2016
胸に三本の流れ星の傷を持つ男
町は凍りつくような冷気で満たされていた。空に浮かぶ灰色の雲は、西の端だけがオレンジ色に輝いている。長い影を引きずって亡霊のごとく立つ廃墟となったビル群に、生活の温もりはない。生まれ故郷には、今日も
「誰の墓参りだ、ヒグマ」
大介の手には
「あんたには関係ないよ、牙堂さん。何しに来たんだ」
白い息と共に、大介は問い返した。
「とびっきりの美人のオネエサマが会いに来てやったんだ。もっと嬉しそうにしろや」
またか。四年前にリサを奪われそうになった時と同じく、なぜか牙堂が大介の前に姿を現わした。真夏だったあの時とは違ってダウンのロングコートを着込んでいる。その内側に何も身に着けていなかったとしても大介は驚かないだろう。牙堂なら平気でやりそうに思えた。僅かに覗く白い生足が寒そうだ。
未成年者略取監禁の容疑で裁判にかけられた大介は、執行猶予中だった穂関優翔襲撃の件と合わせて投獄された。出所後は組織の目を逃れて潜伏していたが、今日はある家族の墓参りの為に故郷に戻っていた。牙堂はその情報を得て待ち伏せしていたのだろうか。
「キラのアニキはどうした」
「ああ、あいつか。可愛がってたお前が何回もやらかしたせいで、まずい事になった」
牙堂はイエローのレンズを装着した丸いサングラスの奥で目を細めて楽しそうに笑った。
「今、どこに?」
「さあなあ。天国って事はないだろうな。さんざん悪事を働いたからな」
大介は頬を引きつらせて奥歯を噛み締めた。
その一瞬の隙を突くように、背後から何者かが大介に突進した。振り返ると冷たい光を反射するナイフが見えた。憎しみの
素人の攻撃など、たとえ油断していたとしても、大介にとってかわすのは容易い。だが大介は、その身で怒りを受け止めた。激痛に顔を歪める。手にしていた墓花が地面に落ちた。
「覚悟しろ、この人殺し!」
涙の色をした若い女の叫びが夕闇の中に響いた。痛みで飛びそうになる意識を繋ぎ止めながら、大介は女の手を掴んだ。
「俺は頑丈だ。知ってるだろ? 腹なんかいくら刺したって生き延びるかもしれない。だから、やるならここだ」大介は自分の首筋にナイフの
にわかに冷たい雨が降り始めた。大介の腹から流れ出た赤い命が荒れた地面に広がっていく。
「リサの本名は藤美原咲奈。お前が殺した藤美原愛奈の妹だ。もちろん知ってたよな」
牙堂の言葉を聞いたリサは、目を見開いて大介を見た。
「大介さん、知っていたの? 私が誰なのか」
「お前こそ、俺がお姉さんたちを殺した男だとなぜ分かったんだ。牙堂に教えられたのか」
大介が尋ねると、リサは俯いて地面を見つめた。
「私が到着した時、お姉ちゃんはまだ生きていた。そして私に告げた。胸に流れ星のような三本の傷、と。大介さんと逃げた日の前の夜、私はそれを刻まれた男を見つけた」
リサはナイフを握った手をだらりと下げて肩を震わせている。
大介の所属していた業界内では、ライオンと戦った時の傷痕だ、いや、チュパカブラを仕留めた証しだ、などと言われているが、そうではない。子供の頃、幼なじみの三人で納屋で遊んでいる時に勝高がふざけて大介を突き飛ばした。笑いながら転んで地面を滑った大介の胸の下には小さな三股の鍬が落ちていた。
「なぜその時に襲わなかったんだ」
大介が問うと、リサは首を振りながら答えた。
「分からない。分からないよ。胸の傷を見た瞬間、私は直感した。この人がお姉ちゃんたちを殺した憎むべき敵なんだって。それなのに、なぜか怒りが湧かなかった」
「さっきは見事に突っ込んで行ったじゃないか」
牙堂が意地悪く揶揄した。
