episode2. - 不穏を告げるアップルティー - ①
風薫る5月も過ぎ、梅雨に入った京都では雨の日が続いていた。
しとしとと降る雨に、紫や青といった紫陽花が咲き乱れる中を人々は傘を差しながら、どんよりとした天気とは反対に晴れた空のような明るい笑顔を見せていた。
雨の香りを含んだ空気がじっとりと肌に張り付く感覚は、何年京都に住んでいても一向に慣れる気配がない。
「あの、五乙女さん。これもお店作りの一環ですか?」
「そうそう、こうやって観光客の立場になってニーズを探るのも大事なことだから」
この霧雨の降りしきる中、宇治市にある三室戸寺――通称“あじさい寺”へと赴いていた。
これから祖母の遺してくれたお店を再建するにあたり、修繕や改装が必要だが、その前に“どんなお店”にするのかを考える必要があった。
雪子は秋人の好きにしてくれていいと伝えたのだが、オーナーの意見も取り入れたいと秋人が頑として譲らなかったのである。
しかし、そう言われても店作りの左も右もわからない雪子は、秋人に連れられて京都の様々なお店を渡り歩いていた。
こうすることでニーズを探るのが目的だというが、仕事よりも遊んでいる感覚が強くて、本当にこれでいいのだろうとちょっぴり心配になっている。
「足元ぬかるんでるから、気をつけてね」
「はい、ありがとうございます」
しっかり参拝を済ませた後、お寺から少し歩いたところに紫陽花畑がある。
立派な門を越えてると、紅や紫、青に白色の紫陽花が斜面一面に植えられている景色を雪子は歓声の声を漏らす。
この時期にだけ見られる光景に、見物客はそれぞれ写真を撮ったりして各々楽しんでいる。
紫陽花畑は斜面を下るような道順となっており、その先に今日の目的はここにある茶屋らしき建物も見えた。
「あれが茶屋ですかね? あんな風に紫陽花畑の真ん中にあるんですね」
「じゃあ行ってみますか」
「はい」
今日は雨の中を歩くということもあり、薄手のサマーニットにジーンズ姿の動きやすい格好で来たので、そうそう足を滑らすようなことにはならないだろうと思っていたのも束の間。
紫陽花に見惚れてツルッと足を滑らせた雪子を、咄嗟に秋人が引っ張ってことなきを得た。
「あっぶな、大丈夫? 雪子ちゃん」
「えっええ、大丈夫です。ありがとうございます」
掴まれた腕から、全身に熱が駆け巡るような感覚。
先ほど秋人が忠告してくれたところだったのに、見事にフラグを回収した気持ちになっていたたまれない。
これではまるで、雨の日のお出かけにはしゃぎまわる子供と、その面倒を見るお父さんのようである。
耳まで赤く染めつつも雪子はバランスを取り戻したが、秋人は雪子の腕を掴んだまま離す気配がなく、疑問に思った雪子は小鳥のように首を傾げた。
「あの、もう大丈夫ですよ……?」
「また雪子ちゃんが転びそうになったら、俺の心臓が持たないからこのままでいいかな」
秋人の手が、スルスルと雪子の肘から指先へと肌をなぞるように伝って、雪子は硬直した。
ちゃん付けにお姫様呼びときて、今度は手まで繋がれている。
秋人の大きな骨ばった男性的な手の厚い感触に、この蒸し暑い気温の中顔から湯気が出てきそうだった。
「……さすがにセクハラでアウトかな?」
「いえっ、そんなことは!」
「じゃあいこっか」
傘も俺の方に入ればいいから、と半ば強制的に閉じられてしまい、雪子は「あっあっ」と情けない声を出すしかなかった。
(今のはセクハラではないという意味で、手を繋ぐのを了解したわけではないねんけど……っ)
手を繋いで、相合傘。
こんな恋人にするかのような行為に、時折触れる秋人の肩や腕の感触で、雪子の心臓が爆発寸前である。
自分のような女では秋人に相応しくないと思うのに、この手を振り解かなければならないのに。そんな思いとは裏腹に、雪子の指先は秋人の手の中で大人しくしていた。
緊張で微かに震えていたかもしれないが、秋人の楽しげな横顔を見ると、何も言えなくなってしまう。
「綺麗ですね、紫陽花」
「写真でも撮る?」
「そうですね、せっかくなので」
秋人の手が雪子の手を解放してくれると、少しほっとする。
やはり恋愛や男性に免疫のない雪子には、秋人にとってはただの親切でも、心臓に悪いのである。
雪子は紫陽花の写真をスマホにおさめると、背後からもシャッター音がした。
どうやら秋人も紫陽花の写真を撮っていたようだ。
「よし、じゃあ今度こそお茶屋さんだね」
離れたと思った手が、再び雪子の手をとる。
どうやら、何をしても手を繋ぐ形になるらしい。
雪子はドキドキと鳴る胸を抑えながら、更に道を進んで茶屋へと辿り着いた。
