〈路地にて・昨晩〉
月に、雲がかかっていた。
路地の隙間に、夜が凝ったような、奇妙な人影がじっと立っている。
砂色のフードの表面ではむらのある月光が踊り、影にかたどられたその下の闇でじっと息をひそめる生きものの気配をじっとりと隠していた。大きな石のような、冷たい氷のような、そんな姿。
ふとその奥に、翠の炎がともる。ぎらりと、翠色の瞳が光った。ちいさな顔を取り巻くプラチナ・ブロンドが、刃物の切っ先のように輝く。
フードをかぶった少年の前には、大きな影が立っていた。そのあまりに大きい、少年を影のみで圧し潰してしまえそうなほどの、同じようにフードをかぶった、巨大な男。………
悪夢のように立ちはだかるその影が、ゆらりと動いた。フードのへりをどれだけ深く垂らしていても、下から見上げる翠の、獣の眼差しに、そのかんばせは映る。
顔のない男。
抉れたように、顔の真ん中に、赤黒い穴が開いていた。縦長の鼻孔を露わにした裂溝の縁は引きつり、目元の皮膚が歪んでアンバランスな瞳が、ぽっかりと空いた昏い穴のように、少年を見下ろした。顔の穴とつながっている口唇裂の隙間から、尖った犬歯がぬらぬらと光って見えた。顔にある……あったはずの何もかも、黒黒と開ききった地獄の孔のようだった。
顔のない男。その言葉が、正しかった。
巨大な男が、また、ゆらりと揺れる。
太い左腕に、彼は、刃渡りの長い、片刃の剣を握っていた。インド風の持ち手の装飾は、脂や血で黒ずんでいた。
その、剣の銀色を伝って、闇が滴り落ちていた。鉄の匂いをまとう闇は、ぽとん、ぽとん、と、絶え間なく、連続的に、石畳を叩いていた。その間隔が、だんだんと長くなっていく。
翠の瞳は、夜にまぎれた獣のように爛爛と、地獄の赤黒い孔を見つめていた。まるで、自分が今からそこへ足を踏み入れようとするかのように。剣は、彼の目には入っていないかのようだった。自分が殺されるかもしれないなどとは微塵も考えていない、獣の瞳だった。
血が滴る剣を左手に持った男は、その、大きさの違う瞳で、一見、死した獣にも見える、小さな姿を――燃ゆるふたつの翠を、じっと捉えている。その、涸れた眼窩の奥に――不意に、血の色をした焔が宿る。
どこか少年の翠と共通する、破滅的なまばゆさを秘めた瞳。自らと同じように、つめたく燃える炎に呼応した、おぞましい魂の火。鼓動のように明滅するそれが、また不意に消え去り、あとには黒黒、…闇が。
男は刃をおさめ、だらりと魂を失くしたように左腕を垂らして、踵を返した。巨大な背が、路地を抜け、通りへ出る。その途端、遮られていた分の光が矢のように足元まで突き刺さった。
少年のつま先には、闇の色をした、人間の血が、月光を受けて輝いていた。
狂気的に光る瞳がその血を舐め、青い光が這入りこむ建物と建物の隙間へ辿りつく。その向こうに――蒼白い手が、石畳に投げ出されているのが見えた。
確信を得たように、その翠がぎらつく。青みがかった白目の中央に、翡翠の月が燃え上がったようだった。
彼は、身の凍るほど低い、獣の声で吠えた。
「…………――復讐の、闇よ!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます