第9話 人生と逆転と 4/5
葵がオセロの定石を知っているのは幼少期に父に教わったからだ。初めて遊んだのは六歳のときだった。最初から父は容赦がなくて幼い葵はそれはもう目も当てられないくらいに見事に負けた。もう一回、もう一回と泣きつくも何度やっても結果は変わらず、その度に葵は泣いた。
ついに母が父を大人げないと叱ると、次はあっさり勝ててしまった。父がわざと負けたのだ。これで満足だろうという両親の考えとは裏腹に、葵はその日一番激怒し手が付けられないほど泣きわめいた。それから父はなんとかして葵をあやすと、オセロの指し方を一から葵に教えたのだった。
自分で思い返しても変わっているなと葵は思う。単に負けるよりもわざと勝ちを譲られる方を嫌がる幼児は中々いないだろう。自分は元々人一倍負けず嫌いだったのかもしれないな、そんなことを考えていると沸騰しかけた頭も落ち着いてくる。
「あっ・・・」
そして思い出から現実に帰った葵は思わず声を漏らした。しまった、乗せられた。狐の意図を探るあまりつい考えすぎてしまい、盤面も狐の動きもしばらく意識から外れていた。それ自体が注意を逸らすための挑発だとしたら、まんまと罠にハメられたことになる。
葵は慌てて盤面を見る。さっきの間に細工がされてたとしてもすぐに指摘すればまだ間に合う。注意深く石の数と位置を確認すると、意外にもすり替えられた部分はなかった。それならば、と狐の方を向くとそこには右手で頬杖をついた狐の顔がある。左手もテーブルの上に置かれており、なにかを隠している様子はない。
「長考してるねぇ。想像以上に私が強くて次の手に困っちゃってる?」
狐は頬杖をついたまま軽口を叩く。おどけた口調に反してまったく笑っていない表情は不気味さを誘うが、それだけだった。
おかしい、チャンスだったはずなのに何も仕掛けてこない。なにか違和感がある。もしかすると狐のイカサマを疑っていたことが最初からすべて間違いだったのかもしれない。手書きのマス目も大きすぎる方眼紙も過剰な数の石も、不自然な手筋も、すべて疑わせること自体が目的だったとしたらどうだろうか。
辻褄が合ってしまうことに葵は心の中で舌打ちをした。狐は自分の反応を見て楽しんでいた可能性がある。もしそうなら、またしても良いように踊らされたということだ。
「あーもう」
仮説が合っていれば慎重に作り上げたこの盤面も意味がないということになる。バカバカしい。投げやりな様子で葵は次の石を置く。
「大丈夫かい? もう黒がなくなっちゃうよ?」
大袈裟に煽りながら狐は石を置く。わざとらしい、演技がバレバレだ。或いは隠すつもりもないのか。
「そうだね。これであたしの勝ち」
「おいおい、この盤面で勝ち宣言は盛りすぎだろ。・・・あれ?」
確かに葵がその一手を指すまでは盤面の石はほとんどが白だった。しかし、挟まれた石を葵がくるくると裏返していくと狐の手が止まる。
「あれ? 私の指せる場所なくない?」
「そうだよ。そういう風に指したから。次ここね」
淡々と葵は次の手を置く。狐の指せる場所はやはりない。そのまま次々と白は黒に裏返っていき、マス目がすべて埋まったとき、数か所だけを残して盤面は真っ黒に染め上げられた。
「対戦ありがとう、お疲れ様。結構楽しかったよ」
「わ~お、容赦ないな・・・」
「勝負なんだからそりゃそうでしょ。わざと下手にやってる舐めた相手ならなおさらね」
葵はジト目で狐を睨む。茶番なら茶番ですべて黒にできれば多少は慰めにもなっただろうが、わずかに白が残ってしまったことで余計に腹が立ってくる。
「あ、バレてた?」
「あれだけ的確に悪手を打ち続ければあたしにだって分かる」
素人が悪手を打つのは自然だが、悪手だけを取り続けるのは不自然だ。狙ってやらなければそうはならないと葵は狐に詰め寄った。
「勝たせてもらって喜ぶほど子どもに見えた?」
「いやいや、そんなつもりじゃないんだけどな」
目に見えて不機嫌になった葵の様子に狐はどうどう、とでも言うような大袈裟な身振り手振りで応える。
「ほらさ、最後は大逆転だっただろ? 一見追い詰められてても、実はそこにすごいチャンスが眠ってることもあるっていうアレさ」
「ああ、なるほど。それが言いたかったんだ。人生も同じだって?」
「はい、そうです」
食い気味にまくし立てるように葵が言うと、狐は珍しく丁寧語で肯定した。
なんだ、そういうことか。それじゃあ
「それじゃ、題材が間違ってる」
葵はピシャリと言ってのけた。
「というと?」
「オセロの逆転は見掛けだけ。最初から追い詰められてたのは白の方で中盤の時点で決着はついてる。それとも、人生も同じで一度ついたリードは覆せないって皮肉だった?」
「なるほど確かに。私は最初から負けてたね」
狐はポンッとわざとらしく手を叩く。毎度のことだが大仰な身振りが目に付く。
「ねえ、あたしムカついてるんだけど。機嫌取る気とかないの」
葵はじっと狐を睨みつける。我ながら面倒くさい態度だとは思うが、こうなったのは狐のせいなのだから責任はとってもらわなきゃ困る。
「まあまあまあ。ちょっと落ち着きなって。実は君には見落としがあるんだけど、分かる?」
「はあ?」
この期に及んで何を言い出すんだと思ったが、葵を制するように狐はテーブルを指でトントンと叩く。そこには白黒の石がまだ大量に積まれていた。
「その石がなに? 無駄にたくさんあるのは最初からわかってるけど」
