2004
同盟国の美人の上官に背後を取られました
優翔に音楽の面白さを教えてくれた伯父の母校であり、その娘の莉子も目指していた
アマチュアの中では飛び抜けた才能を示していた優翔ではあるが、音楽の先鋭集団でどこまで自分が通用するのか、正直、不安を覚えていたからだ。
今も優翔は、明日のレッスンで課題曲をどう指揮するかを頭の中でシミュレーションしながら学内の廊下を歩いている。半ば意識が飛んでいる状態で無意識にトイレに入った。
その足が、ガクン、と急ブレーキをかけた。そこには女子学生がいた。目が合った。
優翔は反射的に華麗なバックステップを踏んで外に飛び出した。壁の案内表示を見上げる。間違いなく、男子トイレ、と書いてあった。
女子学生は優翔の見ている前で平然と手を洗い、お邪魔しました、と呟きながら立ち去った。
またか。優翔は、一つ息をついた。
桜紙成音楽大学は学生の男女比がおよそ一対九だ。他の音大もだいたいそんなものらしい。入学してからそれを知った優翔は衝撃を受けた。男女がほぼ同数だった中高でさえ、ジェットストリームのように吹き付けて来るアタックを捌くのに苦労したというのに。特に、踏み台昇降中でもお構いなしに連係攻撃してくる黒井三姉妹からのトリプル……それはともかく。
これではまるで、人型機動兵器に包囲された旧式の戦車のようだと思った。だが入学から三ヶ月ほどが経過した現在、拍子抜けするほど女子のプレッシャーを感じていない。それどころか、大学内に男が存在するという事を女子学生たちは忘れているのではないか、と感じる場面が多かった。トイレはその一例だ。
大学内の女性用トイレは、なぜか男子用の二倍程度の数しかない。男女の人数比と整合性が取れているとは言い難い状況だ。そのせいなのか、遠回りになって不便だから、などの理由で男子トイレを利用する女子学生は少なくないようだ。トイレの中に男子がいるかも知れない、なんて事を気にしている様子はない。
優翔も何度か出くわした事がある。だからと言って慣れる事はできそうにない。逆の事をやったら通報されるレベルの行為なのだから。
やれやれ、と思いながら射撃を開始すると、背後から激しく水の流れる音が聞こえてきた。
まだいるのか、侵略者は。
うんざりしていると、カタン、とロックが外れて扉の開く気配が伝わってきた。優翔はまだ戦闘継続中だったので、急いで残弾を撃ち尽くそうと気合いを入れた。その時、湿っぽい匂いのする薄暗い男子トイレ内に、明るく脳天気な若い女の声が響き渡った。
「なんと! 我らが誇る
おはよう、じゃないだろ。そう思いながらも、優翔は首だけを回して挨拶を返した。
「おはようございます、
「今日もいい天気だねえ。殺意が湧くほど容赦なく晴れてる」
優翔より二年先輩で作曲科三年生の
短く切り揃えられた髪とすっきり整ったシャープな顔立ちとが相まって、京香はもしかすると少年に見えるかもしれない。服装もいつもボーイッシュだ。だが、Tシャツやジーンズを身に着けていてさえ、メリハリの利いた女らしいボディーラインのシルエットは隠しようがなかった。
京香が在籍する作曲科と優翔の指揮科は、自分では音を出さない、という意味において同類であり、音大では悲しくなるほどマイノリティだ。そのためなにかと身を寄せ合い、合同で行事を開催する事も多い。必修単位が一部重なっている関係から授業で顔を合わせるのも珍しくなかった。
しかも、指揮と作曲の教授はこの音大の同級生で、学生時代から仲がよかったと言われている。そんなこんなで、二つの科の学生は全員、知り合いだ。と言っても、両方合わせて十名にも満たない少数民族だが。ちなみに、全学生数は軽く千を超えている。
女子に背後を取られている状態で小便器に向かって武器を構えているという間抜けな光景をいつまでも晒しているわけにもいかないので、優翔は急いで格納シーケンスに入った。だが、途中でジャミングが発生した。焦れば焦るほど、事態は泥沼の様相を呈していった。
「何をゴソゴソやっとるんだ、少年。すぐ傍に、すこぶるつきのイケてる女がおるからといって、人前で秘め事はやめたまえ。そういう事は一人の時にコッソリと……」
「誰が少年ですか。ていうか、ここがどこだか分かってます?」
「
「ええまあ。あなたは女性としてかなり魅力的ですよ、黙っていれば。それより。男子トイレと知りながら、なぜまだいるんですか」
「君が慌てているのが面白いからに決まっているではないか」
あっはっは、と京香は豪快に笑った。
何だ、この人は。できれば関わりたくない。だが、そうもいかなかった。指揮科と作曲科は同盟関係にあるのだから。
京香と並んで手を洗った。違和感が無いのはなぜだろう。
もし姉がいたら、毎朝一緒に洗面所を使ったりするのだろうか、などと考えていると、京香と目が合った。
「今、イヤラシイ事を考えてたよね」
「なんでそうなるんですか」
「だって、幸せそうに微笑んでた」
京香がお姉さんだったらいいのに、なんて思ったわけではないが、それも悪くない気がした。
「ねえ、このあと時間ある? あるんだ。よし」
「ええまあ、特別な予定はありませんけど」
「サークルの連中と飲みに行くので君も来ることになった」
「何言ってるんですか。まだ朝だし、登校したばっかりですよ?」
「貴様、次は空き時間ではないか」
スケジュールを把握されてしまっている。
「ええ。だから練習室にこもって勉強しようかと」
「交友関係を大事にして見識を広めるのも芸術の肥やしになるよ」
京香は時に、まともな事も言う。
「そうかもしれませんが。僕が何歳か知ってます?」
「一年生だから、まだ十八かな。特待生に選ばれるという事は浪人してないだろうし」
「その通りです。酒は飲めません」
「少年よ。誰が酒を飲むと言った」
「飲むと言ったら普通、酒でしょう?」
「たわけ者、珈琲だ。女神の祠という喫茶店を知らぬ貴様ではあるまい」
「駅と大学の中間ぐらいですよね? 入った事はありませんが」
入る気もしない。名前が不吉だ。あいつが出てきたらと思うと足が向かなかった。
「客を待たせてある。行くぞ、ロイトナント《少尉》穂関」
僕は軍人になった覚えはない、などと考えているうちに京香はどんどん歩いていく。
「待って下さいよ」
女に追いかけられるのは慣れているが、追いかけるのは初めてだった。でも嫌な感じはしなかった。
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