- 不穏を告げるアップルティー - ⑤
休日の梅田の街は見ているだけで酔いそうな人の波で溢れかえっていて、その中に1人辛気臭い顔をした女が歩いていても誰にも気づかれない。
そう思っていたのだが、「雪子さん?」と自分を呼ぶ声がして振り返った。
するとそこには雪子の職場の上司で店長である志穂店長が外行きの着飾った装いで、梅田の街に立っていた。
「ああ、良かった。人違いだったら恥ずかしい思いをするところだったわ。雪子さんも、大阪にきてたのね、お兄さまには会えた?」
いつもの優しい朗らかな笑みを向けられ、それまで堪えていた涙がぶわっと雪子の目から溢れ出す。
「あらあら、どうしたの。涙がいっぱい出ているわ、何かあったのよね? とりあえず、どこかお店に入りましょ」
まさかこんなところで会うなんて、とカラカラと笑いつつも雪子の背中に添える手は優しいおばあちゃんそのもの。それがより一層雪子の涙腺を刺激して、涙が溢れてとまらなくなった。
そのまま雪子は阪急三番街の地下の通りにある小さなカフェに入る。
主にりんごをメインにした料理をコンセプトにしたお店らしく、店内は女性で席が埋まっていたが運よくすぐに案内してくれた。
「悲しい気持ちの時は温かい飲み物に限るわね。あっ! このアップルティーなんてどう? バラを模したリンゴのスライスが入ってるんですって。一緒にこれにしましょうよ」
何でも楽しげにこなす、いつも通りの志穂店長店長に雪子は少し泣き止んで、笑って頷く。
2人で同じものを頼んでから、何があったのかと尋ねる志穂店長店長に雪子は先ほど自分の身に起きた出来事をかいつまんで説明した。
志穂店長店長も、まさか雪子の兄が料理教室でブラックリスト入りになっている富山と同じ会社であると言う事実に目が飛び出しそうなほど仰天したが、それは厄介なことになったわねと重いため息を吐いた。
「実は雪子さんを困らせないように今まで黙っていたんだけど、富山さんに対してうちが強く出られないのにも理由があるの」
「理由……ですか?」
「そう。あたしもマネージャーから聞くまで知らなかったんだけど、うちの料理教室の親元の会社で富山さんがお勤めになられている会社らしいの」
雪子と志穂店長店長が働いている料理教室はとある大手企業の子会社の1つで、しかも富山の父がそこの会社の幹部であり富山勘司は縁故で就職して役職を与えられた、なかなか面倒な立場の相手らしい。
「雪子ちゃんはお兄様のお勤め先はご存知だったの?」
「それが、兄はうちに対して嫌味しか言ってきませんでしたからいつも聞き流すようにしてて……」
言ってたかもしれないし、言ってなかったかもしれない。
どちらにせよほぼ絶縁状態であったし、もし兄が親会社の方に就職したと知っていたとしても、その子会社の末端にいる雪子になんてお互い気づきもしなかっただろう。
重い沈黙の帳がおりたところに、注文したアップルティーがテーブルに運ばれてきた。
「お待たせいたしました、アップルティーでございます。カップにスライス状のりんごが入っておりますので、この中に紅茶を注いでお召し上がりください」
白いカップの中に三日月型にスライスされたりんごがちょこんと愛らしく顔を覗かせている。
そこへ店員の言っていた通りティーポッドから紅茶を注ぐと、紅茶のフレーバーとりんごのふわっとした香りが鼻腔いっぱいに広がった。
「素敵……」
先ほどは味なんてじっくり味わう空気でもなかった上、飲み物は雪子の苦手なブラックコーヒー。
一応ミルクと砂糖も付いてはきたものの、ちょっと甘味を足したところでコーヒーの苦さが完璧に払拭されるわけではない。
雪子はカップを持ち上げて、優しく息を吹きかけてか目と鼻と口で愉しみ、じっくりとアップルティーを味わう。
――悲しいことがあった時は、暖かい飲み物がいい。
志穂店長店長の言った通り、温かい飲み物を少し飲んだだけで、先ほどまで荒れ狂っていた心の荒波がゆっくりと凪ぎ、静まっていくような心地に包まれた。
「でも不思議ねえ、これまで男性になんてちっとも興味のなさそうだった雪子ちゃんに急に縁談が2つも舞い込むなんて」
そういうお年頃なのかしら、と微笑む志穂店長の言葉に雪子はそういえば、と今日までの出来事を振り返ってみる。
祖母からの勧められた縁談が来た直後に、兄からお見合いをさせられて。
これも全て、祖母が亡くなってから起きた出来事である。
もしかしたら、祖母はずっと雪子をあの家族から守ってくれていたのかもしれない。
そして雪子に秋人を勧めたのも、天涯孤独の身となった雪子をあの家から守るためだったのだろう。
「志穂店長のおかげで、色々と落ち着いた気がします」
「あらそう? それなら良かったわあ」
うふふ、と笑う志穂店長の顔を見ているとこちらまでほっこりしてしまう。
穏やかで朗らかなのに、しっかりとしている志穂店長。
雪子が新卒で入社してからずっと頼りっぱなしで、もしこんな人が母親だったらとつい考えてしまうのだった。
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