第8話

 夏休みが明ければミナミさんたちの関心も、どこか別の方向に向くのではなかろうか。そんな望み薄な考えも浮かぶくらいに、夏休みが近付いてきている。だが、今日も今日とて罵られる。……陽乃ちゃんは生徒会の仕事だ。選挙の結果、副会長に就任した彼女は今、かなり忙しい。


「ねえ、真白ちゃん。夏休みにさぁ、彼ピと夢の国行くの。チケット代、ちょっと貸してくれない?」


 昼休みの教室。私は机の上に置かれた財布を、ただ呆然と見つめていた。ミナミさんが私の目の前で指先を鳴らす。


「ねぇ、聞いてる? 何無視してんの。いいじゃん、あんた使い道ないんでしょ? ほら、これでちょっとだけ役に立てるんだよ?」


 何も言えない私に、取り巻きの一人がくすくす笑う。


「いーじゃん、ミナミに貸してあげなよ。お金がなくても、性格さえ良ければなんとかなるけど、真白ちゃんってそれもないしさぁ」


 教室の中、私たちを取り囲む空気がどんどん息苦しくなっていく。ミナミさんは財布を手に取り、中身を確認するようにひっくり返す。


「えー、思ったより入ってないじゃん。これで足りるかなぁ?」


 私の手が震えた。止めるべきだ、取り返さなくちゃ。だってそれは……


「ちょっと、返して!」


 ミナミさんが私の財布を掴んで離さない。さっきまで笑っていた取り巻きたちも、その様子を見てニヤニヤしている。


「ダメ、それはお母さんが頑張って稼いだお金だから……!」


 それだけは絶対に渡したくなかった。お母さんが、朝早くから夜遅くまで働いて、私のために生活を支えてくれている。その大切なお金を、こんなことに使わせるなんて――。


「……あ?」


 ミナミさんが動きを止め、私を見下ろす。その顔には、底意地の悪い笑みが浮かんでいた。


「真白ちゃん、パパいないんだぁ。へぇ~、母子家庭ってやつ? うっわ、ウケるんだけど」


 下品に笑いながら、ミナミさんは財布をひらひらと振り回す。


「パパ活でもすれば? 真白ちゃんみたいな貧乏人は、自分で稼がないと無理でしょ。――ま、あんたみたいなの、誰が買うんだって話だけどね!」

「きゃははっ!」


 取り巻きたちも一斉に笑い出した。彼女たちの声が、頭の中に針のように突き刺さる。


「……!」


 悔しさで涙がにじむ。けれど、ここで泣いてしまったら負けだ。そう思って、私はミナミさんたちをキッと睨みつけた。


「なに睨んでんの?」


 ミナミさんがふてぶてしく言い放ち、ため息をついた。そして、まるで譲歩してやるかのように肩をすくめて言った。


「てか、そもそも借りるだけだし。夏休み明けには返すから。ね、いいでしょ?」


 いいわけない。取り返そうとミナミさんの腕を掴もうとすると、振り払われて肩を押された。尻もちをついた勢いで、さっきまで座っていた椅子の座面に頭をぶつける。

 ――そのときだった。


「……何、してるの?」


 教室の扉が勢いよく開き、陽乃ちゃんの声が響いた。

 空気が一瞬で凍りつく。


「陽乃ちゃん……」


 思わず名前を呼ぶと、陽乃ちゃんが真っ直ぐこちらに歩み寄ってきた。彼女の目はいつもの穏やかなものではなく、鋭く、冷たい怒りを宿している。


「……それ、真白の財布?」


 ミナミさんの手元をじっと見つめる陽乃ちゃんに、ミナミさんの表情が少し強張った。けれどすぐに、取り繕うように笑いながら言い訳を始めた。


「いやいや、これはね、ちょっと借りてるだけだし? 夏休み明けにはちゃんと返すからさぁ」


 陽乃ちゃんの問いかけに、ミナミさんは慌てた様子で言い訳を並べ立てた。声には焦りがにじんでいるけれど、いつもの調子の軽さを装っているのが明らかだった。


「だって、真白ちゃん、別に困らないでしょ? なんていうかさ、仲間内で助け合うのって大事じゃん? そういうの!」


 周囲に視線を泳がせながら、ミナミさんはなおも言葉を続けた。


「それに、真白ちゃんってさ、お金ないくせに割と節約上手そうじゃん? ほら、お母さんが頑張ってるとか言ってたしぃ、そういうのって美徳だよね~。私、そういうとこ尊敬してるっていうか!」


 取り巻きたちの方にチラリと目を向けるけれど、彼女たちも何も言えずに黙り込んでいる。ミナミさんの言葉が空回りしているのが、誰の目にも明らかだった。

 陽乃ちゃんは一言も口を開かないまま、ミナミさんを見つめていた。その視線には怒りとともに、呆れや失望が混じっている。


「そ、それにね、私たちって友達じゃん? ね? 真白ちゃんもそう思うでしょ? 友達ならさ、ちょっとくらい融通きかせてくれてもいいっていうか、そういう……」

「友達?」


 陽乃ちゃんの低い声が、ミナミさんの言葉を遮った。その一言には、鋭い刃のような冷たさが宿っていた。


「友達だって言うなら、どうして真白のお母さんが頑張って稼いだお金を無理やり取ろうとするの? どうして真白をこんなに追い詰めて、笑い者にするの?」


 陽乃ちゃんの声が震えた。それは怒りだけではなく、どこか悲しみが混じっているようにも感じられた。

 ミナミさんは顔を引きつらせ、まだ何かを言い訳しようと口を開く。


「だ、だってさ、これくらい――」


 陽乃ちゃんの手が、ミナミさんの頬に振り抜かれた。

 パァン――。

 乾いた音が教室中に響く。

 ミナミさんはよろけながらも、呆然とした表情で陽乃ちゃんを見上げた。


「な、なにすんのよ! 私、悪くないもん! ちょっと借りるだけだって言ってんじゃん! そんな、そんなことで――」


 ミナミさんが声を上げようとした瞬間、陽乃ちゃんの手が再び振り抜かれた。

 パァン――。

 二発目のビンタが、ミナミさんの顔を真横に向かせる。ミナミさんの膝が崩れ、教室の床にペタンと座り込んだ。力なく床に座り込む彼女の顔は真っ青だった。ツンとした異臭が鼻を刺す。よく見ればミナミさんが座り込んだ場所に水たまりができていた。


「ごめんなさい! 陽乃、ごめんってば!」


 そう言って泣き叫ぶミナミさんに、陽乃ちゃんは容赦なく言い放った。


「謝る相手が違うでしょ」


 陽乃ちゃんの言葉に、教室は静まり返った。ただ、陽乃ちゃんが私の方を振り返り、そっと手を差し伸べる。


「真白、大丈夫だから」


 陽乃ちゃんの手がそっと私の肩に触れた瞬間、堰を切ったように涙があふれ出した。

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