息を呑む。彼女は幽霊だという現実がどこか非現実的だが、その訴えはむしろ切実さを増している。


 やがて、視線を落とす真梨子の肩が微かに震えた。雨粒が彼女の体を濡らしてはいないはずなのに、どこか寒そうに身を縮める様子が痛々しい。

「……生きてたときのこと、もっと思い出したいの。そうしないと、なぜ死んだのかもわからない。でも、思い出すたびに頭が痛くなる」

 まるで脳が自分を守るために、核心部分の記憶を封じているかのようだ。トラウマによくある現象だが、彼女は既に“死んでいる”。それでも苦痛を伴うことに、日高は言葉を失う。

「大丈夫だ。焦らずにいこう。俺ができる限り調べる。君のいた新聞社や、過去に報じた記事……探せる手がかりはあるはずだ」

「……ありがとう」

 真梨子は力なく微笑むと、再び薄い影のようになって消えていった。宙に霧散するかのように、その姿は跡形もなく消え去る。


 雨脚が強まり、日高は足元を水たまりにとられないよう注意しながら先を急いだ。真梨子の記憶と、池内沙織の写真。それぞれの点が絡み合い、いつか一つの線になるはずだ。

 そして、その線の先には――池内を殺した犯人、そして真梨子の死の真相。

「俺は最後まで追いかける。どんな相手だろうと、逃がしはしない」

 傘の中で小さく決意をつぶやき、日高は再び車を拾うため大通りへ向かった。ビルの谷間を縫うように、鈍色の雲が低く垂れ込めている。

 あの陰鬱な空の向こうに、二つの“事件”が結びつく大きな闇が潜んでいる――。刑事としての本能が、そう警鐘を鳴らしていた。

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