第2話

 金木犀の匂いが好きだった。甘ったるい、どこか懐かしい匂い。だがこの香りは、いつだって俺に悪い記憶を呼び起こす。大学に入ってすぐのサークルの飲み会。俺は気に入っていた金木犀の香水を付けていった。

「吉田君さ、ほら、新入生の」トイレを探して店内をうろついていたら、喫煙所の方から声が聞こえた。見ると男子の上級生の中に混じって一人の女の先輩――間宮灯里がいた。「あいつ、なんか甘ったるい臭いしない?」誰か上級生が言う。「金木犀だろ」「くっせ」「イキってんなあ」「便所に住んでるんじゃない?」別のやつらがタバコをふかせながら笑って言う。初めての酒に酩酊した意識が一瞬で冷えていくのがわかった。

「いや、匂いは良いよ。良い香水」灯里は随分酔った様子で話し始めたのを覚えている。「ただ私は秋じゃない季節に金木犀を纏っている人が嫌い。別の季節を持ってこないでくれよって。ね。今、春だしさ」

「あー、ね」彼女の反応が面白くなかったのか、みんなタバコを灰皿に突っ込む。俺は逃げるようにトイレに入った。心臓が張り裂けそうだった。冷や汗が身体中から溢れてきて、拭うたびに袖にシミが増えていく。汗も冷え切る頃、心配した誰かがドア越しに様子を尋ねてきた。飲みすぎたみたいだ、とだけ返した。精一杯の虚勢だった。もういっそ、あいつらが言ったように便所に住み着いてしまいたかった。

 それ以来、金木犀の香水はつけていない。ただ、サークルには居続けた。デザイン研究会というサークルは名ばかりで退廃的で、大体の活動は部室で麻雀。あの一件のことは聞かなかったことにして、ただ自分を改めていけば、何かが取り戻せるんじゃないか、と思っていた。いつだってやり直せるって誰もが言う。だが、取り返しのつかないことは必ずある。あれは取り返しのつかないことなんかじゃないと思い込むようにしていた。

 俺が大学二年の時、デザインコンペで間宮灯里が入賞した。

 デザイン研究会とは名ばかりのサークルだったが、有名なコンペだっただけに灯里は学生表彰を受け、色々なところで持ち上げられた。一方でサークルの連中等は面白くなかったらしく、やれ賞金で俺達に飲ませろだの、やれ私が作った絵に似ているだの散々な仕打ちをした。

 いい気味だ、と俺も思った。そして同時に彼女に同情した。

 そして程なく、灯里と俺は交際をすることになった。きっかけなんて覚えていない。多分、励ましの言葉のひとつやふたつ、かけてやったのだ思う。そして二人でサークルを辞めた。自らの意思を以てして終わりを迎えることは、俺にとって大切なことだった。そして灯里は俺にとって辞めるのに相応しい大義名分だった。

 小学生の頃、ピアノコンクールがあった。地元開催の小さなピアノ教室合同のコンクールだ。なんとしても賞を取りたいと願って必死に練習をした。小さい頃から習わせてもらっていた両親への恩義もあった。でもそれ以上に、自分の行動を以てして何かを掴み取りたかった。

 他に秀でた才能も無い中、唯一ピアノだけが当時の自分の拠り所だった。練習すればするだけ自分に返ってくる。その手応えは徐々に自信に繋がっていった。毎日毎日練習しては、風呂の間も寝る間もCDをかけつづけた。

 コンクール本番、自分でも最高の演奏ができたと思った。周りからも褒められた。他の誰よりも優れているという自信があった。絶対に入賞するはずだと信じていた。だけど入賞者の張り紙に自分の名前はなかった。ああ、終わったと思った。自分では到底到達できなかったのだ。才能なんてないのだ。自己否定、と、自己嫌悪。

 ただ、後に聞いた話で、どうにもあのコンクールは「出来レース」らしく、ピアノ教室の先生同士で談合してそれぞれの教室から大体数年単位で均等に受賞者を出すようにしていたらしいことを聞いた。今年はたまたま自分の教室の番ではなかったのだ。ただそれだけなのだと知ったとき、自分はピアノを辞めた。自分ではどうしようもないこと。仕方がない、の一言で片付けられるプライド。大人同士の嘘。そうした不条理を理解するにはまだ幼かった。ただ、その体験が今の今まで俺の心に、根深く、渦巻いていた。自分で自分の意思で終止符を打つことに、いつからか執着するようになっていた。

 灯里に同情したのは、なんとなくあの時のピアノコンクールで受賞した奴らの居心地の悪い顔を思い出したからだった。

 灯里に対してはそこまで強く思い入れがあるというわけではなかった。ただの同情から始まった関係。向こうも本気にしている様子もなく、ただあの場から逃げ出す口実をどこか求めていたんじゃないかと思う。腐った場所に居続けると、自分は本当は悪くないはずなのに、自分も腐っていく感じがする。その腐敗臭が身につく前に体を洗ってしまいたい。あの飲み会の夜も、すぐに帰って体を洗った。自分は何も悪くないのに。ただ、好きなだけなのに。

「絵を仕事にしたいなあって」

 美大でもなんでもない、ただの私立大学の就職先はみんな様々だった。ただ灯里は絵にこだわった。あれからも何作かコンペに出したりしていくうちにそこそこ名前が売れていき、卒業する頃にはデザイン会社への就職が決まっていた。俺は正直気に食わなかった。俺だってあそこで終わっていなければ、と未だに未練が燻っているからかもしれない。夢を追いかける彼女にどこか嫉妬していた。その度にいつまでそんな昔のことを、と自分を諌めるも、実際はどうしようもなかった。

 ただ、そうして夢を語る彼女にいつしか本気で入れ込んでいた。自分の方は。灯里は、もっと遠くの自分自身の姿を見つめているようだった。絵を描くことにのめり込んでいくうちに次第にそれが強くなっていくように感じた。それが彼女の部屋のカンバスだった。学生時代はもっと物が少なかったあの部屋は、いつしか彼女の執着の、あるいは執念とも言える有象無象の意識の集合になっていた。だからあの部屋にいるとき、どこか成し得なかった自分への希望のようなものを感じるようになっていた。

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