この時期にだけ営業をしている茶屋は東屋のような小さな店構えで、ガラス張りの壁からは外の景色がよく見える。
「紫陽花のかき氷に、紫陽花パフェ……雪子ちゃんはどれにするか決まった?」
「じゃあ紫陽花パフェ……あっ、お金は自分で払いますので!」
「気にしないで。俺が買ってくるから雪子ちゃんはここで荷物見てて」
「でも、いつも出していただいてばっかりなのも申し訳ないですしっ」
「……じゃあ、ここは払う代わりに、俺からのリクエスト聞いてくれる?」
いつもこうして奢ってもらってばかりで、雪子にお財布を出す暇も与えてくれない秋人からの提案に雪子は目を丸くした。
「今度でいいからさ、雪子ちゃんの手づくりが食べたいな」
とりあえず注文してくる、とその場を離れた秋人の背中を見つめる。
雨の降りしきる中、じっとりと流れる汗で肌着が張り付く。
『なんだ、このうっすい味はよ!』
『こんなクソババァが作りそうな料理なんか持ってくんじゃねーよ!』
『お前は本当バカだよなあ。みんなが美味いって言ってくれてたのはただのお世辞。京都で生まれたくせにそういうのマジで疎いよなあ、ぶぶ漬けと一緒だよ、ストレートに言えないから遠回しに言ってんだよ』
『仲がいいとはいえ、しょせん他人の言うことだろ? お世辞じゃないってどうしてわかる、本当のことを言ってくれるのは身内だけだろ? なあ!』
過去の記憶がフラッシュバックして、小刻みに震える体を雪子は押さえつける。
あんな人の言うことなんて聞かなくていいと頭ではわかっているのに、雪子はあの出来事以来誰かに料理を振る舞うことを避けてきた。
(うちはお世辞も謙虚も遠回しの言い方もわからんアホな女やから……)
知らず知らずのうちに美味しくないものを、無理矢理食べさせてしまうことになったら、雪子は気づけない。
だって、雪子の周りの人はみんな優しい人だから。
脳裏に浮かび上がる友人たちや、職場の人、そして秋人の顔。
きっとみんな雪子を傷つけまいとしてくれる、優しい嘘をついてくれるかもしれない。それが雪子には怖かった。
そんなことを考えていると、茶屋に新しくお客が入ってきてさらに店内が賑やかになった。
入ってきたのはアジア系の観光客のカップルのようで、少し困った様子で店内をキョロキョロと見渡している。
「雪子ちゃん、お待たせ――って、どうかした?」
紫陽花のパフェをトレーに乗せた秋人が戻ってきたので、雪子は店内に入ってきたアジア人を目で指した。
「あの外国人の方、たぶん席を探しておられるのかと思ったんですが、一緒に座っても大丈夫ですか?」
「ああ、なるほど」
他の席はみっちり埋まっているが、雪子たちの席は4人掛けでちょうど2名分イスが空いている。
秋人はそう軽く返事をすると、『Hi!』と外国人の観光客に声をかけると雪子に代わって相席を促してくれた。
すると向こうも気がついてくれたようで、笑顔でお礼を答えると秋人は雪子の前の席から隣へと移った。
「Thanks!That was very helpful」
「You're welcome. Where do you come from?」
「Taiwan!We're in Japan for our honeymoon! 」
英語はさっぱりな雪子だが、相手の外国人観光客も秋人も簡単な英語を使ってくれたので、今の会話はなんとなく理解できた。
どうやら台湾から日本へ新婚旅行で訪れた夫婦だったらしい。
秋人が「Congratulations! Enjoy your time in Japan」と返していたのを、雪子も隣で頷いて見せた。
こういう時に英語が話せると自分でも祝福の言葉を伝えられるのにな、と思いながら雪子は何の抵抗もなく会話を交わしていた秋人の横顔を見つめる。
「新婚旅行でここまで来るの凄いよなあ。宇治って結構京都の中心地から離れてるだろ?」
「そうですね、もしかしたら何度か京都に来られてるのかもしれませんね」
「凄いなあ……俺が学生の頃はこんなに外国人の観光客っていなかったのに、今や国際都市というか観光都市になったんだな」
インバウンドに沸く京都ではそのあまりの勢いに地元住民に皺寄せがいくこともあるが、やはりこうして目の前で日本文化を楽しんでいる外国人観光客の姿を見ると、誇らしい気持ちになる。
それにこの新婚旅行の台湾人観光客のおかげで、フラッシュバックも治ったようで、雪子は一安心した。
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