第24話 贖いの答え

その名を呼ばれたのが意外だったのか、それとも不快だったのか、狐は押し黙ったまま、張り詰めた空気が漂う。葵は勢いのまま言葉を並べたが、それが正解だったかは分からない。ただ少なくとも、気を引く言葉だったのは確かなようだ。


「もしかして気に障った? だったらごめん、謝る。喧嘩しにきたわけじゃないから、怒らないでくれると嬉しいな」

「いや、別に気にしてないよ。ただ少し驚いただけさ」


葵が謝ると狐は首を軽く横に振った。声色は変わらない、だがどこかいつもと違うような気がする。顔色を窺っても狐の表情は分からない。或いは自分が緊張しているから、そう感じるだけだろうか。


「立ち話もなんだし、座りなよ。一応、椅子はあるんだ。一脚だけだけどね」

「ん、ありがと」


狐はそういうと部屋の隅のデスクから椅子を引っ張り出して葵の方に向けた。葵は遠慮せずにそこに座り、鞄を膝の上に置く。一方の狐は葵と対面するように向かい側の壁にもたれかかった。


「あんたは座らないの?」

「ああ、こっちの方が楽というか、慣れていてね。気にしないでくれ」


やや小柄な葵と長身の狐では元々かなり身長差があるが、今二人の視線の高さは普段よりも更に離れている。だが、見上げる狐の顔からは威圧感どころか侘しさすら感じてくる。目の錯覚なのかやつれたような印象だ。


「せっかくの来客だっていうのに、お茶のひとつも用意してなくて申し訳ないが、ここには普段あまり来てなくてね。すまないが何もないんだ」

「良いよ別に、そういうのは期待してないから」


おどけた身振りで言葉を発する狐に葵は短く答える。狐はその返答に小さく肩を竦めた。


「余計なやり取りがなくて好都合、とでもいったところかな。分かった、始めよう。私に話があるんだろう。何の用だか見当がつかなくて考えてたんだ。答えを教えてくれると助かる」

「色々あるよ。ありすぎて何から話すか決めてないんだ。どうしようかな」


言いたいことも言わなくちゃいけないこともたくさんある。感情のままにぶつけても良いが、それではすべてを言い切るのは困難かもしれない。葵は目線を上にやりながら少し考える。


「そんなにあるとは参ったね。思い当たるのは黙って居なくなったことへの抗議ぐらいだったんだが」

「それはちゃんと怒ってるから安心して。三日も泣かされたんだから」


間もおかずに狐が喋りだした。考える時間も与えられないほど気が急いてるのだろうか。珍しいなと思いつつ、葵は答えた。


「泣いた? どうして?」

「どうしてだろうね。ま、それは後でね」


やはり少々狐には落ち着きがないように思える。一方で葵は自分が冷静になっていくのを感じていた。狐がこの様子なら想いを伝えるのは今じゃないな、と話を先送りにする。


「もったいぶるなあ。まあ、不義理については謝るよ。せめて置き手紙でもしておけば良かったかな」

「どっちにしろ怒ったけどね。でも、ここで会えたからその件はナシで良い。言ったでしょ、喧嘩しにきたわけじゃないって。ただ話したいことと、それと同じくらい聞きたいことがあるだけ」


葵の言葉にまた狐の眉が動いた。何か引っかかるところがあったようだ。


「訊く? 私に何を?」

「何もかも、かな」


もしかしたら狐は葵の抗議だけを聞くつもりでいたのかもしれない。だが生憎と葵の要件は狐を責め立てることではなかった。


「大雑把な回答だな。それじゃあ何を話したら良いか分からない」

「そうだね、じゃあまずひとつめ。何で居なくなったの?」


当たり障りないところから話しを進めよう。つまらないかもしれないが、知りたいことに近づくにはその方が良い。


「理由はないと言ったら?」

「それはそれで納得するかもね。でも、理由はあるんでしょ? あんたは多分、無駄なことはしない」

「どうしてそう思うんだい?」

「今までのこと、思い返せば全部意味があったからね。あんたはあたしが傍に居ろって言ったからそこに居たんじゃなくて、あんたなりの事情があってあたしに付き合ってた。だから、居なくなるのにも理由があるんだって思う。違う?」


葵が自分の考えを話すと狐は顎に手を当てて、感心するように言った。


「想像力が豊かなことだ」


一呼吸ひとこきゅう置いて、狐は言葉を続ける。ひとつ、踏み込んだ。


「まあ、概ね合ってるよ。私は私の目的のために君の傍に居た。答えはこれで良いかな?」

「もうその必要がなくなったって?」

「その問いは正解だとも不正解だとも言える。足りなかったのさ」


手をヒラヒラさせながら狐は言った。葵はその言葉に胸が少し痛むのを感じる。


「足りないか。それはなんか寂しいな」

「君は何も悪くないさ。ただ、これ以上君の傍に居ても私の目的は達成されない、それだけのことだ」


狐と葵の心はすれ違う。葵は狐を満足させられないことに無力さを覚えた。悪くないなどと言わず、一緒に背負わせてほしい。だけどまだ、狐は心開いていない。話を変えよう。


「それが寂しいんだけどね。まあ、いいや。あんたの目的はなんだったの?」

「・・・」

「答えたくない? じゃあ、聞き方変える。初めて会ったとき、あんたはあの場に偶然居合わせたの?」


またひとつ、狐から余裕が消えたように見える。徐々に核心に近づいていることが肌で分かる。


「どういう、意味かな」

「そのまんまだよ。目的があって傍に居たなら、出会ったことにも理由があったのかなって思っただけ。どうかな」


葵が言い終えると、狐は考え込む素振りを見せた。それからややあって口を開く。


「・・・意図したものじゃなかった、不意打ちだったからな。私は運命だと思ったんだが」

「運命?」

「泣き声が聞こえたのさ。気になって駆けつけたら君が自殺しようとしてた」


狐の口から意外な言葉が飛び出して、葵はあの日を思い返す。だが、心当たりがない。


「あたし、あのとき泣いてたっけ」

「心が泣いてたんじゃないか? まあ、だからこの子を助けろってことだと理解した。そういう意味じゃ、出会いにも理由があったと言って良いのかな」


不思議な話だ。狐の言葉が真実なら呼びつけたのは葵自身だったのかもしれない。運命とは甘美な響きだが、狐の言うそれは恐らくロマンチックなものではないだろう。葵は質問を続ける。


「心の声とか聞こえるの?」

「いいや、まったく。あの日以来とんとだ。最近変な耳鳴りはしたが、あの日の感覚とは違う。呼ばれていると感じたのは君の一件だけだな」


首を横に振る狐の仕草に落胆の感情が見えた。葵の勘が冴え渡り、ひとつの答えを導き出す。


「ねえ、もしかして、新しい泣き声を探してるの?」

「・・・勘が良すぎるだろ」

「図星か。なんか分かった気がする。足りないって言葉の意味」


自分を助けることが狐の目的に繋がる。新しく助ける対象を探している。そして、医師から聞いた狐の過去。それらをすべて重ねれば、おのずと解答は出る。


「そりゃ怖いな。なんだと思うんだ?」

「なんて言ったら良いんだろうね。罪滅ぼしの量、かな」


その瞬間、狐の様子が変わった。


「・・・どこまで知ってる?」


葵は初めて狐の目が開くのを見た。こちらを睨むそれにははっきりと嫌悪の色が見える。


「今の会話だけでそこまで至るわけがない。医者から俺の電話番号を聞いたんだろう、そのときにどこまでのことを聞いた?」

「ほとんど先生の身の上話だよ。その上であんたと先生の関係、それから先生が探して見つけたっていう、あんたが狂った原因」


まくし立てる狐の口調はここから先に立ち入るなと警告しているようだ。だが、怖気つくわけにはいかない。葵は冷静さをたもったまま、淡々と答える。


「あんたの大切な人が亡くなったって聞いたよ。知られたくなかった?」

「・・・俺はあの人にも話してないはずなんだがな。隠しててもバレるなら知られたくなかろうが、いずれは明るみに出る話だ。君がそれを知っていることはどうでもいい」


狐は吐き捨てるように言う。動揺、怒り、焦り、様々な悪感情がそこには渦巻いているようだった。


「合点がいったよ、君は俺の罪を知っているから、罪滅ぼしなんて言葉が出てきた」

「・・・」


狐はひどく興奮している。下手なことをいえば余計に心を閉ざしてしまうだろう。まだ我慢するときだと、葵は黙って狐の言葉を聞く。


「ああ、そのとおりだ。俺は人殺しで大罪人だ。その罰として妖怪になった。俺の使命は贖罪を続けて彼女に報いることだけだ。君を初めて見たときチャンスだと思った。俺は君を自分の贖罪に利用してただけだ。偽善と欺瞞を呪ってくれ。その方が救われる」


狐は一気に捲し立てるも、限界がきたのか息を切らす。肩で息をする狐をまっすぐ見据え、落ち着いた口調で葵は言葉を返す。


「あたしにはまだ、あんたのこと、そんな風には思えないよ」

「義理でも感じてるなら切り捨てるべきだ」


狐は葵の返答を鼻で笑うと懐からナイフを取り出した。葵は慌てて止めようとするも、立ち上がる間もなく狐はそれを自分の右目に突き立てる。

 だが、目を覆いたくなるような惨状はそこにはなく、突き刺さったナイフはひとりでに抜け、軽い音とともに床に転がった。狐の顔には傷一つない。信じがたい光景に、葵は言葉を失う。


「君は正常な世界の善良な人だろう? だからこんな化け物にはもう関わるべきじゃない」


絶句する葵を見て、狐は大仰に両手を広げ、嗤うように言った。恐らくその嘲笑は自分自身に向けられたものだ。

 これが、このひとの負っている傷なんだな、と葵は思った。目を疑う現象に一瞬呆気に取られたが、冷静さはすぐに戻ってきた。狐の外見や特異性よりも心の方が葵には大事だから、取り乱す理由もない。


「そっか。じゃああたしを助けてくれたのも、贖罪のためだったんだね」

「その通りだ。幻滅しただろう」

「ううん、全然」


狐と葵の様子は真反対だった。気が立ったように早口で声を荒げる狐に対し、葵はまったく平気だという調子で答える。いくらがなり立てても手応えがない葵の態度に、狐の顔には徐々に困惑の色が浮かび、勢いも衰えていく。


「偽善でも欺瞞でもなんでもいいよ。あんたが居てくれなければあたしは死んでたんだ。友達のことも両親のことも顧みないで、大事な物全部投げ出すところだった。あんたのおかげで失くさずに済んだ。ありがとう」

「何を馬鹿なことを・・・言って・・・?」


葵の声色は落ち着いていて優しかった。感謝の言葉を聞いた瞬間、なぜだか激しい耳鳴りとともにめまいがした。それから心臓が痛みだし、狐は自身の左胸を掴んだ。何が起きているのか分からない。どうしてか葵の言葉を聞くと苦しくなる。


「それからもういっこ、やらなきゃいけないことが出来た気がする」


苦痛に顔を歪める狐の様子は気になる。心配で手を差し伸べたくなる。だが、今しなきゃいけないことはそうじゃないと飲み込んで、葵は凛とした態度で言った。


「ねえ、あんたさ。罪滅ぼしが済んだら何をするつもりなの?」


狐は答えない。答えられない。言いたくないわけじゃない、だが身体がいうことを聞かない。


「死にたいんでしょ。分かるよ」

「・・・だったら・・・なんだと・・・?」


狐は絞り出すように問い返す。肩で息をしながら片手で壁を掴み、崩れ落ちそうになる身体を必死で支えている。そのうち姿勢も崩れて視線がだいぶ下に下がっていた。そして葵は立ち上がるとつかつかと狐の目前まで詰め寄り、顔を思い切りひっぱたいた。


「止めるに決まってるだろ! バカ!」


そして葵は留めていた感情を爆発させた。大した力でもなかったはずなのに叩かれた頬は激しく痛み、心臓の痛みもさらに増した。


「君には、関係ない、だろ・・・」

「あんたになくてもあたしにはある!」


短く、そして強い言葉で葵は狐の言動を否定する。


「あんたが自分を責めるならいくらでも責めればいい、許せないならそのままでいい、ずっと罪滅ぼしがしたいならし続ければいい。だけど、死ぬことだけは許さない!」


葵の声が責め立てるものだったならどれだけ楽だっただろうか。確かに語気は強いのに、怒りはなく、断罪でもない。まるで叱りつけるような言葉が耳を突き抜け頭の奥に突き刺さる。それが苦しくてたまらない。

 葵は一旦話すのを止めて、気持ちを落ち着かせるように息を整え、狐の様子を見やった。何故急に苦しみだしたのかは分からないが、自分の言葉と無関係ではないだろう。狐にもまだ言い分はあるはずだ。言葉を止めたのは狐の回復を待つためだった。

 黙って様子を観察していると予想どおり、荒かった狐の呼吸が少しずつ落ち着いていくのが分かる。そしてややあって、狐は再び口を開いた。


「ははっ・・・。それが罰だとでもいう気か? 彼女は俺のせいで命まで失ったんだ。俺がのうのうと生きていて良いわけが」


だが、狐が最後まで言い終わる前に、葵は鞄から封筒を取り出して狐の言葉を遮るように、それを眼前に突きつけた。


「これは・・・?」

「大事な預かりもの。あんたが今一番、受け止めなきゃいけないもの。早く開けて、中身を見て」


それは医師から託されたものだった。彼が狐を救うために死に物狂いで見つけ出したが、渡せずにいたもの、葵に預けられた最後の切り札。切るべきときはここしかないと思った。

狐は訝しみながら葵からそれを受け取ると、恐る恐る封を切る。すると中から真新しいお守りと狐のマスコット、そして二つ折りになった綺麗なカードがでてきた。

 カードの端には見覚えのある筆跡で「影山さんへ」と書かれている。震える手でカードを開き、そこにあった文字を目にして狐は動きを止めた。


『HAPPY BIRTHDAY』


それは春川からの誕生日プレゼントだった。狐の脳裏に遠い記憶がフラッシュバックする。確かにあのとき彼女は『来年の誕生日まで』と言っていた。確かにあの事件の日は四月の終わり、自分の誕生日まで二週間ほどの時期だった。


「そんな、まさか」


まさか、彼女が自分にこれを? 俺は、俺にはそんなものを貰う資格は・・・。


「あたしは、春川さんって人のこと何も知らないけど、きっと素敵な人だったんだろうね」


狐の思考を葵の言葉が遮る。その声は痛いほどに耳に突き刺さった。


「こんなに想われてるのに、あんたはそれを裏切るの? 誰も、あんたに死んで欲しいなんて望んでないよ」

「―――!」


『誰が望んだ』


葵の言葉に重なって狐の脳裏にあの声がよぎる。もしかして、重大な勘違いをしていたのだろうか。


『為すべきことはなんだ』


死ぬことが贖罪ではないのか。


『もう一度見つめ直せ』


何を見つめ直すのか、その答えは――


「あんたいつか言ったでしょ。人生は何度でも逆転できるって。でも死んだらおしまいなんだって。やり直さなくて、本当に良いの?」


答えは、目の前のひとが持ってきた。あの日、決定的に間違えたのだと狐は気付いた。誰も自分の死を望んでなんていなかった。ただ自分が自分のために死にたかっただけだったのだ。本当にしなければいけないのは、そんなことじゃなかった。

 葵の言葉を聞くと苦しかったのは、そんな自傷行為を否定されていたからだ。目を逸らさずにに向き合えと胸ぐらを掴まれていたから、心臓が痛んだ。

 狐は春川からのプレゼントを手にしたまま、力なく床に座り込んだ。


「・・・俺はもう、死んでるんだよ」


この言葉が逃げだということは、狐にももう分かる。あの日、自分は既に死んだものだと思っていた。だから、死ぬための後始末をしてきたつもりだった。


「ううん、生きてるよ。あんたはまだちゃんと生きてる。一緒に生きよう、一生懸命。それがきっと、報いるってことなんだよ」


だが最後の逃げも否定されてしまった。自分はあのとき、生かされたのだ。生きて報いろと、諭されたのだ。今になって、ようやく理解した。

 狐は泣き崩れた。涙などとっくに枯れたものだと思っていた。春川が死んだときも流れなかったのに、何故か今は止めたくても止まらない。こんな顔は見せられない。

 葵も一緒になって泣いた。安堵なのかそれとも狐の悲しみが伝播したのか、とにかく二人して声を上げて泣いた。


二人が泣き止むまでどれほど時間が経っただろうか。体感的には何時間もそうしていたような気がするが、実際にはそれほどでもないかもしれない。顔を見合わせるとふたりとも真っ赤な目をしているが、表情はどこか晴れやかだ。


「すっごい泣いたね」

「ああ、自分でも驚きだ。まだ俺は泣けるんだな」

「いいじゃん、生きてるって感じで」


冗談交じりに葵は言う。目を合わせるとなんだかおかしくて、今度は二人で笑った。それから、狐が口を開く。


「・・・ありがとう、おかげで目が覚めた気がする」

「どういたしまして」

「俺は自分で自分に呪いを掛けてたんだろうな。そのせいで、見失ってた」


狐は話しながら立ち上がり、デスクの前に立って引き出しを開けた。。さっきまでお守りを濡らしていたはずの鮮血は赤黒い染みに変わっている。目を閉じて短く祈り、そしてまた引き出しを閉じて、葵の方を向き直る。


「罪の意識は変わらない。償わなきゃいけない。俺は多分、一生自分を許せない」

「うん」


たとえこの二年間が間違いだったとしても、春川を守れなかったのは自分の責任だ、そこは変わらないと狐は思う。葵は狐の言葉にただ頷く。


「でも、死んで贖えることなんてちっぽけだな。生きて償い続けるよ。きっと、そう望まれてるから」


だけどよく考えたら当たり前のことだった。死んだら終わりだ。生きている方がたくさん償える。たくさん報いることができる。絶対、その方が良い。


「うん、よく言った!」

「うおおっ!?」


狐が話し終えると葵はたまらなく嬉しくなり、興奮のままに勢いよく飛びかかった。不意を突かれた狐はバランスを崩し、二人して床に倒れ込む。


「いたた・・・。おいおい、いきなり無茶するなあ。怪我はないか?」

「平気平気。受け止めるの上手いじゃん」

「そりゃどうも」


葵にのしかかられたまま、狐はぼーっと葵の様子を見る。何かを考えているような素振りだ。


「人の顔じろじろ見てなに?」

「いや、重くなったなって」

「失礼な!?」


いきなりの暴言に葵は目を丸くした。怒りよりも驚きが先に立つ。葵が声を上げると狐は慌てて弁明を始めた。


「ごめん、そういう意味じゃない。デリカシーがないのは昔からなんだ。自覚はしてるから怒らないでくれ」

「んー、じゃなによ」


別に怒ってもいないが葵はわざとらしく頬をふくらませた。狐が困った様子でいるとついイタズラをしたくなってしまう。


「初対面のときに言ったと思うんだよな、痩せてるって。今言葉を選ばず言い直すなら、やつれてた」

「あー、あったねそんなこと」


あの日は捻くれてて皮肉に聞こえたが、今になってみれば当時はやつれてて当然だったと思う。何年も経ったわけでもないのになんだか遠い昔のようだと葵は感じた。


「だからその、健康的になったなって」

「そうだね。お陰様でね」


葵は狐の顔を見てニッと笑う。きっとあの日が昔に感じるのは、今ちゃんと生きようとしているからなのだろう。真反対だから、もうとっくに過去になっている。だけど、決して忘れないでいようと思う。これからもちゃんと生きていくために。


「ところでさ、ここで終われば全部丸く治まって、大団円なんだろうけど、まだ話が残ってるんだよね」


さて、言わなきゃいけないことは言い終えた。ここからは言いたいことを言うターンだ。心臓が高鳴る。


「あー、なんかそういえば聞いてないことがあったな。三日三晩泣いた理由だっけ。今ちゃんと受け止められるか分からないぞ」

「ごめんだけど、受け止めるか投げ返すかどっちかして。これ言うために会いにきたんだから」


急に真剣な様子になった葵に狐は気圧される。なにを言われるのか気が気でない。葵は狐の上に跨ったまま大きく深呼吸をして、狐の目をまっすぐ見て言った。


「好きです。あたしと付き合ってください」

「・・・えっ?」


微塵も想定していなかった言葉に狐は思わず聞き返してしまった。声を発したあとで「しまった」と思ったが、葵は案外平然としている。


「二度言わせるなよ。好きだって言ってんの。はい、回答。いますぐ、早く」


恥じらいもなく答えを催促する葵の姿に、覚悟が決まりすぎてるんじゃないか狐は思った。とても困る、保留にしたい。だが回答しなければいけない。


「いや、ごめん。ちょっと、受け止められない」

「それはダメってこと? 振られたって捉えていいの?」

「いやその、振るとか振らないとかじゃなくて。わからないんだ。あーだからその、応えられない・・・これはやっぱり振ってるか・・・?」


葵にとってフラれるのは予定調和だった。素直に考えて、今の狐が自分の想いに応えてくれるはずもなく、回答は分かりきっていたので、大してショックでもない。

 それよりも、今まで見たことないほど混乱している狐の様子があまりにもおかしくて、堪えきれずに大声で笑ってしまった。


「あはははは! フラれちゃった! あははははは!」

「えーと・・・大丈夫?」

「大丈夫、大丈夫! 分かってたし、フラれた程度で諦めないから! そんなことより、今のあんた面白すぎ! あはははは!」


自分の上に跨ったまま、笑い転げる葵の様子を狐はしばらく呆然と眺めていたが、やがて呆れたように口を開いた。


「君、本当に変わってるよな・・・」

「変わり者はお互いさまでしょ」

「違いない。そろそろ降りてくれるかい?」

「はーい」


葵が狐の上から降りると狐も立ち上がり、埃を払うように膝を軽く叩いた。泣いて笑って、すべてが落ち着いて、日常が戻ってきたような感覚がする。


「ね、最後にお願いがあるんだけど」

「はいはい、なんでしょうお姫様」


葵が狐から一歩離れ、顔を見上げながら尋ねると、狐はいつもの調子で冗談めかして返した。


「また一緒に居てくれる?」


そして、葵は手を差し出す。


「もちろん、喜んで」


その手を取って、狐は笑顔で答えた。

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