「そうだけど。憎しみと言うより悲しみと寂しさのようなものが私を動かした」涙に声を震わせながら、リサは顔を上げて大介の方を見た。「どうして? ねえ、どうしてお姉ちゃんたちを殺したの? 自分の人生を狂わせた男と共に暮らすと言い出した時は、バカなんじゃないかと思った。でも、見つめ合って微笑む二人はとても満ち足りた顔をしていた。いろいろ歪んでしまった人生だけど、お姉ちゃんはやっと幸せを見つけた。それなのに」
「ヒグマと呼ばれた殺人マシーンだからだよ、そいつが」
つまらなそうに牙堂が答えた。
「お姉ちゃんたちを殺した犯人を捕まえたくて勢いで家を出たものの、何のあてもなくて途方に暮れた。そんな私を拾ってくれたのが、なんでよりによって大介さんなの? なんの冗談よ。笑えない。笑えっこない。こんな酷い偶然がある?」
「偶然じゃないんだ」大介は痛みを堪えながら苦しい息で話し始めた。「お前の姉さんたちを殺したあと、お前と母親があの家を訪ねて来るのが見えた。俺は身を隠したが、血相を変えて飛びだして来たお前が一瞬だけこっちを見たような気がした。だから場合によっては始末するつもりで追跡した」
「でも私に優しくしてくれたじゃない。なぜなの? お姉ちゃんたちは平気で殺したのに」
「平気なものか!」意外なほどに大きな声を出した大介に驚いて、リサはピクリ、と身を震わせた。「俺が今までに仕留め損ねたのは二人だけだ。一人は穂関優翔。そしてもう一人は……俺自身の心だ」
「なんの話よ」
「心という奴は、どんなに殺してもしぶとく蘇る。そして俺を責め立てる」
「あなたの中に残された良心が私を殺す事を躊躇わせた。そういう事?」
「そんなきれいなものじゃない」大介は微かな笑みを口元に浮かべてゆっくりと首を振った。「犯人を目撃したかもしれない危険な人物を監視下に置く為だと自分に言い聞かせて、俺はお前を家に連れ帰った」
だが、本当は恐かったんだ、と大介はリサと暮らす事になったいきさつを語り始めた。
あの場でお前を始末するのは簡単だった。でも、お前まで殺してしまったら心が壊れないという自信がなかった。死なないくせに壊れようとするんだよ、心という奴は。
言い訳になるかもしれないが、ターゲットを消去するのは、ある意味、条件反射のようなものなんだ。飛んで来たピンポン球に向けてラケット振って打ち返すのと変わらない。それでも、何かが心から零れ落ちて失われていくのを毎回感じたけどな。ましてや任務外の殺人は、自ら明確な意思を持ってラケットを振り上げ、ピンポン球を叩き潰さなければならない。
震えたよ。なんの警戒もせずに俺の隣で穏やかな表情を浮かべて眠っているお前を見ていると、体の震えが止まらなかった。おかしいだろ、既に何十人も無情に殺してきた俺なのに。怖いんだよ、もしもお前を手にかけてしまったら。そして心が壊れたら。その時、俺はいったい、誰なんだろう、と。
「殺し損ねているうちに、私との生活が続いてしまったという事?」
「違う。最初は、危険を感じれば始末するつもりで手元に置いた。だが俺は……リサ、と呼ばせてくれるか。いつの間にかリサを大切な存在だと思うようになっていた。かけがえのない人なんだ。他人の大事な人をさんざん殺してきた俺なのに、リサ、お前がいなくなる事には耐えられなかった。ずっと傍にいて欲しかった」
「大介さん……」
リサの手を離れたナイフが、雨に濡れた荒れた大地に落ちて小さな金属音を立てた。震える肩に大介がそっと手を置くと、リサは赤く染まった大介のシャツにしがみついて顔を
その時、いくつもの人影が土手を駆け上がって来るのが視界の隅に見えた。そいつらは二人取り囲んだ。
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