「本当に無駄かな? 私にはこの残った石は"可能性"に見えるけどね?」
そう言いながら今度はペンのキャップを外して石で埋まった8×8の外側、紙面の余白にグルっと一周マスを書き足しはじめた。
「なにしてんの?」
「見ての通りだよ? 私はまだ負けてない」
そうして新しくできた外周に狐は白の石を置き、挟まれた黒の石を裏返す。
「黒の置けるところはないね? じゃあ、また私の番だ」
ひとつ、またひとつと狐は石を置いていく。先ほどとは逆に、葵の見ている前で盤面は白の石で埋め尽くされた。
「ほら、大逆転だ」
あまりに突拍子のない狐の行動に葵は呆気に取られる。呆然とするあまり怒りもどこかにいってしまう。
「なにそれ、ズルじゃん」
「オセロならね。でも、人生はこういうもんさ」
白黒のコマが並んだ紙面を指さしながら狐はサラッと言ってのける。
「オセロに限らずボードゲームってのは終盤になるほど選択肢は狭まっていって取り返しがつかなくなる。でも人生は違う。盤上の広さもコマの数も有限じゃないから、選択肢はいつだって無数にあるし、いつだって逆転できる。諦めさえしなければね?」
講釈を垂れてる割にはあっけらかんとした態度だ。それらしいことを言っているが、はぐらかされたようで葵はちょっとムッとした。
「さて、次は君の番だ」
言いながら狐は葵の方へペンを転がした。またこの余白にマスを書き足せば逆転できると言うのだろう。余裕綽々な態度がまたムカつく。
大体、逆転などと方便を使っているがこれはちゃぶ台返しをしてるだけじゃないか。周到な準備も理不尽にひっくり返されうるってことだろう。なおさらそんなズルは許しがたい。
なんとかしてその物理的にも高い鼻っぱしをへし折ってやれないか、葵はペンを手にしながら考える。
「じゃあ、こうしてやる」
そしてひとつ意趣返しを思いつく。葵はニヤリと笑うとさっきの狐と同じようにグルっと一周マス目を書き足して、残った余白を斜線で潰してしまった。
「あっ」
「これであんたはもう逆転できないね」
そして狐の手元から石を奪うとパチパチと手際よく黒の石を並べ、盤面は再び黒に染め上げられた。
「参ったな。これは一本取られた。ちゃんと私の負けだ」
お手上げ、とでもいうよなジェスチャーをしながら狐は言う。あまり悔しそうな態度ではない。
「負けを認めるなら悔しがってくれないとつまんないんだけど。それともこれも予想通りだった?」
「いいや、最後は私が勝つ予定だったよ? 方眼紙のサイズは計算済みだからね。何回広げられるか数えてみる?」
「はあ!?」
狐はとんでもないことを言い出した。葵が慌てて方眼紙の大きさを確認すると、確かに順番にマス目を拡張していったら狐の番で紙面の端にぶつかるようになっていた。
「何回でも逆転できるんじゃなかった?」
「人生はそうだけど、これはゲームだぜ? だって最初に言っただろ、勝負しようって。決着がつくようにはしてるさ」
狐はヘラヘラした態度を崩さない。人生なのかゲームなのか一体どっちなんだ、と葵は思った。
結局、最初から感じてたように狐はイカサマをしかけていたし、腹立たしいことにその上勝ち逃げをする魂胆だったようだ。まただまくらかされた、と思ったときふと大きな勘違いをしていた可能性に思い当たる。
「もしかしてさ、あんたの言う"ゲーム"ってオセロの対局を指してるわけじゃない?」
「うん。マス目を勝手に広げて良い"オセロ"なんてないだろ? "ゲーム"ってのは今までのやり取り全部。騙し合い、みたいな」
「あんたね・・・」
狐の言葉に葵は全身の力が抜けるのを感じた。本当に最初からずっと自分は狐の掌の上で踊っていたらしい。
ここまでやられてしまうともはや悔しさも感じない。ただただ、敵わないと思うばかりだ。
そんな葵の様子に構わず狐は続ける。
「君が私の企みを見抜けたら負けを認めるつもりだったんだけど、予想を超えてきたからちょっと驚いてね。悔しさより感心しちゃったよ」
はいはい見抜けなかったあたしの負けです、と言おうとしてギリギリでとどまった。今、こいつはなんて言った?
「予想を超えた? あたしがあんたの?」
「うん、仕掛けてたイカサマを見抜かれることはあるかなと思ってたけど、力技で潰されちゃうのは想定してなくてね。そういう解答もあったかーって思ったよ」
想定が甘かったな、などと狐は付け加える。葵はなんだかよく分からなくなったが、ひとつだけ確かめることがある。
「えっと、それでどっちの勝ちなの?」
「えっ? 何言ってんだ、君の勝ちだよ。私はちゃんと負け宣言しただろ。さっきからなんだか悔しそうだけど、もしかして勝ったと思ってなかったからかい?」
「あたしの・・・勝ち・・・?」
そういえば確かに狐は自分の負けだとはっきり言っていた。葵は勝手に踊らされていた気分になっていたがそうでもなかったようだ。
この狐との騙し合いに勝った、しかも狐が想定してなかった方法で。何度か反芻して徐々に状況を理解する。そして、葵はバターンと仰向けに倒れ込んだ。
「おーい、大丈夫かー?」
急に視界から消えた葵を心配して狐が駆け寄ると、葵は清々しそうな顔で笑っていた。それから自分を見おろす狐を見つけると満面の笑みでピースを突きつけてやった。
「あたしの、勝ち!」
子どものように無邪気に喜ぶ葵の姿につられて、思わず狐も微笑んだ。
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