第172話 帰蝶は、夫の出陣に際して
永禄3年(1560年)5月中旬 尾張国清洲城 帰蝶
「人間50年~下天のうちを比ぶれば~」
今、殿は『敦盛』を舞っておられる。2万を超える今川の大軍勢が迫る中、籠城を主張する家臣たちも多く居る中で、打って出る事を決めたと先程仰せになられた。
「一度生を享け~滅せぬもののあるべきか~」
出立は、明朝未明という事だが……しかし、本当に勝てるのだろうか?
この舞に込められた覚悟は結構だけれども、死んでは花実が咲かないとわたしは思う。もちろん、だからといって死なないでなんて言えないけど……。
「帰蝶……」
「なにか?」
「この続きは何だったけ?」
「はい?」
「敦盛だ。『滅せぬもののあるべきか』の続き……教えてくれ」
殿は恥ずかしそうに笑いながら、そうわたしに訊ねてきた。続きは「これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」……だけど、覚えていないのに舞っていたこのカッコつけの殿のお姿に、わたしもつい笑ってしまった。
「笑うな!」
「だって、おかしくて……」
ホント、はじめてお目にかかった日もこんな感じだったな。「海は見た事がないだろ?見せてやる!」とか言って、馬に乗せてもらってお出かけしたけど、着いたのはなぜか山寺。挙句、わたしにわからないように住職に海辺への道を尋ねておられたし……ホント、変わっていないわね。
ただ、それだけにやはり生きて帰ってもらいたいと思った。
「殿……」
「なんだ?」
「……ご武運をお祈りしております」
だけど、今度もやはりその想いを口にする事はできなかった。わたしは蝮の娘で……強い女を演じなければならないのだ。見栄っ張りだとは自分でもわかっているけど、今更変わる事は、わたしもできないようだ。
「帰蝶……」
「はい」
「そうしんみりするな。俺は必ず勝ってくる。だから、そう心配するな……」
「殿……」
ああ、ダメだ。我慢しようと思っていたけど、涙が止まらない。すると、殿はそっとわたしの方を抱き寄せて……それから囁いた。「それよりも、心配なのはこの清洲の事よ」と。
「心配?この清洲がですか?」
「そうだ。俺はあの竹中半兵衛という男……やはり、どうも信用できぬ」
竹中半兵衛——。父親の遠江守とは以前、美濃で顔を合わせた事があったけど、そんなに裏表があるような人には思えなかった。息子は違うのかしら?
「あの男はおそらく……俺が出陣すれば、いくさの勝ち負けに関わらず、この清洲城を乗っ取ろうとするであろうな」
「乗っ取る!?」
「帰蝶、声が大きい」
「あ、すみませぬ」
だけど、そんな事が本当に可能なのかしら?
「今川の大軍を迎え撃ち、勝利を収めるためには、俺も全力で挑まなければならない。そのため、この清洲にそれ程の兵を残すわけにはいかぬ」
「つまり、その隙をついて、美濃から斎藤の軍勢が押し寄せてくると……」
「その通りだ」
それなら、千でも2千でも留守部隊を残していけばいいと思うが、そうすると今度は今川に勝てないと殿は仰せられた。
「だからな、帰蝶。もし、そのような事になったら、無理に戦おうとせずに降伏せよ」
「殿っ!何を仰せですか!!」
「……そなたは、義龍の妹だ。降伏しても命までは取られまい。生きてさえいればいつか必ず……」
「降伏なんて絶対に嫌です!兄は……父上を弑しました。弟たちも殺しました。わたしは許すわけにいきません!そんな兄に命乞いをするつもりもございません!!」
「帰蝶……しかしだな……」
殿は何とかわたしの気持ちを変えようと説得してくるけれども、わたしの気持ちは変わるはずがない。父と弟たちの無念を思えば……。
「わかった。では、もしこの清洲が危うくなったら無理をせずに脱出し、小折城の生駒八右衛門を頼れ」
「小折城の生駒八右衛門……ですか?」
生駒八右衛門といえば、確か犬山城の下野守殿(織田信清)の家臣じゃなかったかしら?領地の配分を巡っていざこざがあったと聞いているけど……
「その八右衛門という者は、本当に信じられるのですか?」
「大丈夫だ。八右衛門は絶対に俺を裏切らない」
「その根拠は?」
「……八右衛門の妹が俺の子を産んでな、その……預かってもらっているのだ」
「はい?」
え……今、わたし何を言われたのかしら?子を産んだ?八右衛門の妹が……って、これって浮気よね!?
「殿っ!どういうことですかぁ!!わたし、何も聞いていませんよ!!」
「今言っただろ。だから、問題はないよな?そう、何も問題はない。さあ、湯漬けをもて。出陣だぞ」
「自分で用意しなさいよ!この浮気者!!」
ああ、もう信じられないわ!そうだ。父上から脇差を預かっていたわね。いっそのこと、それで刺しちゃおうかしら?
「帰蝶!済まなかった。この通りだ。許してくれ!!」
まあ……両手をついて謝っているし、今川とのいくさ前だし……今日の所は勘弁してあげるか。それにわたし、帰る実家もないし……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます