06 教練施設

 教官の口から発せられる怒号は止めどなかった。

 「くず!」、「間抜け!」、「のろま!」、「狗!」、「無駄飯食い!」、「ゴミカス!」、「白痴!」、「糞ども!」。

 ありとあらゆる悪態が女たちに浴びせられた。

 連続ダッシュ、壁越え、腕力だけのロープ登り、上手くこなせない者はもちろんのこと、規定時間内に達成した者にも遠慮のない罵倒が飛んで来る。

 疲労で倒れ込んだ者にも容赦はなかった。もっとも自分の荒く喘ぐ呼吸音で、教官の怒号はその鼓膜まで届かない。

 教練は過酷を極めた。

 女たちの筋肉が悲鳴を上げ、関節が悲鳴を上げ、腱が悲鳴を上げた。

 それでも脱落者は一人も出なかった。

 みな、ここに拾い上げられる前の境遇に戻りたくはなかったから。その一心でこの破壊的教練を耐えていた。

 そう、集められた女たちは、二度と以前の苦界には戻らないという、その同じ決意、同じ覚悟で通底していた。

 年齢も、スカウトされた経緯も、属する民族すら異にする女たち。

 だが出自は似たり寄ったりであり、愛情に恵まれないという、その一点はみなに共通していた。


 厳しい教練の時間をこなせば、その後には温かい食事と寝床が彼女たちを待っている。

 売春を強要する老板も、女衒も、暴力をふるう酔客も、弱みに付け込んでくる官吏も、ここにはいなかった。

 訓練に耐えきれば、ここが居場所として保証されるのだ。“絶対に落伍はしない・・”女たちの決意は固かった。

 女たちはそんな通底した意識は持つものの、これまでの人生の歪みゆえに、他人を信用しきれないがゆえに、宿舎内では小競り合いが絶えなかった。

「あんた、私のタオルをわざとビシャビシャにしたね!」

「そんなことしてない!、言いがかりは止して!」

 シャワールームでの二人の口論に、一人が割って入った。

「止めな!、揉めるんじゃないよ!」

 床を叩く水音をバックに鋭い語気が飛んだ。

 教練後の汗を流すために、この班の全員がシャワールームにそろっている。

 彼女たちの行動に目を光らせ、また諍いの調整役でもある施設管理官は外に待機している。


 教練において、罵声を浴びせられる女たちの中にあってただ一人だけ、稀にではあったが教官から誉を受ける者があった。

 「いい気概だ。美裕(メイユウ)」、「またお前が一番だな」

 体のなまりきった女たちの中で、唯一、余裕をもって教練をこなす人物、それが美裕だった。

 女たちはこれまでの人生で、強者へ帰順するルールを身に付けていた。

 背の高い、精悍な顔つきの優等生からの咎めの言葉に、みなが動きを止め、事の成り行きを見守った。


「タオルハンガーから自然に滑り落ちたんだよ。濡れたタオルをわざわざ拾ってハンガーに戻してくれたんだ。あんたの誤解だよ」

 何人かが、床の水を吸って湿ったハンガーのタオルに目を向けた。

「そうよ。私もタオルが落ちるのを見てたわ」ひとりがそう付け加えた。

 因縁を吹っ掛けた側の女は、しぶしぶながらも「悪かったよ」と一言告げた。

「拾ってくれたんだ。ありがとう、だろ?」

「あ、ありがとう・・」

 疑われた側の女は目を背けたままだったが、軽くうなずいた。

 彼女が謝罪を受け入れたのを全員が知り、それでその場が収まった。

 女たちの動向に異変を感じたのか、女性施設管理員が入室してきた。

「何か問題でもあったの?」

 そうぶっきらぼうに尋ねる管理員に、美裕が「いえ、何もありません」と応じた。

 管理官は怪訝そうに全員の顔を見渡した後に、「次は西方楼の3号教室よ。急いで身支度しなさい」と怜悧に言い放った。


 美裕は自分たちを侮っている、女たちはみなそう感じていたが、歯向かう者はいなかった。

 それは“関わると、斬られる・・”という警戒心からでもあり、教練もそれ以外の課程もそつなくこなす美裕への畏敬の念からもであった。そこに幾分かの憧れと嫉妬が入り混じってもいる。

