2-5

 僕はギターを持って、火魚ちゃんの部屋を再び訪れる。彼女は窓辺に立って、外の景色をじっと眺めていた。僕が来たと気づくと、すぐに微笑みを浮かべて、彼女は振り向いた。

「ありがとう」

 僕に歩み寄った彼女は、ギターを受け取ると、ベッドに腰掛けた。弾き始めるのかと思ったが、立ち尽くす僕の方を、何か期待するように見つめてくる。よく見れば、また尻尾で囲いを作って、僕にそこに座るよう指示していた。僕は、その無言の指示を受け取って、彼女の隣にゆっくりと腰掛ける。

「ギター、弾けるんだね」僕が言う。

 火魚ちゃんは、無言で首を横に振った。僕はその反応に、しばし呆気にとられた。

「じゃあ、弾けないの?」

「見ていれば、わかるわ」

 火魚ちゃんは、右の人差し指の、尖った爪で弦を弾いた。乾いたギターの音色が部屋に響いた。

「チューナーがない……」火魚ちゃんが小さく呟く。「いいや、勘で」

 火魚ちゃんは、ギターの弦を一本ずつ弾いて、ペグを回して音の高さを調整し始める。正しい音の高さが、チューナーに頼らずとも、彼女には耳で聞いただけでわかるようだ。つまり、彼女は絶対音感の持ち主ということになるのだろうか。僕は、その慣れた手つきに見とれて、彼女が僕の質問にノーと答えた理由を察せずにいた。

「シー」

 火魚ちゃんは、チューニングを終えて、Cコードを押さえて鳴らした。美しい和音が響く。

「ジー、エー・マイナー、イー、ディー……」

 続けて、一つずつ、おそらく簡単なコードから順番に押さえて、彼女は弦を弾いた。音に濁りはなく、正確にそれらのコードは奏でられている。運指もなめらかで、つっかえる気配もない。

「弾けてるじゃないか」

「初級のコード、押さえているだけだもの」

 彼女はネックを掴んで、弦の振動をいっぺんにミュートした。そして、何やら物憂げに、自分の右の手のひらをじっと見つめ出した。

 瞬間的に、僕は華火くんのことを思い出した。彼もまた、時々そうやって、手袋をつけた手を見つめていたな、と。

「あのね」彼女は呟く。「セーハが、うまくできないの」

 そう言って、彼女は僕に、手のひらを差し出して見せた。僕は、その手のひらをじっと観察する。彼女が隣で勉強をしていた時も、どうしても目についた、尖った爪や……そう、指と指の間にある、薄くて柔い水かきを……。

「この水かきのせいで」彼女の声には、悲しみが滲んでいる。

 指の側面を使って、複数の弦を同時に押さえる奏法がセーハだ。初心者が躓きやすい、FとかBとかのコードで必要になる。僕も最低限、きちんとそのあたりで躓くまでは触ったから知っていた。そう、指先でなく指の側面が重要で、水かきのある彼女にそれが難しいというのは、ひと目見て分かることだった。

「大嫌い、こんな体……」

 彼女はそう言って手をおろし、目的なく、四弦の開放弦を鳴らした。

「それは……」僕は言い淀んだ。可哀想に、と言いかけて、それほどに軽薄な言い回しもないと、口を噤んだ。それでも、何も言わないよりずっといいと気づかずに。

 だが、火魚ちゃんはふいに、そんな僕に微笑みかけた。

「あは、ごめんなさい。でもね、おじさまは、代わりのコードも教えてくれたの」

 そう言って、また左手の指で手早く弦を押さえ、音を鳴らした。彼女の心境を想像させて、その音色はどこか、独特な寂しさのあるものに、僕には聴こえた。

「ほら、エフの省略コード。代わりにこれで弾けばいいって」

「へえ、いいじゃん」

「ふふ」

 彼女は笑っていたけど、それが演技だとは、僕にも分かった。彼女はいつだって、本当のことにこだわっている。目的のFコードを、手本通りに弾けない限り、彼女はきっと、満足も納得もしないのだろう。楽譜に「F」とある音楽を、代わりのコードを使って演奏すれば、その音楽は今の彼女にとって偽物で、嘘になってしまうのだろう。

「こんな言葉、励ましにならないかもしれないけど……」僕は、ほとんど見切り発車で喋りだした。「セーハができないからって、音楽に見放されるわけじゃないよ」

「でも……でも、千鳥は知らないかもしれないけど、弾き語りしようと思うと、どこででも出てくるのよ?」

「キミは、晴也さんにあこがれているから、おんなじ風にしたいんじゃないの」

 僕が言うと、火魚ちゃんは口を閉ざした。思いの外、僕の指摘は的を射ているようだった。彼女は、恥ずかしそうに俯いた。過ぎた事を口走ったか、とも思いつつ、僕は続けた。

「真似るとか、正解とか考えるより……キミは、キミが心を込めて、思うまま歌えることを一番に考えれば、それでいいと思う。キミは、歌うのが好きなんだからさ。多分、そっちの方が、本当の音楽だよ。僕は、そう思う……」

 僕がそこまで喋り切ると、部屋は寒気がするほど静かになった。こういうセリフが自分の口から出ることの拭い難い違和感を覚えながら、僕は彼女の顔色を伺った。彼女は目を丸くして、僕の顔を見ていた。僕はその目線に耐えきれず、すぐに目を逸らした。

「ごめん、偉そうなこと……」

 その時、彼女がふいに弦を弾いた。

 そのまま、ゆったりとしたエイトビートのストロークを始める。滑らかで軽快に切り替わるコード、鳴り渡る音の波。

 彼女は、わずかに左右に体を揺れながら、歌い始めた。それは、僕らの世代にとっても馴染み深いポップスで、やはりラブソングだった。

 澄み渡って、深みのある歌声。僕はその音に、黙って耳を傾けた。寒気のする静寂はもう、この部屋から追い出されてしまった。ここには暖かさがある。僕はその暖かさに抱かれていると思った。その心地よさに酔いしれる。


 彼女は演奏を終えると、黙って聴いていた僕の方を、やや照れくさそうに見た。僕は、少しわざとらしいかと思いつつ、拍手をした。彼女が嬉しそうに笑うのを見て、僕も笑った。

 そんな時、タイミングを見計らったように、部屋のドアがノックされた。

僕は慌ててベッドから立ち、ドアを開けた。案の定、真理枝さんがそこには立っていた。

「ピザが届いたので、下で食べましょう」

「ああ、そうですね」

 僕は火魚ちゃんの方を振り向いた。火魚ちゃんはギターをベッドに置くと、柔らかく微笑んだ。

「ごめんなさい。今はいいわ。先に食べてて」

「……ああ、うん」僕は真理枝さんの方を向き直った。「体調があまり良くないと言っていて」

 真理枝さんは「なるほど」と小さく言って、僕の肩越しに、奥の火魚ちゃんの様子を伺った。

「火魚さん、ゆっくり休んでください」


 頼んであったピザは一番王道のマルゲリータで、それを食べ終わった僕と真理枝さんはリビングで気だるい午後を過ごした。ピザはもう一枚余っていたが、それは火魚ちゃんの分だというので、手をつけなかった。

「Lサイズ、一枚全部は無理じゃないですか?」

「あの子は食べますよ」

 ほどよい満腹感を獲得して、僕は何をするでもなく、ソファに倒れ込んで、ただ漠然と天井のファンが回転するのを眺めていた。脳内では、先ほどの火魚ちゃんの歌声の記憶が、繰り返し再生されていた。この視覚と聴覚と嗅覚に彼女の記憶は焼き付き、僕の認識する世界が彼女に侵蝕されていく。そういう感覚がある。

 僕はずっと、彼女に対してうじうじと気後れしているようだ。だが、その理由はとっくに分かっている……。

 僕があんまりずっとぼんやりとしているので、真理枝さんが見かねて声をかけた。

「お疲れですね?」

 僕は体を起こした。真理枝さんはあの大きな窓にもたれかかるようにして立っていた。

「疲れてるんですかね」

「気苦労でしょう。あの子と喋っていれば、そうなりますよ」

「そんな。僕は彼女のこと──」

 言いかけて、ためらう。僕は膝の上で手を組んで、俯くと、控えめに続けた。

「──好きだと思うし……一緒にいられることは嬉しいと思いますよ。でも、それでも……なんていうか、こういう気分になるのは、やっぱり……例えば、華火くんのことを好きと思うのとは、違う感じがあって……」

「ははっ!」真理枝さんはわざとらしく笑った。

 僕は少し恨めしい気分で、真理枝さんを睨んだ。真理枝さんはからかうように僕を見下ろしている。

「いいねえ、高校生」うさんくさい敬語口調を忘れて、真理枝さんはそう言った。

「そんな風に笑うんなら、喋りませんよ、もう」

 僕は立ち上がり、窓際に歩み寄った。余計なことを喋ったのは、この気だるい時間で油断したからだ。僕は外の風景を眺めた。テラスの花壇に咲くペチュニアに目が止まった。

「ああいう花とか、真理枝さんが世話するんですか?」

「あれは旦那様の趣味です」

 真理枝さんはぐっと伸びをした。強張った肩の筋肉をほぐすよう、軽いストレッチに興じている。

「あーあ、タバコ吸いたい……」真理枝さんはそんな言葉を漏らした。

 ストレッチを終えて一息つくと、僕を見て尋ねた。

「ダメですかね? 仕事中だし」

「僕に訊かれても」

「それもそうか」

 真理枝さんは、手をひらひら振って、外用のスリッパへと履き替えて、庭へと出ていった。まさか、手ぶらだし、タバコを吸いに出たわけではあるまいが。多分、散歩でもするのだろう。

 その気楽さ、文字通り肩の力の抜けた振る舞いは、ある意味僕にとって救いだった。彼女がそういう仕草を隠さないのは、すでに僕に、自分の抱えてきた秘密をすっかり打ち明けてしまったからだろう。死んだ兄のこと、この家に近づいた理由のこと。僕には、それを聞いて何をすることもできないが、彼女には誰かに話すことが重要だったのかもしれない。

 今日は、きっともう何も起こらないだろうと思った。それならば、と、僕はもう一度、彼女のもとを目指した。


 二日目も僕は家庭教師としてではなく、肩書不明の、ただの気まぐれに付き合う話し相手として過ごし、そんな一日もこうして終わっていくのだ。この五日間を過ごして、その後で、何が変わるのだろう。またいつもの日常が始まって、この家に上がることも少なくなるのだろうか。それとも、僕は華火くんとのいつもの帰り道、遠回りの途中で、この家に自然と上がるようになるのだろうか。そうなるとしたら、それはやはり、火魚ちゃんに会うため? それを望むのは、今回のように華火くんか、それとも退屈を持て余した火魚ちゃんか、あるいは僕自身がそうしたいと表明するのだろうか?

 僕は、ちゃんと日常に帰れるのだろうか……。


  火魚ちゃんはアコースティック・ギターを抱くようにしてベッドに眠っていた。

 彼女は、背びれと尻尾のせいで、仰向きに寝ることができないように見えた。セーハに支障をきたすあの水かきと同じで、彼女の身体のつくりは、陸上で暮らす上では単なるハンディキャップなのだ。奇異の目を向けられるとか差別がどうという前に、そもそもそういう隔たりが、制約が、彼女の生活には立ちはだかっている。

 彼女がギターを抱く姿は、自分に優しかったかつての想い人の面影を、大事に確かめているみたいに見えた。

「華火くんは、弾かないって言っていたよ」

 僕が言うと、彼女は目線だけで僕を捉えた。

「……だったら、もう、私がもらえばいいって?」

「もちろん、彼と相談だけどさ」

「そんな……」彼女は戸惑って、小さく呟く。「……いいの、かしら」

 僕はギターの上に添えられた彼女の手を眺めた。そして、ふいに頭によぎったひらめきを、僕は口にした。

「華火くん、向いてなかった、って言っていたな」いつか、あのギターを僕が見つけたときの、彼の言葉だ。「そういう意味だったのか……」

「どういう意味?」

「いや、あの手袋の下には、やっぱり水かきがあるのかな……って。きっと彼も、セーハで挫折したんだね」

「……違うわ」

 そう否定する彼女の声色は、その日で一番冷たくて深刻なものだった。

 彼女は華火くんのことを、肉親として、僕よりもよっぽど深く知っているのだろう。あの、僕には隠している、白い手袋の下の真実も、彼女は知っている。

「お兄ちゃんの身体は、本当に、なんともないの」彼女はそう言った。

「それは──」

 普通の人間と同じということ? 僕はその言葉を、心の内にしまいこむ。普通という言葉が、彼女にとってどれほど残酷な響きを持つだろうか?

 彼女から伝えられた真実は、彼の手袋のことを、より深く謎めいたものにしていた。じゃあ、本当に彼は、皮膚の弱さという理由だけで、あの純白の手袋を、あれほど頑なに外さないとでもいうのだろうか? いや、やはりそれだけでは納得できない。

 それに、なんともない、という彼女の言い回しも気になる。それはまるで、「病気や疾患もなく健康である」、と聞こえるような言い方で、それと反対に自分自身の身体は、病的で、不健康で、何かの基準に満たないのだと卑下しているようだった。

 僕は彼女に歩み寄った。ギターを回収するためだ。それを、華火くんの部屋に戻さなくてはいけないと思った。もちろん、彼女がそれを抱いて寝ることを咎める権利なんて、僕にはない。だが、そうしなくては、という思いが僕にはあった。

 僕がそばまで来たその時だった。彼女が言った。

「ねえ、もっとそばに来てよ」

「……今度は何?」

僕はまた、自分でも嘘くさいと思うような笑みを浮かべて、半歩だけ近寄った。しかし、彼女が「もっと」と言う。僕はベッドの縁に膝がつくまで近寄った。そこまでが僕の限界だと思ったが、彼女は言った。

「顔を寄せてよ」

 僕は逡巡した。だが、言われるまま腰を曲げて、彼女に顔を寄せた。

 真っ赤な室内が、光を返していたからかもしれないが、彼女は紅潮しているように見えた。彼女の身体の臭いが満ちたこのベッドの中で、僕の心臓は早鐘を打っている。本当は、すぐさま逃げ出したい気分だったが、彼女が時折自分を卑下して、冷たさを見え隠れさせると、やはり僕は彼女の言葉を拒否できなくなるのだ。

 彼女は身体をひねった。彼女の右手──タグの付いている方の手が僕に伸びて、僕の首の後ろに回された。彼女は、僕をぐっと引き寄せた。プールの水に引きずり込まれた時の、無邪気な力強さとはまるで違った、緩慢として大人びた誘導。僕は引っ張られ、ベッドの上に片膝を乗せた。

 眼の前に彼女の顔がある。その炎のような瞳。火の魚と名付けられるに相応しいその瞳。視線が僕を焦がした。あの黄金のビーチで感じた太陽の灼熱のように。あらゆる曖昧さを許さず、秘密のベールを切り裂いて、全てを顕にしてしまう真実の光。

 その太陽に照らされて、僕は汗をかいていた。背中に張り付いた、衣服の肌触りと、僕の影が、実体を帯びていくという感覚。それを感じながらも、僕は目を離すことができない。

 彼女は僕の耳元で囁いた。

「私、千鳥を好きになることにしたわ」

 僕は何も言わずに、ただ呼吸を止め、固唾を飲み込むだけだった。彼女はもう一言つけ加えた。

「千鳥も好きになってよ」

 彼女が空いた左手で僕の胸に触れた。

その瞬間、どす黒い欲望が、僕の中で硬化していくのが分かった。内側から暴力が襲い来る。ダメだ、覚めなくては! それが僕と取って代わる前に!

 僕は寝かせてあるギターのネックを掴むと、素早く身を引いた。僕の首を掴んでいた彼女の指の、ざらざらとした質感。僕が動いた瞬間、その激しい摩擦が痛みを伴って僕を襲った。

 僕はギターを引きずりながら後ずさった。左手で、痛む首の皮膚を押さえながら、彼女の表情を伺った。失望とも取れる無表情。

「……ごめん」僕は言った。

「気にしないで」

「……本当にごめん、失礼するよ」

 僕は、なるべく彼女の顔を見ないようすぐに振り向いて、ギターをベッドの柱にぶつけながら、ふらふらと部屋を後にする。

 分かっていたはずだ。

 僕が演じた気後れ。それは、僕自身に対する抵抗だ。僕の中に存在するそれへの拒絶なのだ。

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