2007
碧い瞳の絵莉朱
本当にこんな所で世界的に権威のある指揮者コンクールが行われるのだろうか。
ゲルヒェヴェーツェン王国東部の田舎町、トラウムシュタットの駅に降り立った優翔は、間違ったところに来てしまったのではないだろうか、という不安に駆られた。
アニメで言えば、転生した主人公が二番目に訪れる少し大きめの町、ぐらいの感じだ。それなりに賑やかではあるが、首都のように洗練されてはいないし、最先端の文化が花開いているわけでもない。
だが、木や煉瓦などの古典的な建材で構成された素朴な町並みをしばらく歩くうちに、こういう生活を送る風土だからこそ生まれる音楽もあるのだと感じ始めた。
それを自らの皮膚感覚として体験できただけでも、ここに来た意味はある。優翔が相手にしている音楽の正体は、まさに今、彼の全身を包み込んでいるこの空気感そのものなのだから。
トラウムシュタット音楽祭のクライマックスとして開催される指揮者コンクールは、三段階に分けて審査が行われる。
まず最初に書類および動画による予備審査がある。これまでの活動実績や受賞歴、そして誰に師事したか、などがおそらく選考の材料になるのだろう。動画では当然ながら指揮をしている現場が評価される。優翔は桜紙成音楽大学の学生オーケストラに、教授を介して協力を要請した。普段から優翔の指揮で演奏している気心の知れた仲間たちは快く引き受けてくれた。
二次から先がいよいよ現地での審査だ。出場者はいきなり指揮台に立たされる。もちろん、観客を入れた状態で。課題曲はあらかじめ数曲発表されていて、その中からその場でくじ引きで決められる。演奏中、オケのメンバーはわざと間違える。それを正しく指摘できなければ失格だ。音楽性も問われるので、たんなる間違い探しの演奏では先に進めない。
優翔は二次審査まで順調にクリアした。二日後に決勝の舞台が待っている。一息つきたくて、あてもなく夕暮れの町を歩いた。
人や車のよく通る所は石畳が削れて凹み、表面がつるつるになっている。こんな所にも歴史の重みは表れるのだな、と感慨に耽りながら十分ほど進んだところに、トラウムシュタットにあってさえ古風と感じられる、
ブルーダーリヒカイト、という看板が掲げてある。辞書を開いた。友愛という意味のようだ。優翔は空腹を感じた。午後の審査を控えて、あまり昼食が進まなかったせいかもしれない。ちょうどいい。入ってみよう。
グラスの触れ合う音や陽気な笑い声が、赤い煉瓦造りの店内に満ちている。何を言っているのかほとんど分からない。でも、旨い酒と料理、そしてひと時の団らんを、家族や仲間たちとくつろいで楽しんでいるのは自然に伝わってきた。まさに、ブルーダーリヒカイト。
いい店だ。ここを見つけられてよかった。だが、注文を取りに来た若い
その時、隣のテーブルから流暢なゲルヒェヴェーツェン語が聞えてきた。顔立ちからすると、おそらく東洋人だ。鮮やかな深紅のフレアドレスを着ているが下品な派手さは感じさせない。立ち居振る舞いはとてもエレガントで落ち着いている。それなのに肌や顔だちは若さを感じさせた。
「あの、もしかして、僕と同じく
通訳してもらったおかげでようやく注文を終える事ができた優翔が遠慮がちに話しかけると、女は穏やかな笑みを見せながら頷いた。
「秋影とゲルヒェヴェーツェンのハーフです。秋影での生活が長いですけど」
「あなたのおかげで
「どういたしまして。私の方こそ未来のマイスターとお近づきになれて光栄です。
優翔は女を改めて観察した。セミロングの艶やかな黒髪やふくよかで優しい顔立ちは、ほぼ秋影人のものだと思えた。ミステリアスな輝きを湛えた碧い瞳で見つめられなければ、ゲルヒェヴェーツェンの血が入っているという印象は受けなかっただろう。
その時、記憶を引っ掻かれるような感触が優翔の胸に走った。だがよく分からない。曖昧な気分がしばらく漂ったが、いつの間にか消えていた。
「僕の名前を知っているという事は、指揮者コンクールをご覧になったのですね?」
「ええ。私も音楽を学ぶ学生ですから」
「そうでしたか。異国の地で言葉の通じる方とお知り合いになれて嬉しいです」
「分かります。私も故郷を遠く離れた時、とても心細かったので」
絵莉朱は朗らかな笑みを見せた。
「僕は今、まるで異世界に転生してしまったような気分ですよ」
「だとしたら明後日の決勝、心配ですよね。
「外国人に不利なのはみな同じです。ゲルヒェヴェーツェンの文化は前から好きだったし、それなりに勉強もしてきたんですけど、付け焼き刃の言語能力なんて現地に来るとほとんど役に立たないものですね」
絵莉朱は、何かを思いついたように眉を上げた。
「トラウムシュタット指揮者コンクールって、通訳の帯同が認められていませんでしたか」
「ええ、規定ではそうなっていたと思います」
「どうでしょう、私を通訳として雇いませんか」絵莉朱は身を乗り出してきた。「プロのオーケストラのプローベに立ち会えるなんて、なかなか得がたい経験ですから、私にも勉強になります。音楽用語はもちろん分かりますし。ねえ、そうしましょうよ」
肩にそっと置かれた手はとても温かかった。そして香水なのか体臭なのか、微睡みを誘うような優しい匂いが流れてきた。
「たいへんありがたいお申し出ですが。お恥ずかしい事に、あまり持ち合わせがないのです。あなたに十分な謝礼ができそうにありません」
絵莉朱は弾かれたように陽気に笑った。
「雇う、というのは言葉の綾ですよ。お金なんかいりません。どうか、勉強させて下さい」
「いや、それでは申し訳ない」
「だったら」絵莉朱はイタズラっぽい目をして優翔を見つめた。「本番のあと、アーベンドエッセンと夜の散歩に付き合って下さいよ。穏やかな土地ではありますけど、やはり夜の一人歩きは不安なので。それでどうですか」
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