 敵意を抱く者もいたのかもしれないが、誰がそれを秘めているかは、今の所、表に顕れてはいなかった。

 そんな女たちの想いが美裕を遠巻きにしていたが、独りでいることを本人は意に介していない。


 点けっぱなしの食堂のTVは、神舟8号と宇宙ステーション天宮1号のドッキングを、中華人民共和国の偉業として何度も繰り返し放映していた。

 まるで3ヵ月前の列車事故をなかったことにするかのように。

「来週から、アレが始まるわね」

 すでに誰もいない食堂のテーブルに座していた女が、背後からふいに話しかけられた。

 女は顔だけを声の主に向け、それが美裕だと知った。

 女にとって、一匹狼の美裕が話しかけてくるのは意外でもあったが、同時にそれを予期もしていた。

 一日のカリキュラムが全て終わり、就寝前のわずかな隙間の時間。

 本来は、それぞれの個室で過ごさなくてはならない時間のことだった。

「アレ、って?」

「判ってるでしょ。性技の講習よ。今から反吐が出るわ」

「・・・、私たちがここに来る前にやっていたことと、大して変わらないんじゃない?」

「フンッ!」

 女の返答が気に入らず、美裕は不快の相を露わにした。

「あんた、それでいい訳?」

「だって・・、それが私たちがここに居る理由でしょ?、それとも断って放り出される方がいいの?」

 更に気に食わない答えだったが、美裕は女の隣の椅子をひいて、そこに腰を下ろした。

「あんた、悠華・・だよね?」

「そう。私の名前、知ってたのね」

「そりゃあね。あんた目立つし」

「目立つ・・?、私が?」

“そんなはずはない・・”

 悠華と呼ばれた女は、そんな表情を浮かべながら、改めて美裕へと顔を向けた。

 美裕はその視線を意識しているのか、いないのか、真っすぐに前だけを向いている。

「どっから来たの?」


 単に会話に飢えているだけなのか、或いは、何かを聞き出したいのだろうか、そう悠華は警戒した。

「・・・、それはお互い知らない方がいいんじゃない?」

 教官からは、互いの素性は語らぬようにと、そう釘を刺されている。

 宿舎棟は班ごとに分けられ、相互に行き来することはできない。

 同じ棟内でも、女同士の会話は許されず、そこかしこに立っている施設員が監視にあたっている。

 それでもやはり女同士、人恋しさからか、何人かの者は監視の目をくぐって、互いの身の上を教えあってもいた。


「喰えないわね。あんた・・」

 その指弾の言葉に、悠華は黙って瞳を閉じた。

 いつもは居るはずの施設員の姿が、どういう理由か今は見当たらない。

 もしいたなら、会話を制され、それぞれの個室に戻るよう注意を受けていただろう。


「私はね。黒竜江省よ。この時期、夜は寒さで何度も目を覚ますわ」

「私は・・」

 “暑い地域”、そう口から出かかって、それを押しとどめた。

“そうだ・・、あそこは暑かった・・”

 どこの省か、どこの町か、それは悠華にとって記号でしかなかった。

 あの娼館だけが、悠華の世界の全てだったのだから。

 あの男は言った。「蜜瓜はわざわざ新疆から取り寄せたんだ。お前に喜んで欲しいんだよ」と。

 それが互いの悲劇に繋がるとは、思ってもいなかったろう。

 あれから、留置場の独房で死を受け入れようと心に決めてから3ヵ月が経つ。

 今もまだ生きている。


 冬の入り口、寒気団がこの国の北部を覆い始め、窓の外の風はカタカタとガラスを叩いている。

 山奥の廃棄された寒村に建てられたこの建物の設備は最新だった。

 微かなボイラー音がこの食堂まで響き、宿舎棟に暖気で満たされ、与えられた個室の、清潔な布団を備えた寝床は安眠を約束してくれている。

 米軍の衛星への対策として、あえて木々を多く残し、大きく開けた空間はなく、彼女たちの教練コースも、林の間を縫うように設けられていた。

 更には、それがどれ程の効果も持つかはわからないが、建物の屋上も、敷地内の道路も木々を模したテクスチャーでペイントされ、カモフラージュされている。

 施設は西の方に位置するらしかったが、それでも風向きによって高濃度のPM2.5が流れ来ることがあり、外での教練が、室内での教科に変更されることが何度かあった。


“これから、どうなるんだろう・・?”

 衣食住は保証され、仕事の成果によっては多大な報酬も与えられるという。

 その『仕事』、それが上手くこなせるのかどうか、不出来であれば、また元の黒孩子の娼婦に逆戻りなのだろうか。

 そんな不安も覚えながらも、その一方で悠華は首尾よくこなせるのではないかという、不思議な自信もあった。

 悠華、その与えられた名でこれから生きていく。


「ここに来る前は、何をしていたの?」

 拒絶の姿勢を示したつもりだったが、美裕はなおも質問を続けてきた。

「それこそ、聞く必要もないわよね。売女よ。あなたと同じにね。ここに居るのはみんなそうでょ・・?」

 悠華は、娼婦でも商売女でもなく、あえて一番、下世話な言葉を使った。それは同じ立場の女たちへの蔑みである以上に、自分への蔑みだった。

“好きになれないタイプの人間だ・・”

