鵜飼



「大丈夫かい?」


 その言葉で意識を取り戻した。過去の事を掘り返しても、なんの意味も無い。僕は名古屋駅で下車した時から、過去の記憶にでも入り込んで、気が滅入めいったのかもしれない思った。


「すみません、こんなところで」


「いやいや、何かあったなら話してみい。おばちゃんで良ければなんでも聞くよ」


 いきなり話しかけられて驚いたけれど、笑顔で細くなった目に、顔いっぱいのシワは彼女の優しさが滲み出ていて、当たり障りの無いゆったりとした喋り方は、安心感を与えてくれた。


「ただの失恋ですよ。少し思い詰めていたんです」


「そうかい、そりゃあ大変だったねぇ。あんたはまだ若いんだから次があるってみんなよく言うけど、あたしゃそうは思わなくてね。あたしもよく既に離れた恋人を思い出すさね。きっと死ぬまで忘れられねぇ。やっぱり、あたしゃその記憶を大切にしたいんだと思うよ。」


 恐らく常人とは外れた考え方で、悲観的だと思う。それでも、後味を忘れられない僕にとっては、心を覗かれている気もしたけれど、十分救いになった。


 気づけば、かなりの時間が経っていて、ひとまず言われた通り父さんに連絡をしてから、ヘトヘトになった身体で宿へ戻った。


「そんな疲れるほど歩いたんかお前」


「色々あってね」


「おぉ、そうか。そろそろ屋形船に乗るぞ。準備しとけ」


 しばらくして再び乗船場へ向かい、おじさん達に会釈をした後で、チケットを提示して船に乗り込んだ。


「いつの間に会釈する関係になったんだ?」


「ちょっとね、色々話してきた」


「色々って、まとめすぎだろ……」


 屋形船は背の低い長机に座布団が並べられ、出航して早々に宴会ムードとなった。僕たち以外にも、サラリーマンの社員旅行のような団体や、大学のサークルらしき人たちもいた。父さんはあまりお酒を飲まなかったけれど、周囲は日没前から大盛り上がりだ。


「この天ぷら美味しいな。あとこの鮎の塩焼き。大自然に囲まれて、屋形船ということも相まって、最高だな」


「ちょっとうるさいけどね」


「それは、たしかにな」


 料理はどれも絶品だ。内陸部ということもあり、山の幸がメインで、大葉の天ぷらが川の匂いと共に肺を満たして、僕にとって忘れられない味になった。食事が終わる頃には赤く染った夕空も、藍色に姿を変えて、暗闇が船を包み込んだ。


 時刻は六時半頃。鵜飼の舟が屋形船の近くまでやってきた。舟には火が吊るされていて、鵜たちは網紐に繋がれて、鵜匠に握られている。


 鵜が鮎を飲み込んで浮上する、そしてそれを吐き出させる。先程おじさんたちに言われたことを思い出して特別感を感じながら、火の反射で赤く染まった水面や、灯火が燃え盛る光景を無性に楽しんでいた。


 だがそのとき事件は起こった。窓から身を乗り出していたのが悪かったのだろう、酔っ払ったスーツのおじさんがふらっと倒れて、僕の背中とぶつかり、僕は船の外へ押し出された。そして川に逆さまで放り出された。僕は闇に落ちて方向感覚を失った。生ぬるい水の流動が全身を包み込んで離さない。


 落ちた時に船からは悲鳴らしき声が聞こえて、余程の事なのだとすぐに悟った。さらに僕は、なかなか浮上できずにいた。テストで大事な単語を忘れてしまったときや、英単語が覚えられず苦しんでいるときのような感覚が、僕をより一層焦らせた。


 その時、僕の視界には赤い光が差した。その光はこちらに来いと言わんばかりに僕を引きつけた。僕はその方向へ向かって必死に泳いだ。そうしていると徐々に浮上する感覚を取り戻し始め、肺の酸素が尽きる前に水面から顔を出すことができた。


 屋形船には、飛び込もうとする父さんを抑えている客たちの姿が映り、ほんの少し安堵した。浮上した場所は鵜飼の舟の真横だったために、昼間のキャップ帽子のおじさんに救い上げられた。


「おい、大丈夫か坊主!」


「なんとか助かりました。赤い光が見えて……」


「おぉ、そうか! 人が屋形船から転落したの見て、必死に近づいたんだけどよ。助けられて本当によかった」


「ありがとうございます」


 その後、屋形船に戻り、ぶつかったスーツのおじさんにとんでもなく謝られて、旅館の人からは特別待遇を受ける形となった。父さんは緊張から解放されたようで、深呼吸をしていた。


 こうして鵜飼の漁が終わり、ずぶ濡れの身体で旅館に戻って、急いで浴場へ行って、お湯に浸かった。


「すまんな、こんなことになるなんて」


「全然気にしてないよ。助かったからね。それどころか地元の人には優しさで驚かされるし、川に落ちたことで大事なことに気づけたと思う」


「そうか、それならいいんだが……」


 僕は気づかされた。今も僕には菖蒲がいてくれて、彼女は僕にとって一筋の赤い光だ。彼女がいるから、辛いことが重なった今もなお、前を向いて大学を目指している。恋人と別れて一人になったけれど、孤独になったわけじゃない。人との繋がりが消えたわけでもない。ただ、恋人との記憶の瓶には蓋をされてしまっただけだ。それも失ったわけじゃない。


 受験もそうだ。鵜のように記憶という無意識の世界に飛び込んで、必要な記憶を取ってくる作業をする。それには赤い光が必要だ。それが見えないからこそ、どこへ取り出せば良いのか分からなくなる。


 少し逆上のぼせたくらいで、お風呂から出て、それから部屋に戻って布団を広げた。すぐには布団に入らず、あの景色は逃すまいと、ソファから夜空を眺めていた。満天の星が暗闇に光り輝いて、綺麗だった。ここへ来て良かったと再認識させられた。しばらくその時間を楽しんだ後、旅疲れからか、倒れるように布団に入った。

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