3.
朝早くから
「おはようございます。昨日は三味線に夢中になってしまいましたから、今日は張り切って片付けないと」
「えーっ、でも私、昨日の続き聞きたいですよぉ」
「大丈夫です。手と一緒に口も動かしますから」
物件と借主という二人。孫のような親友のような不思議な関係の私達。聞いてほしいという私の思いを、何も言わなくても尾畑さんが汲み取ってくれる事に何度もお礼を言いたくなった。
「三味線に没頭し始めた私ですが、流石に将来の事を何も考えなかったわけじゃないんですよ。ただ、
「ご両親はどうだったんですか?」
「初めは
「罠? 何だか急に物騒ですね」
「ある日、父に友人との食事会で三味線を弾かないかと言われてね。披露する機会を欲していたので、この魅力的なこの言葉にまんまと釣られてしまいました。とてもよく晴れた日でねぇ。母が新しく赤い着物を用意してくれていて。よく考えればおかしいのに、気付かずのこのこと出掛けて行きました」
「薄々わかった気がしますけど、黙って続き聞きますね」
尾畑さんがクスクスと笑った。
「はい。行った先は素敵な庭がある料亭でした。父の友人夫妻に三味線を聞けるの楽しみにしていたと言われ、大喜びで弾き始めました。自分の世界に入ってしまって気づかなかったけれど、弾き終え視線を上げると隣の部屋との仕切りが消え、熱心に拍手している男性がいるではありませんか。やられた、思いましたねぇ」
「やっぱりお見合いか。
尾畑さんが楽しそうに笑うと、いつもつられてしまう。
「ふふ、笑わないで下さいよ。流石、私の両親ですよね。素直に話しても来るわけないと上手に仕掛けてきたんですから」
「男性は父の友人の息子さんでした。日に焼けた肌に大きな目、少し丸みを帯びた輪郭で人の良さそうな印象を受けました。でもねぇ、そう冷静に見れてしまう程、心が動かなかったの。わかってくれる?」
「はい。とても」
「そんな調子なのに、この方と添い遂げますなんて思えるわけないでしょう。結局、恋もしていないのに流れで嫁ぐなんてあり得ない。今まで情熱を燃やせたのは三味線だけだから、私はコレと生きていくんだ。そう伝えようとした時、おまえもこちらに来なさいと父の友人が隣の部屋に声を掛けました。現れた人を見た瞬間、胸の内の宣言を即座に撤回したい気持ちになってねぇ。持っていた三味線をいつの間にか床に置いていたわ」
「もしかして、その人が
「えぇ。彼はお見合い相手の弟さんでした。変わり者との見合いなんてお断りだと嫌がるお兄様に付き合わされて来ていたんです」
「え、何だかお兄さん失礼ですね。旦那さんはどんな人だったんですか?」
「お兄様とは真逆の印象でした。女性の私より白く
その頃の写真がないものかと片付けの手を止めアルバムをめくると、まさにお見合いの日の写真が貼り付けてあった。
「あら、この日に皆で写真なんて撮っていたのねぇ。すっかり忘れていたわ」
「わぁ、旦那さん。
「これは気になっちゃうでしょ。この子はまだ大学生なんですけど、こんな出で立ちをして、自分で変わり者だと言ってしまう
「恋に落ちたんですね」
「えぇ。と言ってもお見合い相手はお兄様でしたから、あちらのご両親もお兄様の事ばかり話してきてねぇ。流石に私も
――
「お兄様でなく主人の口からその言葉が出た時は、その場の皆の時が止まっていましたねぇ」
「かっこいい!」と騒ぐ尾畑さんに「そうでしょう」と返す。尾畑さんのリアクションが良いので、何十年も前の話を現在進行形の恋の話のように甘酸っぱく感じた。
「で、どうしたんですか?」
「皆を残して二人で部屋を抜け出しました。主人の見た目と違う大胆さに、もうドキドキが止まらなくてねぇ」
「いつの時代も女はギャップに弱いんですね」
「そうよぉ。古い物に心を奪われ、文学や歴史を愛し、時代錯誤な変わり者の自分を作品のように作り上げるのが最高に愉快だと話す彼にとても惹かれました。好きな世界を追求する姿を自分と重ねもしました。ほんの少し話しただけで、この人と夫婦になりたいと強く思ってしまったんです」
「それで結婚したんですね?」
「それが、そう簡単にはいかなかったんですよねぇ」
思わず吐いた溜息に、尾畑さんの「どうしてですか?」という不思議そうな声が重なった。
「思い出して下さいよ。そもそも私のお見合い相手はお兄様なんです。私が誰かに嫁ぐのが望みならば、
「理由?」
「はい。随分と勝手な理由でしたけどねぇ」
――あなたは幼い頃の
「えぇ? それは流石にご両親の優しさと思うには無理がないですか?」
「私も何を言うかと頭にきましたねぇ。落ち込みもしました。今のように気軽に連絡を取れる時代でもなかったですからねぇ。大好きな三味線でも紛らわすのが難しい位、気持ちばかりが燃え上がってしまって……」
ピンポーン。
興奮して話している最中、突然、インターホンが軽快な音を立てた。モニターで来訪者を確認すると見知った顔が映っている。
「あら、お隣の鈴木さん。どうしたんでしょうねぇ?」
「夏木さん、見た目が私だって忘れないで下さいよ?」
「はい、上手く誤魔化します」
ガラガラ。
返事をして出て行く前に玄関の戸が開いた。
「こんにちは。どなたかいらっしゃいますか? あら、夏木さんの親戚の方かしら?」
「あ、こんにちは。はい、そうです。房江さんに頼まれて家の片付けをしていまして。あの、ご近所の方ですか?」
「そう。西隣の鈴木です。夏木さん、お家に戻って来たのかしら? 昨日、三味線の音が聞こえた気がして」
「あっ、それ私です。房江さんはまだ病院にいます。私も三味線を習っていたので」
「あら、あなただったの。ねぇ、迷惑じゃなかったら少しだけ聞かせてもらえない? 夏木さんが元気だった頃、お茶をしながらよく聞かせてもらっていたのよ」
「はい、喜んで」
鈴木さんを自宅に招き入れ、広縁にお茶とお菓子を用意する。
「そうそう、ここでいつも聞いていたの」
懐かしそうに笑う鈴木さんを見て、淋しいおばあさんの自分が少し救われた気がした。
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