 自信家で、同情心は乏しい、自分の力だけで全てを変えられると信じている人種だ。

 女たちの行動は、しっかりと管理されており、敷地外へ出ることはもちろん、建物内でも立ち入れる区域は限られていた。

 そして施設管理員は、まだ現れない。

 立ち去ろうかと考えて、それでも、しばらくこの無遠慮な女に付き合おうという気まぐれ心が、悠華の中に芽生えた。


「あなた、すごいわよね。教練も教科もトップだし」

「はっ、あんな教練なんてお遊びよ」

 実際、人民解放軍の兵士が見たなら、この施設での教練は低レベルだと笑ったことだろう。

 しかし、それまで体力を用いない商売に身を置いてきた女たちにとって、それは困難なものだった。

「腕が太くなり過ぎだって注意されたわ。気に食わない・・」

 筋肉の付き過ぎは女性としての魅力が減じ、それは任務に支障をきたす。

 教練は、任務に耐えうる体と、精神力を涵養するためのもので、『彼ら』はアスリートを欲している訳ではなかった。

 実際、この3カ月で、女たちの顔つきは凛々しく変化していた。

 そこに知識と教養、そして所作とマナーが植え付けられる。

 学校にもほとんど通ったことのない彼女たちの何人かは、それを喜び、何人かはそれをうとましく感じていた。


「今は李少佐がいなくて残念ね」

「いきなり、何の話・・?」

「隠さなくてもいいわ。好きな男を見る時の目をしてるよ、あんた。李少佐を見ている時」

「勝手にそう思っていればいいわ」

「ふーん・・、戻って来るらしいわよ。少佐」

 その言葉の反応を見定めようとしている美裕を悠華は無視し、二人の間にしばらく無言の時が流れた。

「私さ・・」

 先に沈黙を破ったのは美裕だった。

「この仕事で十分に稼いだらさ、この腐った国を出て、どこか外国で暮らそうかと思ってるんだ・・、あんたもそうしない?」

 言外に「一緒に行かないか」との提案が隠されていることに悠華は気が付いたが、それには触れないでおいた。

「外国か・・、生まれた町を離れたのも初めてなのに、そんな先のことは想像できないわ」

 悠華は自分で口にした言葉に違和感を覚えた。

 『生まれた町』、私はあの娼館のある町で生まれたのだろうか、と。

「それに言葉はどうするの?」

 市井の者と同レベルの知識にするために、ここでも各種の授業が行われ、英語の時間もあった。

 しかしいづれも短期間だ。最低限の知識しか身に着かない。

「行けば何とかなるもんよ、私の知り合いはそう言ってたわ」

 少なくとも美裕の周囲には外国に行き、そして帰ってきた者がいる、悠華はそう読み取った。

 「語学に適性のある者は、海外での任務を割り当てる可能性もある」

 当初、教官はそう言っていた。

 しかし今の所、そのコースに乗る者はいないようだった。


「ここまで、我が国は順調に発展を続けてきた。この先、更なる躍進に臨むために、国内の綱紀粛正を図る必要がある!」

 入所してすぐの教練で、そう主任教官は声を荒げた。

「残念だが、この国には多くのダニが住み着いている。国の富を盗む不届き者たち、国賊だ!」

 その懐に潜り込み、汚職や不正蓄財の証拠などを掴み、司法へと渡し、断罪する。

 その手段として『女』を用いる。

 それがこの養成施設の存在理由であり、女たちに課せられた使命だった。

 そのスローガンをそのままに信じるおめでたい者も何人かいたが、ほとんどの女たちは、その裏側の意図を感じ取っていた。

 『覇権争い』、そのための道具として働かなくてはならないのだと。


「あんたはさ、悠華。他の連中とは違うよ」

 美裕のその呼びかけに、悠華はハッした。

 施設職員か官位職の者以外から、名前を呼ばれたのは初めてだった。

「違わないわ。みんなと同じ元売女で、今はここでしごかれている女」

“今の私には名前がある・・”

 そこに一抹の喜びが芽生えたのは否定できなかった。しかし彼女が慣れあうべき相手なのかはまだ定めかねた。

「あんた、それでいいの?、馬鹿な中共の、男たちのせいで私たちの人生は散々だった。それなのにその中共のために働くのよ?!」

「仕方ないじゃない・・、他にどうすることもできないわ。それこそあなたの言うように稼いで足抜けして外国へ行くまで我慢するしかない・・、足抜けさせてくれれば、の話だけど・・」


 来週からは、ターゲットを、欲にまみれた男を虜にするための性技の授業が始まる。全ての課程が修了するのはまだ何ヵ月か先だ。

 そして、この施設から巣立つその前後に、より男好みの容姿になるための整形手術も待っている。

“いいじゃない・・、名前も顔も以前とは違う、そんな別の人間になるのも悪くはないわ・・、これまでの人生は全て過去に封じて・・”

 美裕は悠華の横顔をじっと見つめたまま、返答を待っている。

“去り時だわ・・”

 そう悟って、悠華は席から立ちあがった。

「もう行くわ。明日も早いし、あなたも早く休んで・・」

 数歩、歩んだ悠華の背後で、美裕の叫びが聞こえた。

「ほんっとに、あの糞男ども!!」

 その美裕の恨みのほとばしりには振り返らず、悠華は食堂を後にした。

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